夏の夜の夢

2022/08/11


意識が揺蕩う。夢か現か――境界線が、曖昧になる。
一瞬の微睡みのような感覚を経て、ぱちりと目を瞬く。見覚えのない場所。夜なのだろうか、辺りは真っ暗だった。人っ子ひとりいない……|射干玉《ぬばたま》の闇。目を凝らして見ようとすればするほどにどろりと己自身が溶けていくような感覚を覚えて、急に不安を覚えた。足元が崩れていくような、そんなすっと血の気の下がるような感覚がする。
ひゅうと冷えた心地に、中空に投げ出されたかのような錯覚を覚える。無意識のうちに、いつも傍にいてくれる存在に縋ろうとして――はたと気付く。
……いない、のだ。この闇の中にいるのは私ひとりで、いつも体温を感じられるほど近くにいる存在……恋人の姿すらなかった。ただそれだけで、この闇が|常《とこ》しえに続くのではないかと……不安が明確な形を帯びる。
いけない、とわかっていても一度浮かんだ思考を振り払うことは難しかった。普段は柔らかな愛情と熱に包まれて、綻びすらない『なにか』が急にこじ開けられるような感覚。
「……っ、いやだ……」
思わず声に出して、ぎゅうと胸元を掻き抱き――反射的に身体を丸める。
……盗らないで、持って行かないで。それはなによりも大切で、かけがえのないものなのだ。それがなくなったら私は、きっと――あの人の隣にはいられない。
だって、たまたま私が彼の想いを受け止めることができた〝はじめて〟の存在だったというだけで……あんなに魅力的な人なのだ。私じゃなくても、きっといつかはそんな存在が現れた。だからそのアドバンテージがなくては、私はもう……きっと見向きもしてもらえなくなる。
そんなことないとわかっていても、ときおり生まれる不安。ようやく控えめな彼が言ってくれるようになった、「いつか」の話や「ずっと」という言葉を笑顔で肯定して繋いだ手が解けないように、さらに強く握り返せるようになったのに。
――身勝手で、我が儘で、弱い私は……彼がくれるその言葉に、救われて生きている。その言葉たちに、呼吸することを許されている。
もう、疑ったりしない。もう、あんな風に彼を苦しめたりしないと――やさしくて自己犠牲を選びがちな恋人の、執着を知りたくて余計なことをしたあの日を思い出して、何度も自分に誓ったのに。私はただそこにいて、疑わずに〝受け止めることができる存在〟であればいいのだと。彼がくれる温かさに寄り添って、同じだけの温度を……返せるように。
やさしく包み込んでくれるあの体温が、ほんの少しでも寂しさを覚えた瞬間。傍にいて、心の裡まで温かくなるようなあのじんわりとした感情を、たったの一片でもいい。少しでも多く、ひとりじゃないのだと伝えるためにそこにいさせて。
――……それは、もう。|私《﹅》を私たらしめるのに必要な要素なのだ。誰にも、渡したくなどない。
愛してくれているという事実だけで十分。同じ願いを持ってくれている今の日々は、奇跡にも似た……きらきらと眩しい、私にとっての宝物なの。
持っていくのなら、どうか。どろどろとして、醜い――あんなに綺麗で汚れることのない無垢さを持った彼の魂に、見せられやしない不要な感情にしてくれたらいいのに。
ふ、と何かが抜け出る感覚がした。ぽかりと大きな穴が開いたような感覚が、次いで胸に訪れる。鉛のように鈍化した身体で、追い縋る。
強く在ろうと、まだ私のことを好きですらなかった彼が見せてくれた――弱さを、寂しさを、傷ついたことを隠さない表情を見て、そう決めた。大丈夫ですよ、と。ひとりじゃない、それだけが伝わればいいと……そう、願ったのに。
そう、最初の私は――彼に好意をぶつける気すら、なかったのだ。淡い恋心はあれど、それは与えられた『臨時マネージャー』の職には不要だった。だから私情はなるべく挟まず、『チヒロ』として働く『高嶺千弘』のために……できる精一杯をやろうと思った。体力には自信があると語った本人の談を疑ったわけではない。けれど、少しでもささやかな小傷が増えないように。手を尽くす、立ち回る。担当男優のため、と言えば動ける範囲は『臨時職』でも意外と多かった。
壁があるのは分かっていたけれど、どうか。ほんの一時でもいい、自分のためになにかをする時間を設けて――息継ぎができますように、と。|女《﹅》の私が傍にいるだけで気を張って、負担だっただろう彼に……そんな、ささやかな願いだけを向けていた。
――多くを望みすぎたのだろうか。あんなにたくさんのしあわせそうな人たちの中で、彼とふたり……神様に認めてもらえたという事実に、舞い上がっていた罰かもしれない。
「……待ってっ、お願い……!」
手を伸ばす。ひとりで真っ暗な闇の只中に放り出されることが――今はこんなにも怖い。声とともに零れた雫は、吹き抜ける風で吹き飛ばされて行ってしまった。

◇ ◆ ◇

「……ッ!」
がば、と思わず身体を起こした。周囲を見回せば、見慣れた部屋が広がっている。ぱちぱちと目を瞬く度、頬にはらはらと新しい筋が伝っていく。気付かれないようにしなくてはと、ぐいと乱暴にその跡を拭って……ちいさく、ちいさく息を吐いた。
大丈夫、アレは夢だと自分に言い聞かせるように。熱く、震える息を何度も吐き出す。悪いものが出ていってしまうように、縋るような気持ちを込めて。新たに頬を濡らす涙が流れないように、ぎゅっと目を閉じた。
「……久遠、ちゃん……?」
どぉしたの、と眠たげな声が背後でちいさく響く。震える呼吸を飲み込んで、まだ薄暗く至近距離でなければ表情も視認できない時間であることに……人知れず感謝した。
「ごめんなさい、千弘さん……起こしちゃいましたね……」
曖昧に笑って、なんでもないですと彼に告げる。どうか気付かれませんように、と心の中で念じながら。
布擦れの音がして、眠たげな目蓋を持ち上げた彼が身体を起こした。そのまま、無言で後ろから包み込むように抱き締められる。……あたたかい。
「どうしたの、泣かなくていいんだよ……?こわい夢でも見ちゃった?」
ぽんぽん、といつもの調子で頭を撫でて……低く柔らかな声が、心配そうにそう問いかける。どうしてバレてしまうんだろう、と顔を動かさない程度に視線だけを上に向けて涙が零れないように食い止めた。
「……ちょっと、だけ……こわい、ゆめを見ちゃって……」
震える声にはどうか、気付かないふりをしてくれますように。あなたを支えるために、あなたが安心して羽を伸ばせる場所であるように。……強く、しなやかな柳のような人で居ようと、決めたはずなのに。
「……そっか。怖かったね、もう大丈夫だよ。ほら、久遠ちゃん……おいで♡」
ぎゅう、と。抱き締められて、素肌から伝わる体温が――心音が、全身を包んでくれる。
「大丈夫だよ、もう俺が傍にいるからね。ふふっ……怖いのからは、俺が守ってあげるって約束したでしょ?」
あやすような手つきで、髪を撫でて何度も背をぽんぽんとやさしく叩かれる。じわじわと、体温に包まれてせり上がってきた涙を、必死で飲み込む。けれど、そんな意思に反してはらはらと静かに、涙が頬を伝っていく。声を殺して、ただ静かに。不安も一緒に流れて行ってしまいますように、と心を空っぽにする。彼の肌を濡らしていく雫を、指先で……掌で、拭おうとした刹那。
より強く、抱き締められた。大きくて暖かくて、すこし筋張った指がすいと目尻に浮かぶ雫を掬っていく。
「久遠ちゃん……俺の背中に腕回して、思いっきりぎゅうってしてみて……?」
言われた通りに身体を動かせば、「上手♡」と褒められた。さきほどよりもずいぶん密着した肌から、より鮮明に鼓動が伝わる。
「心臓の音だけ聞いて、それに合わせて呼吸してごらん。……ん、そうそう」
ただしばらく、そうして……慈しむように髪を梳いてくれる彼の呼吸に合わせて、なにも考えずただ呼吸を繰り返す。とくとくと、聞き慣れた心音が不安に飲まれた心に、平静をもたらしてくれる。ときおり甘えるようにすり、と首筋に頭を寄せ鼻をちいさく鳴らす。そうしているうちに、いつの間にか……涙は引っ込んでいた。
「……落ち着いた?それで、どんなこわい夢見ちゃったの?……俺に、聞かせてくれるかな♡」
鼻先をすり寄せて、やさしい声音でそう問われる。気まずさに、ちいさく口を開きかけて……また、噤む。
「ふふ、大丈夫。神様がいなくても、仕事を投げ出しちゃっても……それでもずっと一緒にいられる努力をするね、って言ったでしょ?」
あれは俺の本心だし、やっぱりキミだからそう思うんだよ、とちいさく笑って投げ掛けられた言葉は――私の不安を、見透かしているようだった。
「……〰〰ッ、ちひろさん゛……」
「ああほら、泣くならいつもみたいに俺でいっぱいいっぱいで泣いてくれた方がうれしいなぁ……♡」
そう言ってすこしおどけてみせた彼が、目尻にキスを落とす。泣いたせいで赤くなっているのか、恥ずかしくて赤くなっているのか……自分でもわからなくなるほどに、耳が熱い。
「……だから、ね?久遠ちゃんの体温がないとすぐに起きちゃう俺のためにも、このままぎゅうってしてるから……眠るまでの間、お話しよっか……♡」
「ん……はい」
ちいさく頷いた途端、抱き締められたままいつものようにシーツへ身体が沈む。すぐ目の前にある彼の表情は、いつもと変わらず。向けられる視線の温度は、今日も……日ごとに温かい。
――いつもよりやさしく。でも、決して腕の中から抜けられないように……掻き抱かれた腕の中は、不安など溶けて消えて行ってしまうほどに一等落ち着く温度がした。