強欲と執着

2023/05/18


彼女をひと目見た瞬間、これは運命だと思った。どうしてもこの子を伴侶にしたいと、本能的な部分が告げて、目が離せなくなる。恋に落ちるとはよく言うものだが、こういうことかと妙に腑に落ちた。なるほどこれは確かに『落ちる』が正しいのだろう。月並みに言うならば、雷に打たれたような衝撃。まるで時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。ざわざわと喧騒の多いはずの病院の廊下で、途端に周囲の音が聞こえなくなって、隔絶された世界にいるような気さえした。
「高嶺先生?急に立ち止まられて、どうしました?」
突然立ち止まった俺を訝しんだ職員に声を掛けられて、我に返る。
「……ああ、ごめんなんでもないよ。ちょっとぼんやりしちゃっただけ。俺はそろそろ診察始まるから行くね」
そう返答して曖昧に笑う。わかりましたと応じる声を背中で受けながら、視線を素早く滑らせた。……けれど、彼女の姿はもうそこには見当たらなかった。

◇ ◆ ◇

この世界には、広く知られてはいないがふたつの種族が存在する。ひとつは人間、ひとつは怪人。
見た目には両者ともにほとんど差異はない。だから俺のようにこうしてカウンセラーとして一定の地位を得て、人間社会に溶け込んで働くことも容易なのだ。そして自分たちの生活圏で怪人が普通に生活していることも知らずに生きている。現に、近年怪人が現れて騒ぎを起こすようになるまで、その存在は知られていなかった。
ただ、怪人の中にはランクが存在する。このランクの差で知性が大幅に変わるし、下位の存在になればなるほど、言葉を操ること自体が困難になっていく。また怪人は人間にはなれないが、その逆……人間を怪人にすることは可能だ。怪人はその性質の都合もあって自分より上位のランクの存在に逆らうことが出来ない。今一般的にニュースなどで世間を騒がせている怪人は、多くがこの下位ランクの怪人たちだった。だから、彼らは|意思の疎通も行うことができない存在《災害》として扱われる。
他にも怪人を怪人たらしめる最も大きな特徴が、ひとつあった。それは『負の感情を感じない』というものだ。人間が感じる、辛さも不安も孤独も……そのすべてを怪人は感じない。
俺たちの組織が目論むのは、国家転覆などではない。……こうして毎日のように数えきれないほど多くの人間が、心を病み、傷つき、あまつさえ命を擲つことすらも視野に入れてしまうほど……辛さや不安、孤独に悩まされている――そこから、解放してあげること。それだけが目的だ。
「はぁ……」
診察の合間に、思わずため息が零れる。先ほど見かけたあの子は、多分人間だろう。人間と怪人では、子を成すことができない。せめて彼女の名前だけでもわかれば、あとはどうにでもなるんだけどなぁと感傷に浸る。院内で見かけたのだから、また逢えるだろうか。そんなことが、ぐるぐると頭の中を巡った。
「気持ちを切り替えなくちゃね。えぇと……予約分のカウンセリングは終わったから、次は初心の患者さんか……」
事前に受け取ったカウンセリングシートと、カルテに軽く目を通す。上司による理不尽なパワハラ、長時間のサービス残業による疲労、それに伴う不眠症状。負の連鎖に入ってしまっているのは瞭然だった。こういう子ほど、怪人になってしまえば楽なのに。どうして彼らはこんなにも思い悩んで、しんどい思いをして……それでも人間でいたいのだろう。
「次の方、どうぞー」
番号を読み上げて、入室を促す。初回のカウンセリングでは、威圧感を与えずに対等で良好な関係を築くのが一番だ。安定剤で安定を取り戻して、改善するならそれでもいい。けれど、多くの場合は本人の性格的な部分も大きく影響する。だから物腰は柔らかく、けれどこの人は頼っていいのだと思ってもらうことが何よりも優先。
「……失礼します……」
その声を初めて聴いたとき、耳障りの良い声だなと思った。手で目の前の椅子を示し、視線を落としたまま、名前を読み上げて本人確認をする。
「どうぞ、座って寛いでね。えーと、お名前は……神里久遠さん、だね?」
「……はい」
肯定の声に顔を上げて、患者に向き直った。そこにいたのは、先ほど運命だと感じた存在。嗚呼、と心の裡で感嘆の声を漏らす。やっぱり彼女と俺は運命なのだ。彼女を見つけたその日にこうして再会して、さらには俺の患者としてやってきてくれるなんて。歓喜に震えながら、それが顔に出てしまわないようにそっとひた隠した。……まだだ、まだ。患者として通ってくれるなら、いつかもっと好機が訪れる。焦らずにまずはいつも通り、関係構築から始めればいい。そう自分に言い聞かせる。
「ここで聞いた内容は、誰にも漏らしたりしないから安心して。事前に記載してもらったシートは読ませてもらったよ。……しんどかったね、久遠さん。一応、キミの言葉でもう一度話してくれると嬉しいんだけど……聞かせてもらってもいいかな?」
そうして聞いた彼女の状況は、惨憺たるものだった。不眠だけではなく、食事に対しての意欲も湧いていない。何が食べたい、こうしたいなんかの意欲が皆無で何を食べても同じ。典型的な鬱症状。性格的なものもあるのだろう、極力相手を否定したりしたくない彼女は、まず自分の側に悪いところがなかったかを探してしまう。整った顔立ちなのに、それを打ち消してしまうほど顔色が悪い。濃く残った隈は、随分長い間悩まされていたことを感じさせる。……助けてあげたい。早くそんな辛さから解放してあげたいと、切実に思ったことを、まるで昨日のことのように覚えている。

◇ ◆ ◇

「ねえ……千弘さん、怪人化計画がひと段落したらなにがしたい?」
ベッドの上で肌を寄せ合っていると、不意に彼女がそんな問いを投げてきた。俺の告白を受け入れ、自らの意志で『助けて』と怪人になることを受け入れた、あの日恋焦がれた存在は、今では俺の恋人兼優秀な秘書であり助手となっている。彼女が計画に加わってから、この計画は加速度的に進んですっかり街は怪人で溢れ返っていた。そろそろ、怪人化計画の終わりも見えてきている。彼女もすっかり手慣れて、今では怪人化に必要な注射や機械類のセットや操作まで自分でできるようになっていた。
「……そうだなぁ、やりたいこと……あるにはあるけど、今はまだヒミツ……かな。久遠ちゃんは?なにかしたいことあるの?」
計画の終わりも見えてるとはいえ、まだ終わってないから願掛けみたいなものだけど、と曖昧に濁してふわりと頭を撫でる。彼女はそっと幸せそうに目を細める。元々多幸感を得やすい怪人になってからというもの、彼女はすっかりあの暗かった表情が嘘みたいに、ずっと幸せそうに微笑んでくれる。けれど、その中でも俺と触れ合う瞬間に一等幸福そうな表情をしてくれるのが……なによりも嬉しい。
「……私?私もしたいことはあるけど、私ひとりの一存じゃ決められないな~って♡」
すりすりと自分から俺の手に頬を寄せて、くすくすとちいさく笑みを溢して彼女はそんな風に言いながら俺を見上げた。その悪戯っ子のような表情に、俺は「えー、どんなこと?」と鼻先をすり寄せて甘える。どんなことでも、俺にできることならしてあげたいから教えてよとじゃれつくと、彼女はそっと俺の耳に口を寄せた。
「あのね、千弘さんとの赤ちゃんが欲しい……♡」
甘やかに囁いて、蕩けた瞳で俺を見上げて蠱惑的に笑った彼女の目には、もう俺しか映っていなかった。俺だけのものにしたくて、俺のものだと見せびらかしたくてどうしようもない存在の、その瞳に唯一映るのが自分自身であるということに途方もない歓びが去来する。彼女と子を成せるようになりたくて、怪人にする前からその身体を開発したのだ。高揚して熱い吐息が零れ落ちる。
「……だって、千弘さんはそのために私のこと怪人にしたかったんだもんね?大事にしてくれてるの、わかってるけど……最初にシたときのこと、忘れられないのは千弘さんも同じ、でしょ♡」
「……うん。でも、いいの……?久遠ちゃん、俺の子ども……産んでくれる?」
「ふふっ、なに言ってるの千弘さん……♡前にも言ったよ、人間よりも怪人を――千弘さんを選んだんだよ、私」
自分の意思で、と真っ直ぐな瞳に射抜かれる。媚薬を盛られ、お薬で気持ちよくなってたとしても。最後の最後、千弘さんの『俺と同じになりたい?』の問いに是を返したのは私だよ、と。やさしくも、甘やかに囁かれた。
「その時に言ったでしょう?……いつか、千弘さんの赤ちゃん産める身体にしてください、って……♡」
千弘さんが欲しいならいつだっていいんだよと吐かれた甘言に、手に入れる前よりももっと、より深く彼女の存在が大きくなっていく。際限のない要求が生まれて、どんどん強欲になってしまう。
「ああもう、キミには敵わないなぁ……」
欲深くなっていいとキミが甘やかすから、どうしようもなくキミに執着している。きっと、これから先の未来でも、ずっと……ずーっと。