職業的習慣
2022/06/13
パチンパチン、と小気味のいい音が部屋に響いている。男優の仕事をしている以上、定期的な爪の手入れは怠れない。高校を出てからもう何年も、週に七日、毎日爪の手入れをするのが習慣になっている……のだが。
洗濯物を自室に片付けに行った恋人が、リビングに戻ってくるなり、しげしげと爪を切る様子を背後から眺め始めた。別にやましいことはないし、お仕事への理解も深い彼女だから……本当に特に意味はないのだろうけれど。最近よく爪を切ったあとにふらりと近寄ってきては、爪の状態をチェックしていくようになったので、その度に俺はなんとも言えない気持ちになる。
……どういう意図でのそれかわからず、かと言って気分を害している様子もなく。ただ淡々と爪の長さをチェックされるのは……本当に、一体どういう意図なのだろうか。これがいわゆる〝普通の仕事の恋人同士〟だったなら、わかりやすいのはそういうお誘いだったりするんだろうけど。俺と彼女は、そういういわゆる〝普通〟からは外れたところで生活している。
仕事の間隔調整のために、俺が抱いてあげられない日でも彼女のことは気持ちよくできるし。逆もしかり、月のものの期間中でも彼女も俺を気持ちよくしてくれたりもするし。まったく、|一《﹅》|ミ《﹅》|リ《﹅》|た《﹅》|り《﹅》|と《﹅》|も《﹅》そういうことをしない日というのは、これまでほとんど存在しなかった。
そもそも、俺が彼女に同棲を持ち掛けたのは、告白の了承の返事を得た翌日のことで。それからずっと、一日の終わりにばいばいを言うのが、離れて顔が見られない時間があるのが嫌で、一緒に暮らしている。彼女の私室に未だにベッドはないし、俺たちの生活で、今のところベッドが一台しかなくて困ったこともなかった。事故に遭って俺がしばらく記憶を失っていたときですら、不安な心を埋めるために同じ布団で寝ていたほど。まあさすがに記憶喪失のときは同じ布団というだけで、いつものように彼女の小さな身体を抱き締めて寝ていたわけじゃないんだけど。
──自分で自制心が強い方だと思っていた俺は、彼女と一緒になってから、案外自分に堪え性がないことを知った。ふたりで最高に気持ちよくなるためなら我慢できても、告白したその日のうちから二度も彼女を抱いて──今では、一度きりで終わることの方が少なくなってしまった情事のことを思い浮かべて、少々自罰的に嗤う。回数を重ねるごと、知れば知るほどに好きだなぁと思う気持ちが溢れて止められなくて、ついつい溢れる思いのままに突っ走ってしまう。彼女は俺に甘くて、すぐに「千弘さんだったらそれでもいいですよ」などと甘い言葉をくれるから。
何度も俺はちょっと悪い子だから、そんな風に言われたら本気にしちゃうよ、と苦笑しながら告げても、彼女は「ダメなんですか?」と本当に真っ直ぐに、真摯な瞳でそう問いかけてくるのだ。もしかして、俺の理性がどこまで保つのか試そうとしてるんだろうか……と考えたことすらある。でもかわいいかわいい俺の彼女は、ただただ真剣に俺になら壊されてもいい、と本気で思っているらしい。そんな彼女を見ていると、こんなに真っ直ぐに受け入れてくれるのなら……本当に壊してしまってもいいかもしれない、とすら思えてしまう。
──俺でだけダメになって、乱れてくれる様を見ていると、本当に。彼女はいろんな方面で、きっとこう可愛がってあげたら素直に開花させてくれるのだろうと思うほどに、素直に反応してくれるから。耳元で囁くだけで蕩ける瞳も、掌の皮膚の薄いところをなぞるだけでちいさく肩を跳ねさせるのも、俺の体臭を好きだと言って嬉しそうに鼻先を寄せてくれるのも——全部。
全部が、愛おしくなるほどに……性癖に繋がる要素でもあるのだ。
もう十分、久遠ちゃんは染まってくれてはいるのだ。付き合って間もない頃は、|感《﹅》|じ《﹅》|る《﹅》|こ《﹅》|と《﹅》にも戸惑いながら……声を上げるだけで、自分から漏れる上擦った甘い声に困惑していることも多かった。それがいつしか、俺が教えた通りに声を抑えず……素直に快楽を享受してくれるようになって。今では恥ずかしそうに頬を染めながらも、その純真そうな見た目からは想像できないほど大胆に乱れて、俺の与える快感をその全身で受け止めてくれるのだから。
最初に身体を重ねた日に、彼女に向けて「ここは性感帯になるね」と話したそのほとんどが、今では本当に彼女の|感じるところ《性感帯》になっている。淫語のひとつも言えず、男慣れしていないのがアリアリとわかるほどに身体をガチガチにしていた俺の初々しい恋人は、今も初々しさを残しながらも素直におねだりもするし、俺のいいところを覚えて、上手に攻められるようにもなった。受け身だったキスですら、俺のことがほしいとスイッチが入ったら貪欲に舌を絡めて求めてくれる。こんなにも変わってくれたなら、十分すぎるほど彼氏冥利に尽きるはずなのだ。なのに、彼女に出逢ってから際限なく欲が生まれて止まらなくなったせいで……これで満足できればいいのに、欲張りな俺はまだまだ足りないらしい。
自分で、俺の与えるもので……彼女の〝気付いていなかっただけ〟のフェチや性癖ではない、〝新しい〟それが生まれればいいのに、と。そんな、どこまでも身勝手な思いすら、抱き始めている。彼女と送る日常が好きで、大切にしたいのに……俺で本当に壊れてしまう彼女も見たい、なんて。
……俺が、好きだと思っているのと同じだけ。彼女にも俺を好きでいてほしい。そのために彼女の素直な身体が今以上に素直に俺を好きだと認めてくれるなら、俺は今まで以上にキミにすべてを割いてあげられる。相反する思考かもしれないけど、本当にそう思っているのだから仕方ない。キミとこの先もなんてことのない日常を送りたい。でも壊してしまいたい。ずぅっと、俺はこのふたつの狭間で揺れている。
ぐるぐると巡り出した思考に、ちいさく目を閉じて気付かれないようにそっと細く息を吐いた。ふるふると頭を振って、思考を追い払う。
「……あの、久遠ちゃん?なんでそんなにまじまじと、爪の手入れしてるところ見てるの……?」
意を決して問いかけると、彼女はぱちりと瞬きをしてから、ちいさく笑みを浮かべた。彼女の返事を待つ間ほんの少し、気持ちがそわそわと浮つく。
「ん、千弘さんの仕事にかける情熱が見える気がして……見てるの好きなんです」
ごめんなさい、気が散りますよねと眉を下げて謝る彼女の顔を見つめて、俺は言葉を失った。というよりも、瞠目しかけた……と言った方が近いだろうか。
「……あ、あれ?千弘さん……?」
どうしたんですかと目に見えてオロオロし始めた久遠ちゃんの頭を、安心させるようにふわりと撫でる。頭の上に置いた俺の手に手を添えて、顔を見上げた彼女にちいさく笑いかけた。
「ふふ、本当に不思議な子だよね……キミって子は」
「えっ……、そうですか……?」
「ふふっ、でもそんなキミだから俺も好きになったんだもん♡ そう言ってもらえるの、俺も嬉しいよ」
普通は俺の職業を知っていて、受け入れてくれているだけでもすごいだろうに。こんな風に染み付いた習慣さえも、〝仕事にかける情熱〟だなんて捉え方をしてくれる子は……彼女以外には、俺の残りの人生を一生使ったとしても、見つけられる気がしない。しかもそれを、俺に合わせて言ってくれているんじゃなくて。彼女は、心の底から自分の言葉として言ってくれるから。出逢った頃からそう……キミは、無自覚にいつも俺が欲しい言葉をくれる。この仕事だったからこそ出逢えた、って。出逢った頃からこのお仕事だったんですから、職業ごと全部丸ごとひっくるめて千弘さんのことが好きですよ、と。そんな風に言われたら、どんどん好きが強くなっていくのも、仕方ないよね。
「ん、よしおしまい。さーて久遠ちゃん、ご飯にしよっか♡」
さっきまで悩んでいたのが嘘みたいに、軽くなった気持ちを自覚して……俺も現金だなぁと思いながら、そう言って笑う。
言葉ひとつで、こんなにも幸せにさせてくれるのは……大好きなキミがくれる言葉だからなんだよ。