退路

2022/04/22


「千弘さんっ」
とたとたと軽快な足音とともに、名前を呼ばれて振り返る。ゆるっとした部屋着に身を包んだ久遠ちゃんが、こちらへ走ってきていた。
「ふふ、どうしたの?」
今日は彼女が学生時代の友人たちと出掛ける用があって、先ほど帰宅したばかりの彼女を「ひとりでゆっくり入っておいで」とお風呂に送り出した後だった。乾かしたばかりの髪が揺れて、いつも以上に色濃く桃の香りがする。俺と同じものを使っているはずのそれが、彼女の体臭と混ざってより甘く濃い匂いを香らせるときの、記憶が脳裏にチラつく。なるべく疲れていそうな日は手を出さない、と自制しているつもりなのだけど……すっかりこの日々で根付いたそれらの反復記憶に、最近はかなり簡単に理性を持っていかれそうになる。
「お料理中にごめんなさい……!千弘さん、ちょっとだけ屈んでもらえませんか?」
「ん?うん、これでいいかな……久遠ちゃん?」
請われるままに屈んで視線を合わせると、不意に顔が近づいた。……そのまま、躊躇いなく唇を合わせられる。食むようにして柔らかく唇で挟まれて、ようやくその唇にリップクリームが塗られているらしいことに気がつく。
「……ん、よし♡ ふふっ、ありがとうございました千弘さん♡ ちょっとリップクリームつけすぎてしまって……」
満足げな表情で離れてそう笑った彼女に、俺は不意打ちを受けてキョトンとした表情のまま見つめ返す。日常的によくキスはするけれど、大体《《応じる側》》の彼女から、おねだりもなしにしてくれることは、案外少ない。
別にそれでも不満はないし、俺とするキスは好きでいてくれるから、満足していたのだけど。本当に何気なく。ハンドクリームを分けるために、手を取って塗り込むくらいの何気なさで、無邪気にくり出されたそれに、思わず面食らってしまったのだ。
「……あ、あれ?千弘さん……?」
俺の表情を不審に思ったのか、不安そうな表情で薄くて色艶の良い唇が、俺の名前を紡いで。そうして自分が《《何をしたのか》》、ようやく理解が追いついたらしい久遠ちゃんの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「……わ、あの……ちが、違うんです……っ!これはその、うっかりと言いますか……っ!」
「あーもう、うっかり無意識でそんなことしちゃうとか、ほんとかわいー……♡ それだけ焦ってる、ってことは……久遠ちゃんにも俺を煽った自覚、あるよね?」
逃げられないように腰に手を回して抱き寄せると、わざと耳元で囁いてみせる。ちいさく身を震わせて、ただ《《囁かれているだけ》》で感じてしまう世界で一番大好きな恋人を、ひょいと抱き上げた。
――行き先は、決まりきっている。
「あのっ、千弘さん……っ!ご飯はどうするんですか?」
慌てて首に手を回して抱き着いてきた彼女が、最後の抵抗のようにそう問いかけてきた。
「そりゃあ、一番美味しいときに食べてもらいたいけど……でも、今日はそんなの後回しでいいよ♡」
うぅ……とちいさく呻いた彼女の耳元に、もう一度甘やかな囁きを落として。
「今いっちばん味わいたいのは、久遠ちゃんだからさ……♡」
「〰〰……ッ♡」
わかりやすく震えた彼女の瞳の色が、期待を孕んだ色になっているのを確認してから。責任取ってね、と言い添えて俺は柔らかにその退路を断った。