葬斂
2022/10/22
「……そっか、報告ありがとう。オカモっちゃん、車回せる?あの地区に今いるファミリーで信頼できる人間を根回しに動かすよ」
部屋先で報告を聞いて、身体の芯が冷えていく感覚がした。……血の気が引いていくのが、自分でもよくわかる。
私室へ報告にやってきた|側近《オカモっちゃん》にそう言うと、彼は無言で頷いて踵を返した。後ろ姿を見送って、部屋へと戻る前にひとつ息を吐く。さすがに他のファミリーの前で、こんな顔は晒せない。今だけは堪えろと自分に言い聞かせて、扉を開いた。
「お……っと、クオンちゃん。……今の話、聞いてたの?」
扉を開くとすぐそこに険しい顔をした彼女がいて、思わず声を漏らしそうになる。すんでのところで耐えて、なんとかそう声を掛けると彼女は押し黙ったまま頷いた。
「……あの地区ですぐに動けそうな人員で、こういった頼みがしやすそうなのは彼かと。この時間なら連絡はこちらに。……それとチヒロさん、警察へは?」
「ああ、それはこっちに報告に来る前に奏くんがやってくれたみたいだから大丈夫。リストありがとう、ちょっと連絡してくるね」
監視や素行調査に向いていると思った彼女の適性は、ファミリー内の人員の精査にも役に立った。自主的に調べてまとめてくれた資料は、俺からしてもよく纏まっていると思う。こんなときまで頑張らなくていいのにと思うけれど、彼女のこれはきっと俺への配慮なのだろう。何も言わなくても、俺を支えてくれようとしているのはよくわかった。
ぽんと彼女の頭に手を置くと、何とも言えない表情で見上げられる。……それもそうか。彼女は数ヶ月前に俺が自ら元ファミリーの男を手にかけ、体調を崩しているのを目の前で目撃してよく知っているのだから。ほんの少しだけ苦笑を口端へ乗せると……どうしても彼女の前だと緩みそうになる心を、今は鞭打って前を向いた。
――今の俺が、できることをするために。
◇ ◆ ◇
「チヒロさん、車の準備出来ました」
階下へ降りると、ちょうど階段を上ってこようとしていたオカモっちゃんがそう言った。薄く頷くと、一緒に来ようとしていた彼女に制止をかける。
「現場へは俺とオカモっちゃんで行くから……クオンちゃんは、奏くんの手当てを手伝ってあげてくれないかな?」
……正直に言えば、俺の不始末で|こ《﹅》|う《﹅》|な《﹅》|っ《﹅》|て《﹅》|し《﹅》|ま《﹅》|っ《﹅》|た《﹅》|結《﹅》|末《﹅》を――……彼女には見せたくなかった。考えられる事態ではあったのだ。だからわざわざ、血の掟を重んじる向こうのファミリーを欺くために『|仮死状態にする薬《強い毒薬》』まで用意させたのだから。
……けれど。俺が信頼しているより、トーゴくんにとっての|俺《﹅》は――信頼できる相手ではなかったらしい。何年も付き合いのあった彼を、理解した気になっていた己が……今は一番憎かった。
「いいえ、私も行きます」
普段は俺の言うことに反論などしない彼女が、この時ばかりは強い口調でそうきっぱりと拒絶の言葉を口にする。断られると思っていなかったせいで、すぐにろくな返事も継げずに……俺はぱちくりと目を瞬いた。
「……クオンちゃん、死体に慣れてないでしょう」
一瞬の後、言葉を探してなんとか口を開く。思ったよりも幼子に言い含めるような口調になってしまって、彼女の眉が寄せられた。
「ボスと比べたらそうでしょうけど……だからと言って遠ざけるんですか?」
二の句が継げずに押し黙った俺に、芯の強い……揺るがない声音がそっと続く。「私は|リベラーレ《ここ》で生きていくと決めたんです。……私だけ現実から目を逸らすなんてこと、できません」と。静かに――けれど、明確な意思を持った言葉。捜査官としても新人だった彼女は、血腥い世界から遠いところで生きてきたはずなのに。〝俺と生きる〟と決めたから、その覚悟も出来ている……なんて言われたら。断れる言葉を、俺は持っていなかった。
「……わかった。けれど、無理はしないで」
逡巡の末――わずかに目を伏せてそう言うと、彼女はそっと呼吸を整えて「はい」と応じる。そして俺の手を取ると、静かに言葉を続けた。
「……行きましょう、チヒロさん」
その表情は強くしなやかで、そっと指先だけ繋がれた手から伝わる温度が……なんとか折れそうになった俺の心を、繋ぎ止めてくれている。ほんのすこし、躊躇った後……指先にだけ力を込めて握り返した俺の指先は――微かに震えていて、弱ったなぁと人知れず眉を下げた。
◇ ◆ ◇
微かな揺れを感じる車内で、三人とも押し黙る。普段は沈黙があっても気になりなどしないのに、今日だけはその静かさが重く――突き刺さる。息苦しい。ちいさく嘆息して、車外を流れていく景色をぼんやりと見つめた。夜の街は、そこかしこに闇が広がっている。……この街と同じ。
ぱらぱらとまばらな明かりが過ぎていくのを、無感動に見送った。いつもは気がかりな街の様子も、今は頭に入ってこない。ふぅ……と、聞こえない程度に息を吐いてそっと目を瞑った。ごうごうと流れる風を受ける音だけに耳を傾けて、頭を空っぽにする。
……頭を冷やすことを優先しろ、今は弱っている場合じゃない。これから行く現場では、それこそなにがあるかはわからない。屋敷を出る前はまだファミリーの|外《﹅》の人間には見つかってはいなかったけれど、トーゴくんに依頼した仕事は〝人攫い〟だ。掃除屋に依頼するそれの意味を、俺も彼も……彼女も、正確に把握している。もちろん向こうのファミリーだって、今も血眼で愛娘の行方を捜している。対応を間違えればファミリーを巻き込んでの抗争になりかねない。なるべく迅速に……そしてなるべく目立たないように、事を運ぶ必要があった。だからこそ、今は頭を切り替えなくてはいけない。いつまでも自分の過失に凹んでいる場合ではないのだ。ファミリーを背負って立つ身として、俺には俺の仕事がある。
しばらく振動を感じていると、腕にとんと軽い振動を感じた。無言で寄り添ってくれる体温に……息苦しさがわずかばかり緩和された気がした。じわりと溶けるように伝わるその温度が、平静を取り戻させてくれる。俺がすべきこと、俺が背負って立つもの。押し潰されそうになったけど――それでも、手放さないと改めて決めた大事な、大事な|家族たち《ファミリー》。彼らの顔をそれぞれ思い浮かべて、呼吸を整える。
「……ありがとう」
吐息でだけそう呟いてから。……ぽす、と。すこしだけ、ぴたりと寄り添う彼女の身体に体重を預けた。
◇ ◆ ◇
車を降りて扉を閉じると、外気はかなり冷え込んでいた。じゃり、と踏みしめた土が音を立てる。
「それじゃ、俺は車を置きに行ってきますね」
「ん、よろしくねオカモっちゃん」
静かに走り去る車の後ろ姿をすこしの間見送って、数本先の通りへと顔を向けると夜の帳がとっぷりと包んだ暗闇の狭間に、いくつかの灯りが浮かんでいた。
「……行こうか、クオンちゃん」
こくりとちいさく頷いた彼女と、並んで歩く。押し黙ったままの彼女の表情はやはり、どこか強張っていた。……よく見知った相手が死ぬのは、初めてなのだろう。少なくともファミリーに来てから、そう言った経験はないはずだ。以前俺がルオーゴ・スィクーロの名を騙った元構成員を処分したときも、わずかに眉を寄せていたことには気が付いている。それでも糾弾したりせず、掟に従った辺り――組織での身の振り方、というものについてはよく理解しているのだろう。
しばらく進んでいくと気付いた構成員がひとり、こちらへばたばたと走ってきた。彼が手にしたオイルランプがじじ、と鈍い音を立てる。近くに寄るとオイルの匂いが強く臭った。
「……首尾は?」
「……人払いは済んでいます。警察への手配は奏さんが済ませてくれていたので、向こうのファミリーにはまだ見つかっていません。検分は極秘裏に」
「……わかった、なら半数は引き上げていいよ。遅くに呼び出して悪かったね」
「承知しました。ボス……遺体、改めますか?」
その言葉に、ほんのすこし――沈黙が重くなる。しんとした夜中の路地裏を、わずかばかり静寂の帷が包む。その静けさに、声を顰めると……俺はちいさく顎を引いて頷いた。
「……うん、そうさせてもらえる?」
トーゴくんにはお世話になったから、と。そっと言葉を付け加える。その言葉に首肯を返して、彼は半身を引いて「どうぞ」と路地の先を示した。袋小路になっているそこは、普段ひと目はほとんどない。奏くんとの戦闘で多少荒れてはいるものの、騒動を悟られないよう人員も固まらずに哨戒しているようだった。
すでにふたつ並んだ担架に乗せられ、運び込む準備が整えられた彼らの遺体に対面する。申し訳程度に掛けられた白い布が、ぼんやりと夜闇に浮かび上がっていた。
羽織ったコートの裾を払い除けながら、膝を折ってしゃがみ込む。革の手袋を外そうと指をかけると、すっと手が伸びてきた。夜の闇でも白く浮く、肌の色。ふと視線をやると、こちらを真っ直ぐに見据えた翡翠の瞳がちいさくそれを制する。
「いいの、これも俺の始末だからさ」
そう言って曖昧に微笑むと、クオンちゃんはそっと手を引いた。それと反対に、俺は片手の手袋を外すと顔を隠していた布を胸元までそっと下ろす。
――その表情は、惜しむようでもあり……満ち足りたようでもあり。……いずれにせよ、俺が見たことのあるトーゴくんの表情のいずれとも違っていた。
背中に刻まれた無数のタトゥーを思い浮かべて、ほんの少し視線を落とす。腕のいい職人だった。傷を隠すために増やしていったタトゥーの多くは、彼の入れたものだ。職人としての腕も、秘密を誰にも漏らしたりしない性格も……信頼に値した。|マフィアのボス《こういう稼業》がゆえに、俺は例えどんな場所であっても気は抜けない。――唯一の例外である、俺の屋敷にいる時を除いて。それですら襲撃の恐れはあるし、招く相手も考えてはいる。無作為に人を呼ぶべき場所ではないから、構成員に会うときですら俺から出向くことが多いほど。身体を預けざるを得ない場所で、命を狙われる可能性を考慮しながら……それでも信頼して預けられる相手というのは、本当に貴重だったのだ。
この背のタトゥーを知っている人間は、奔放だ色情魔だといいように言われ続けた俺の習性のせいでそれなりにいるけれど……その本当の意味を知っている相手はほとんどいない。俺が明かしたのではなく、自力でそれ気付いた子は……ただひとりしかいないほど。それくらい、彼の腕は良かった。友人としても、掃除屋としても……だ。
目を閉じると――、そっと十字を切る。気安いやりとりができるファミリーの|外《﹅》のヒトというのは、俺にとっては気の休まる相手だった。友人として、本心からそう思う。彼が、俺のことをどう思っていたのかはわからないけれど。それでも、わかったことがあるから。
「……行こうか」
すっと立ち上がると、背後で祈念している彼女に声を掛けた。「はい」と応じて彼女も立ち上がる。
「……遺体は手筈通りに。くれぐれも丁重に、ふたり揃って運んであげて」
そう指示を出すと、案内役を買ってくれた構成員が重々しく頷いた。それを見届けてから、踵を返す。
◇ ◆ ◇
屋敷に戻った頃には、空の裾はほのかに白み始めていた。夜通しでの対応に、さすがに疲労がこみ上げてくる。
私室の扉を閉めた瞬間、帽子もコートも手近なところへ放り投げてベッドへと腰を下ろす。詰めていた息が思わず口からふと零れた。ぐしゃりと髪を掻き混ぜて、天井を仰ぐ。
扉の近くで佇んでいた彼女がそっと放り出したそれを回収すると、コートスタンドへ掛けたのか、ちいさな物音が伝わってきた。
感情と思考が綯い交ぜのまま、視線を戻せずにしばらくぼんやりと虚空を見上げていると、静かに扉が開閉する音がする。ふと手を離して部屋を見渡すと、部屋の中は無人だった。
……見かねて、ひとりにしてくれたのだろうか。そうなのだとしたら、今はその気遣いよりただ傍にいてくれた方が嬉しかったなぁと、弱った心でそんなことを考える。膝を抱えるように丸まって目を閉じる。がしがしと後頭部を掻きむしっていると、キィと扉が音を立てた。顔を上げず視線だけをそちらにやると、眉を下げて複雑そうな表情をした彼女がマグカップを手に部屋へ戻ってきたところだった。こちらを向いた瞬間、わずかに目が合う。曖昧に口端を上げた後、こちらへやってきた彼女がマグカップを差し出した。
「……ホットミルクです、どうぞ」
「……ありがとう」
差し出されたそれを受け取って、礼を言う。両手で抱えたマグカップを傾けて、ひと口だけ口に含む。温かくてやさしい味が口に広がって、冷えた身体にじわりと沁み込んだ。ソファに腰掛けた彼女が、同じようにマグカップに口をつける。しばらく無言でそうした後、空になったマグカップをサイドテーブルへ置いた。ソファから腰を浮かせたクオンちゃんがこちらへ歩を進める。ベッドに腰かけたのか、ぽすんと微かな振動が伝わってきた。そのまま凭れるように体重が預けられて……背中に温かな体温が触れる。
その温かさに、感情と……実感が、込み上げてくる。ひやりと冷たくて、硬直した肉体。何度死体を目にしても、触れても――心地の良いものではない。裏切られた相手だとしても、|家族《ファミリー》や知人、友人の死を見るのは辛いものだ。特に親しくしていた相手が亡くなったのは久々で、しかも俺が仕掛けた内容が元で死なせてしまった相手というのは――初めてだった。この十字架は、俺が一生背負っていくべき咎としてこの心に深く刻まなくちゃならない。
「……彼の生い立ちは、調べてたんだ」
……ぽそり、と。言葉を溢す。彼女にも話していなかった内容。
彼は養護施設の育ちで、その頃親しくしていた|女《﹅》|の《﹅》|子《﹅》がいたらしい。彼らは大層仲が良くて、ずっと一緒にいたのだ……と。それこそ、家族同然の存在だった。
「でも、里親が現れたんだ。……あの子は葵音さんって言うんだけど、彼女の里親になったのは例のファミリーのボスだった」
トーゴくんがずっと探しても見つからないワケだよ、と小さく溢した言葉は微かに震えていた。誤魔化すようにふぅと細く長く息を吐いて、呼吸を整える。
「……彼のお店に資金援助したのは、話したよね?」
「はい」
「知り合ってすぐに彼の生い立ちは確認済みだったし、俺としても安心して通えるお店で……しかも腕の良い職人ともなれば、手放したくはなかったっていう思惑があったのもほんとだよ。でもそれだけじゃない。トーゴくんにファミリーに入ったら、ってずっと誘ってたのは……そういう事情もあったんだ」
個人で探すより、|俺のファミリー《リベラーレ》の力を使った方がそういうのは探しやすいから。そう言葉を続けて、ひと息区切った。彼の方も、俺のそういった他人に見られたくないという個人的な|事《﹅》|情《﹅》はある程度理解した上であの申し出を受けてくれたのだろうし、そう言った意味ではお互い様だ。
「だから、彼が親しくしていた女の子を捜し出すのに随分時間がかかっちゃって……今回のこと、俺はね……本気で彼らが自分たちで選んで、それで逃げるのならそれでいいと思ってたんだ」
もちろん、俺がした『仕事の依頼』は掃除の依頼だ。それも、とあるファミリーの|ボ《﹅》|ス《﹅》|の《﹅》|娘《﹅》を殺してほしい、という依頼。俺は最初からそれが彼にとってどういう人なのかをわかった上で依頼した。ファミリーからの足抜けなんて、許されてはいない。――特にボスの愛娘が足抜けなんて、許されるわけがない。次のカポ、ボスになれる器量の男を娶って子を産むことを強要される――そういう|立ち位置《ポジション》。……そんな生活に、自由などあるはずもなかった。自由意志を持つことすら禁じられる、鳥籠の中に囲われるような生活。暮らしは昔より良かったかもしれないが、〝|自《﹅》|由《﹅》〟を謳う俺の信条からすれば、そんなのは監獄と同じだった。
相手のファミリーは特に血の掟に厳しい一家で、一度マフィアという稼業に身を置いた以上、抜けるときは相応の対価が必要になる。原則として、やめることが許されるのは死んだ時だけ。ファミリーごとに足抜けの条件に違いはあれど……俺たちが身を置く|裏《﹅》|稼《﹅》|業《﹅》なんてものは、得てしてそういう世界だ。俺はこの道を自分で選んだけれど、彼女は違う。子どもの頃に里親として現れた存在がファミリーの長だった以上、選択肢なんてなかっただろう。あの一家はそういうところでお金は惜しまないし、孤児院側もなにも言えなかっただろうことは容易に想像がつく。
――調べた限り、葵音さんという女性はボスの愛娘として積極的に|社交の場《パーティー》にも出席していたらしい。人当たりも良く、笑顔を絶やさない……ファミリーにとって不利益をもたらさない存在になること。それが彼女にとっての身を守る|術《すべ》だったのだろう。
「……キミにはもう話したけど、他の人の自由を奪うことをリベラーレでは良しとしてない。|悪《﹅》|い《﹅》|力《﹅》に抑圧されて自由になれずに苦しんでいるひとりぼっちの人たちの救いになればいい、誰をも家族として受け入れてあげられる場所であればいいと思ってファミリーを運営してる。……それは、この街の人たちに対して等しく抱いてる気持ちだから」
ぐしゃり、とまた髪の毛を掻き混ぜた。はらはらと髪が顔にかかるのを無視してその手をそっとシーツの上に戻すと、はぁと吐息を吐き出す。言葉を探すようにしばらく黙り込んでいるうち、彼女の指先がちょんと手に触れた。ちいさく細い指で、そっと指先が撫でられる。じわりと滲むように伝わる体温に、今日はまた一段と安堵した。
「トーゴさんたちも、その中に含まれてたんですよね」
俺の言おうとしていた言葉を肩代わりするように、彼女がそう続ける。「うん」とちいさく応じて、迷いながら途切れ途切れに言葉を吐き出していく。
「家族が……〝無条件に信頼して結束できる相手〟がいることの安心感は、それだけでとても心強いものだから。トーゴくんが俺のファミリーにくる気がないのはわかってたけど、それは裏を返せば……それだけ彼女に対する思い入れは特別だってことでもあるでしょう?」
「……そう、ですね」
「だからね、彼女と逢ったら……彼は逃げると思ったんだ。けれど、あれだけの規模のファミリーから逃げ続けるのは到底無理だ。それは裏の稼業に身を置いていたことのある者ならわかることだから。……それならいっそ、彼女が|死《﹅》|ん《﹅》|だ《﹅》|こ《﹅》|と《﹅》を向こうのファミリーに確認させれば、その後はもう安全になるだろうと踏んで……そうすれば自由に彼らが生きられるようになるって、信じてた」
「……でも、トーゴさんは信じなかった。彼にとって、信頼に値する〝|家《﹅》|族《﹅》〟は……葵音さんだけ、だったから」
「さすがだね、クオンちゃんは。……そう、その通り。彼にこの仕事を依頼する前に、それに気付けなかった俺が引き起こした|結《﹅》|末《﹅》が今回のことだよ」
奏くんに託した薬は、二種類あった。片方は仮死状態にする薬。もう一方は生命活動を再開させるのに必要な薬だ。元々危険な|薬《ドラッグ》や適正量を超えたそれを、うちの管轄区画でファミリーの目を盗んで売買していた独自のルートを持つ奏くんがいたからこそ、できた計画だった。
……そもそも無理に生体活動を止める薬なのだ。一度服用したらそこからなるべく早く解毒薬を服用しなければ、二度と活動は再開できなくなる。……そのリミットは一日以内、だ。トーゴくんとの戦闘で割れてしまった解毒薬のストックは存在しない。無理な要求をして用意してもらった薬だからこその、諸刃の剣。
「……まるで、もうひとつのロミオとジュリエットですね」
「シェイクスピアの……?仮死毒を飲んだジュリエットを見て、錯乱したロミオが自死を選ぶ……か」
復唱するようにそう呟いて、合わせていた背中を外すとそのまま後ろにぼすんと倒れ込む。しばし天井を仰いで、目蓋を閉じた。額に手を当てて、息を吐く。纏わりつく疲労感に、徐々に思考が愚鈍になっていくのを感じる。
「あの物語では、ジュリエットは仮死状態から一度醒めますけど……。チヒロさんは、あの物語を悲劇だと考えますか?」
「……どうだろうね、あの物語はそれ単体で見れば悲劇のようだけど……他の四大悲劇とは毛色が違うから……」
「……一般論ではなくて、チヒロさんがどう考えるか……ですよ。でもまあ……今はよしておきましょうか。起きたら教会でしょう?……今は、おやすみなさい。チヒロさん」
やさしく降ってきた声と同時に、ふわりと頭を撫でられた。彼女も相当眠いのだろう、その手の温度は先ほどよりもぐっと上がっていた。その温度が融けていくようで、急速に深淵の淵に落ちていく感覚がする。
「弱ったなぁ……ホント……」
――漏れた声は、思った以上に声音を取り繕えていなかった。
◇ ◆ ◇
リベラーレは街の中でも二大勢力に位置するファミリーになっていることもあり、中立地帯の教会にはそれなりに顔が利く。警察が腐敗しているこの街で、別の形で街をまとめて正義を行使するためには……力が必要だったから。弱き者を助けるための門扉になる教会には開けていてもらわないといけない。そのために、教会への寄付は惜しまなかった。……構成員が亡くなったときにもお世話になっているのだから、当然と言えば当然のことなのだけれど。
――静まり返った聖堂内に、普段はある街の人の姿はない。たったふたりきり、亡骸の収められた棺を前に白百合を捧げる。喪主もいない、簡素な式。
「……昨日も思いましたけど、ふたりとも穏やかな表情……ですね」
「……そうだね。こんな風に笑ってるトーゴくんの顔、見たことないもの」
献花を終えて、出棺を見送りながら……ぽつぽつとそんな風に言葉を交わす。最期に彼が浮かべていた表情は、とてもやさしく温かく――そして、穏やかな微笑だった。長年の付き合いがあったけれど、トーゴくんが笑顔を浮かべているところなど見たことがない。感情の起伏が薄いと言えばいいのだろうか、無表情か呆れたような表情を浮かべていることが多くて……見せた表情のほとんどがそれだった。
「ただ、昔話をするときの彼の表情だけは――慈しむように柔らかくて」
遺体が浮かべていた表情を見ればトーゴくんが彼女のことを心の底から大切で、大事で……信頼していたのだということをそのひと目で理解できるような。……そんな表情だった。
ばたんと閉じた戸を見つめて息を吐いてから、背後にあるステンドグラスを仰ぎ見る。日差しを浴びてきらきらと輝くそれが薄暗い聖堂内に射し込んで、淡く床に乱反射する。とりどりの色が溢れて、とても幻想的で壮大な風景だった。夜の闇とは正反対の、神々しいほどの眩さに思わず目を細める。
「……クオンちゃんに聞かれた、昨夜の問いの答えだけど。死は時に人にとって救済になる。……最愛の家族を失いたったひとりで生きていくのと、最愛の家族と最期を共にするの……そのどちらも愛で、間違った選択なんかじゃないから」
「……ええ」
「だから……見る人によって、あの物語は〝喜劇〟でもあり〝悲劇〟でもあって……それで正解なんだと、俺は思うんだ」
――だったら、答えは遺された外野が決めることなんかじゃない。決めていいものではない。それはその瞬間に選択をした彼だけの中にあるものだ。
「それでも生きて添い遂げてくれたら、と願ったのは……俺のエゴ。……ただ、俺には彼らが……トーゴくんと葵音さんが、幸せであったことを祈るばかり……かな」
「……ありがとうございます、チヒロさん」
そう言って、彼女は俺の顔を見上げて淡く笑った。
「手厚く、弔わないとなりませんね。……トーゴさんはチヒロさんの友人で、私にとっても信頼できる仲間……でしたから」
ファミリーではなかったけれど、それでも彼を想う心に忌憚などなかったのだから。その心まで偽る必要はないのだと、そう背を押して。
聖堂の戸を押し開いたその隙間から射し込んだ陽光が、どうか彼らを送り出す祝福となりますように……と。心中で祈念して、彼女の後を追うように俺も一歩を踏み出した。