体調

2022/06/07


とくとく……と、聞き慣れたリズムを刻む心音に耳を傾けて、ほっと息を吐く。この音を聞いていると落ち着くし、不思議と楽になるのだ。なぜなんだろう、と霞みがかった頭の片隅で思考する。
「……久遠ちゃん、どうしたの?」
頭上からやさしく降ってきた声に、僅かに顔を上げて声の主――恋人の顔を覗き見た。ほんの少しだけ不思議そうな表情でこちらを見下ろして、目が合えばやさしく微笑まれる。あー、もう。どこからどう見ても完璧で、やさしくて。こんなにいい人が私を選んでくれたという事実を思い返すだけで、胸が張り裂けそうになる。
……絶対に、不幸にしたくない。常に幸せでいて欲しい。――誰かをこんなにも好きになったのは君が初めて、と語ってくれた千弘さんの、初めて生まれた〝やりたいこと〟、〝やってみたいこと〟、それらの〝欲望〟や〝我が儘〟を。私が応えられる範囲でなら全部、叶えてあげたいと思う。そうすることでしかあなたのことがこんなにも好きなんです、って伝える術を持たない私が、唯一できる好意を伝える方法で……人のことを甘やかしてばかりいる彼を、甘やかしてあげられる機会だから。
「……なんでもない、です」
そう言ってから、背中に回した腕に込める力を強くした。両腕を精いっぱい伸ばしてもまだ、包みきれないほど逞しい背中。すこしでも多くを、と思いながらぎゅうと思いきりくっついて、甘い香りのする彼の腹部に、すりすりと顔を寄せる。引き締まった身体の隆起が、Tシャツを挟んで肌に触れて、心地良い。全部同じ洗剤やシャンプーを使っているのに、どうして千弘さんの匂いはこうも落ち着くんだろう。この匂いと体温を感じるだけで、すぐに胸がいっぱいになる。許されるならずっとこうしていたい気さえするほど。
……けれど、彼は底抜けにやさしくて。求められれば応えたい気質の、自分のことを後回しにしてしまう人だから。私は、彼の足手まといになりたいわけじゃない。むしろ逆で、いつもお仕事に全力で取り組む千弘さんを、笑顔で送り出して、それから……ほっとひと心地のつける、彼にとっての安寧の場でありたい。まだこの生活をはじめて間もない頃に、それこそ……このお家の合鍵を、千弘さんがくれて。名実ともに、この家が〝私の帰る場所〟になった日。あの日に彼が言ってくれた『俺が唯一、羽を伸ばして止まっていられる……安心できる人』という言葉と、〝止まり木〟という表現が、私自身にとってもとてもとても嬉しい言葉で、その言葉をもらったからこそ私の中で指標が決まったから。
だからこそ、それを体現できる人でありたいと、あの日から自然とそう思っている。――ねぇ、千弘さん。私はあなたが言ってくれた、止まり木で在れているでしょうか。あなたが唯一、〝AV男優のチヒロ〟ではなく《《ただの高嶺千弘》》として、なんの気兼ねもなく素を晒け出していられる人で在れているでしょうか。……そんな風に自問自答をしながら、ただ甘えるように鼻先を擦り寄せる。
「久遠ちゃん、ちょっとお顔見せて」
「……だめです。まだくっついてたいので……」
「……困ったなぁ、じゃあちょっと、首、触るからね?」
じっとしてて、と片手で頭を撫でられて、うんともいいえともつかない返事を喉で返した。くすっとちいさく笑ってから、大きな手が伸ばされて、やさしく髪を払ったあと、するりと服の隙間から首筋に触れる。その手がすこし冷たくて、思わず身体が反応した。ああ、でも……その温度さえも心地良い。
「んー、やっぱり。久遠ちゃん、いつもより体温高いね。熱は出てない、と思うけど……ちょーっとぼんやりしちゃってるもんね。ここしばらく気温も安定しなかったしなぁ……。今朝もちょっと身体冷えてたし……」
すっかり知られ尽くしているせいで、今では私よりよほど、千弘さんの方が私の身体の不調に目敏いのではないかと真剣に思う。
基礎体温から周期まで、話した記憶もないのだけど、千弘さんはそのおおよそをいつの間にか把握している。……なんなら、私が自分でこのタイミングでの不調はそれだと気付くよりも前に、万全のケアをされている始末だ。寝起きの自分の体温が、今日はちょっと低い、だとか……自分でも感覚だけではわからないのに肌感覚だけで完璧に言い当ててくるので、千弘さんはすごいなぁとただただ感心しきりになってしまう。一度素直に感心して本人にそう伝えたら、「他ならぬ世界で一番大好きで大切な彼女のことだもん、俺にできる全力を尽くすに決まってるでしょ♡」と盛大な殺し文句を浴びたので、それ以来は胸の裡で思うだけにしているけれど。おかげさまで、一緒に暮らすようになってはや半年以上が経過した今も、体調を崩して寝込んだことは一度もない。
「今日はあったかくして、もう寝よっか」
言い聞かせるように、ひときわやさしく頭を撫でられて、思わず顔を上げる。待ち受けていたかのように額に柔らかにキスを落とされ、耳が熱い。
「ほーら、あんまりそのかわいいりんご顔を見てると、俺はまたいつもみたいに欲しくなっちゃうから、ね?」
言うことを聞いて、と諭すような口調にいつもなら大人しく引き下がるのだけど……。今日は、このまま引き下がるのは嫌だった。自分でも珍しいなと思いながら、もやつく気持ちを形容しようと言葉を探す。
「……私の事情で千弘さんに我慢させてしまうの、嫌なんです……」
体調が悪いと言っても、熱が出ているわけでもない。周期的にも予定はまだ先で、本来なら千弘さんはそのつもりだっただろうし。天気が良くないことに起因してのものだろう、と今日の天候を思い出しながら考える。恐らく、だけど……そう間違ってもいないはず。それに、なによりも……ただでさえ千弘さんに《《合わせてもらっている側》》の私の都合で、なるべくなら振り回したくないのだ。思っていても抑えていた本音が、ぽろりと溢れてしまった。
……わかっている。千弘さんはいつでも〝ふたりで気持ち良くなれること〟を優先してくれていて、だからここで無理することも望んでいないなんて言うことは――、とっくに。だからこれは、ただの私のエゴだ。困らせるつもりはなかったのに、困らせるようなことを言ってしまった……と言った瞬間から後ろ暗い気持ちになって、ぱっと顔を逸らす。罪悪感の滲んだ顔を見られないように、誤魔化すようにして再び千弘さんの身体に顔を埋めて隠した。
「……と、とりあえず!まだもうちょっとこうしてたいです……!」
だいぶ無理な誤魔化し方だったけど、千弘さんはちいさく笑って頭を撫でてくれる。余計に気まずくて、先ほどより強く顔を押し付けた。うぅ……と唸ってから、小さな声で「ナシです、ナシ……。忘れてください……」と白旗を上げる。というより、いたたまれなくてもうさっさとギブアップしたかった。体調が悪いということで、なんかもう色々と今日のことは忘れてほしい。弱ってると甘えたくなってしまうとか、そういうところも含めて。なんかちょっと気恥ずかしい。
「えー、忘れちゃうのはもったいないかなぁ♡」
「千弘さん〰〰〰っ」
もごもごと抗議の声を上げても、意に介されずにくすくすと笑う千弘さんに諦めて顔を上げようとした――ときだった。背中をそっと大きな手のひらに支えられて、千弘さんがそのまま後方――ベッドに身体を倒した。完全に千弘さんに寄りかかる形になっていた私も、つられて一緒に倒れ込む。
「わぷ……っ」
べち、と硬い腹筋に鼻をぶつけて思わず声を上げて鼻を押さえた。顔を上げると、千弘さんも破顔している。あまりに楽しそうなので、抗議しようと思っていた気持ちもどこかへいってしまった。
「ごめんごめん、息が腹筋にかかってくすぐったくて……ふふっ」
「わわっ、それは……ごめんなさい……っ!」
「ようやく顔を上げてくれたね……♡ ふふっ、ほーら逃がさない、よ……っ♡」
言葉とともに、片腕を身体に回されて身動きが取れなくなる。「え!?」と困惑している間に、千弘さんの表情がスッと変わった。ついさっきまでは、じゃれ合いをしている時のそれ。……今の表情は、スイッチが入ったときの顔だ。私は、それをよく知っている。こうなったら、千弘さんに対して私が断固拒絶を言い渡せるわけがない。だって、《《私は知っている》》。彼が与えてくれる快感が、どれほど気持ちいいかを。互いが互いしか見ずに、蕩けていくときの心地良さを。
「……我慢、しなくていいんでしょ?それならお言葉に甘えちゃおうかなぁ、と思ってさ……♡」
「……へ?」
間の抜けた声で返事をして、えぇっと……と視線を彷徨わせる。たしかに、そうは言った。言いました。でもそんなに急に思考を切り替えられると、追いつけないと言いますか……!
「大丈夫、無理はさせないし……いつもと様子が違ったら、ちゃぁんとやめるから。……それに」
そう言ってするりと服の裾から手が差し入れられる。くすぐったさに身を捩ろうとするも、がっちりと固定されていてまったく動けず抵抗は無意味に終わった。「っふ……」と鼻にかかった声が、抜けていく。耳が熱い。
「さっきまでと、熱さの種類が変わってるの……気付いてたよ♡ ふふっ、もう大丈夫そうだね?」
そうまで言われてしまうと、さっき「私の事情で我慢させたくない」などと言った手前、もう私は何も言えなくなってしまう。燃えるように熱い顔と耳の、茹るような……湯気でも出ているのではと思えるほどの熱さをうっすらと認識しながら、顔を寄せてこくりと頷いた。