寄る辺
2022/10/16
「……ん、あれ……久遠ちゃん、眠っちゃった?」
しばらく抱きしめたまま頭を撫で……他愛ないお話をぽつぽつと続けていたら、ふと彼女の身体から力が抜けた。
胸元に頭を預け、俺の心音に耳を傾けるようにしていた彼女の顔を覗き込むために、身体を片手で支えてほんの少し体勢を変える。
案の定、久遠ちゃんはすっかり安心しきった顔ですやすやと寝息を立てていた。相変わらずかわいい寝顔だなぁ……と思いながら、そっと頬にかかった髪を除けてやる。脱力しきった身体を支え直すと、もう一度凭れかからせるようにして体勢を戻した。
安定している呼吸と、先ほどより幾分か良くなった顔色を確認して、俺もほっと息を吐く。さらさらと流れる柔らかな毛質の髪を、梳くようにして撫でた。
「んん……」
ちいさく声を上げて久遠ちゃんがわずかに身動ぎする。起こしてしまっただろうかと、つと視線を下げてみたが……わずかに身じろぎをした後、彼女はまた穏やかな寝息を立て始めた。起こしてしまったわけではないらしい。よかったと安堵の息をひとつ吐いて、くたりと力の抜けた白く柔い肢体を抱きしめ直す。
ぽんぽんと数度頭を撫ぜながら、早く彼女の体調がよくなりますように……と心中で祈る。ちらりと視線をやった窓の向こうは、今日も鈍い色をした空が広がっていた。勢いのある雨ではないが、止む気配も見えないここ数日続きの雨模様にちいさく嘆息する。
服越しにとくとくと心地良い鼓動を感じながら、眠ってしまった彼女の耳に入らないよう……ちいさくちいさく、吐息を吐いた。
――無理を、しているわけではないのはわかっている。けれど、彼女が不調を感じながらも黙っていたことに……拭いきれない想いがぐるぐると胸中を駆け巡る。それに気が付いてあげることができてよかった、と不安と安堵が交互に訪れた。
体調が悪そうな彼女に俺がしてあげられることは〝ぎゅってして癒してあげることくらい〟なんて言ったけど、本当に彼女を癒してあげられているのかどうかなんて……自信がない。きっと彼女は間違いなく、笑顔で「もちろん癒されてます!」と言ってくれるのだろうけど。それがどの程度久遠ちゃんの力になれているだろうか。俺が彼女に救われているように、俺の存在がなにか一欠片だけでも彼女にとっての救いに――なっていればいいなぁ、と思う。
以前の俺は人並みの幸せだとか、そういったものはこの仕事をする以上……捨てなければいけないものだと思っていた。……というよりも、そう思い込もうとしていた。でなければ〝|高《﹅》|嶺《﹅》|千《﹅》|弘《﹅》〟本人を見てくれる人がいないことに、心が折れてしまいそうだったから。得られるはずがない、と思っていれば……多少傷ついても自分の心は誤魔化せる気がしたのだ。ただ、それは俺がそう|思《﹅》|っ《﹅》|て《﹅》|い《﹅》|た《﹅》|だ《﹅》|け《﹅》――だったのだけれど。実際は誤魔化せてなどいなかった。割り切ってしまえれば楽になれるのかな、と自問自答を繰り返して……結局ちいさなちいさな傷をたくさん抱えて、それから目を逸らしていただけに過ぎない。それなりにこの仕事を続けてきて、きっともう心が折れる寸前だったのだろう……と、今ならわかる。
いや、知らず知らずのうちに……ただ寄り添って俺のためにと臨時のマネージャー業に尽力してくれた彼女の存在に、甘えてしまっていたのかもしれない。いつもならやり過ごすはずの『想い合うふたりが逢うのが、こんな撮影現場なんておかしいでしょ、私と|逃《﹅》|げ《﹅》|て《﹅》』と言う幾度となく言われたことのある言葉が――その日ばかりは受け流せなかった。俺はこの仕事に誇りを持って、やりたくてやっているのに。……俺の気持ちは、どこにあるの?
軋んで軋んで、限界を迎えつつあったのだろう。事務所の幾許かの信用している人を除いて、俺が『仕事以外では女性に触れられない』女性恐怖症だと知る人はいなかった。それもそもそも、撮影を円滑かつより良く進めるために女優さんの気分を害さないよう……気配りをしていただけで、俺からそんな風に振る舞ったわけでもないのに。勘違いされて、望まれる姿がわかるが故に苦しんで――自分の心の摩耗から目を逸らして。学生時代、親に望まれるまま将来の人生を捧げようとしていた|俺《﹅》|自《﹅》|身《﹅》が渇望した、〝心からやりたいと思えること〟をしながらも、結局転校前の学校で言われていた『八方美人』『自分がない』『お人形』の言葉がどこまでも付き纏う。俺が俺でいられるようにするには、どうしたら良かったのだろう。……ただ、ありのままの俺を見てくれる存在がいてくれたら、と。ずっと、心の奥底では求めていた。
……だから、彼女がなんの忌憚もなく俺の仕事をただ真っ直ぐに受け入れてくれるその姿勢に……幾度となく救われた。相性がいいことは最初に誤ってキスをしてしまったときにわかっていたけれど、それでも。|俺《男優》に、一般人でありながら女優に間違われても嫌悪感を示さず、あまつさえ仕事で〝男優と臨時マネージャー〟として関わるなか、俺のスケジューリングもマネージメントも完璧にサポートしてくれた。
責任感もあったのだろうし、仕事を失くして困窮していたのだから、そういう面で渡りに船だった部分はあるにしても……だ。最初はどうして、と戸惑いがあった。裏があるのかとも考えた。そんなに経験もない子が、あんな風にカメラの前――人前で|粗相《キス》をされて、気にした素振りもおくびに出さず接することができるもの?
あんなことがあったのに、恥ずかしそうに顔を赤くしていた彼女は仕事で俺に接するとき、何を言ってもフラットに受け止めてくれたのだ。公私を混同せず、俺を特別扱いせずに……ひとりの人間として扱ってくれたことに、本当に救われた。……知らず知らずのうちに、仕事の最中は絶対に緩めることのない――女性恐怖症を飲み込むための、仕事スイッチが緩んでしまうほど。キミの傍は、安心できる場所だったから。
つかず離れず、踏み込みすぎることのない距離も。俺の仕事への意欲や誇りは素直に受け止めてくれるのも。……気付かないうちに彼女に惹かれるようになった俺と反対に、彼女は比較的最初から俺に好意を抱いてくれていたのに。決して向こうから詰めてくることのないその適度な距離感が、俺には心地良かった。そんなキミだから、一緒にいても苦ではなく。仕事終わりに食事に誘うなんてこと――これまでの俺はしたりしなかったのに、つい『俺が奢るから』なんて誘いを自分からするほど久遠ちゃんのことを気に入っていた。食事の時は、気が緩む。特に好物を食べているときはそれが顕著だから。……つい、素に戻ってしまう。気が緩んで、仕事のスイッチはオフになる。それでも、一緒にいて嫌じゃない……なんて。ほっとしている、そんな自分に驚くどころか――気付きもしなかったほど。彼女の存在は、自然と俺の中に入り込んでいた。
「んぅ……ち、ひろさ……ん」
――すり、と。彼女の頬が肌を掠めて、ついと視線を彼女に戻す|最中《さなか》。ちいさくちいさく、久遠ちゃんが俺の名を溢す。ふふ、と口角が緩やかに弧を描いた。幸せそうに緩んだその表情に、俺までつられて破顔する。
……ああ、いつもそうだ。俺が不安になったりするたび、キミはこうして幸せな気持ちにさせてくれるんだから。
いつもそっと寄り添って、見えるところでも見えないところでも俺のことを支えてくれる。生活も、仕事も。久遠ちゃんは嫌な顔ひとつせず、支えて……笑って、送り出して、迎えてくれる。こうして、全身で……全力で、俺のことを信頼していること。俺の傍にいて、キミがどう思っているのかを――僅かな挙動、些細な表情で教えてくれるおかげで。すべての気持ちを受け容れて、その上で同じだけの気持ちを返してくれるから俺はキミの隣で息ができている。
「……ふふ、ちゃーんとここにいるからね」
ぽん、と軽く頭を撫でながらそう呟いた。次いで俺も彼女の頭に顔を寄せる。さらさらと流れる髪が、柔らかに鼻先をくすぐった。じわりと滲む体温を、鼻先でも感じる。この温度がくれる安心感がないと、心から安らげないくらいに必要不可欠になってしまったほど。
「あったかいなぁ……」
くすりとちいさく笑んで、目を瞑った。――大きく息を吸い込むと、鼻腔を甘くてやさしい匂いが満たす。俺が世界でいちばん、大好きな香り。同じシャンプーとボディソープの匂いが、微かに彼女の体臭に混ざって香る。やさしくて温かくて、胸いっぱいに満たされていく。起こさないように、ぎゅうとその細い身体を抱きしめた。細くてしなやかで、華奢な身体。……こんなちいさな身体で、俺のぜんぶを受け止めてくれている。……元気なときに、ころころと変わる久遠ちゃんの表情が好きだ。弾けるように笑ったり、次の瞬間真っ赤に染まったり。はにかむように笑って、拗ねて頬を膨らませて。動物に可愛いと言っただけで、時折しょんぼりと眉を下げる――そんな、ころころと変わる表情が。
次に起きたときはまた元気に……俺を見上げて、ぱあと輝くそのいつもの瞳で見てくれたらいいなと願いを込めて、もう一度〝おまじない〟をかける。
「…………ふぁ……、千弘……さん……?」
もぞり……と、寄せた頭がわずかに動いてまだ眠たげな声がした。すこしだけ身体を離すと、彼女が顔を上げる。まだとろんとした瞼がやや重たげで、気付かれない程度の吐息で笑う。
「おはよう、久遠ちゃん。……体調大丈夫?」
「ん……、千弘さんの〝おまじない〟のおかげでかなり楽になりました」
「ふふっ、そっか……よかった♡」
ふわりと笑ってそう答えた彼女のその言葉に応じるように俺も笑って、前髪を手で上げて額に軽くキスをする。「ん」とちいさな声がして、彼女もまた笑う。その様子に、ひと眠りする前の体調の悪さは見えなかった。寝る前に飲んだ薬は無事に効いたらしい。……そっと、安堵の息を吐く。
「私、千弘さんにぎゅってしてもらったまま寝ちゃったんですね……」
すみません、今退きますから……と慌てて言った彼女が腰を浮かそうとするのを、「だーめ♡」と身体を抱き締めて止めた。バランスを崩してべちんと鼻をぶつけた久遠ちゃんが「わぷっ」と気の抜けた声を上げる。いてて、と鼻を押さえる恋人を見下ろしてさすがに俺も声を上げて笑った。
「もう、千弘さん〰〰ッ……!」
先ほどまでのしんどそうな表情とも、眠たげな表情ともちがう――しっかりと開いた瞳。じっと見上げてきた彼女が、そのまま視線を外さずに俺を見つめてくる。ほんのわずかに朱が差した頬。ああ、と得心して思わずまた笑みを深める。
……毎朝の、ルーティーンのようになってしまったそれ。
――まだ本調子ではない彼女を気遣って、軽く……触れるだけのキスをする。ちいさな音がして、眼前の彼女の顔が……じわりと滲ませるように頬が赤く染まっていく。
「……目が覚めたら、キス……しないとね♡」
ただ傍にいてくれるだけでいい。幸せそうに笑っている姿を見るのが一番好きだけど、やっぱりふたりで一緒に色んなことをして……いろんな表情を見せてほしい、なんて。欲張りにも、そう思う。いつも見せてくれる表情も、まだ……見たことのない表情も。俺を見上げて、蕩けるそれを。
「ッ……!千弘さん……っ私、なにも言ってないですけど……っ!」
「言わなくたって、その表情を見ればわかるよ♡ 久遠ちゃん、ホント素直なんだもん♡」
「うぅ……」
自身の頬を押さえながら、気まずそうに視線が逸らされる。「あはは」と笑って、俺はまた額を合わせて鼻先をすり寄せる。
「もー、あんまりそんな|表情《カオ》ばっかしてると、ほんとに俺ガマンできなくなっちゃうよ?」
――言ったでしょ、辛そうにしてる姿は見たくない。幸せそうに笑ってる姿と、えっちな顔してるとこがいっぱい見たい……って。
耳元でそう囁いて、「ね?」と。俺は悪戯っぽく、肩を竦めてみせた。