桃よりも甘い人
2023/04/11
合わせた額を離して、まじまじと目を見つめる。またも簡単に染まってしまった彼女の頬の赤さに、ちいさく笑いが溢れる。
「……さて、そろそろ移動しよっか。と言っても、どこだろう……ここ」
ぽんぽんとひとつ彼女の頭を撫でてから周囲を見回して、俺の口から漏れたのは困惑の色を如実に孕んだ声だった。そもそも、|こちらの世界《現世》ではほとんど病院暮らしだった俺には、あの桃源の里での生活の方が長くなってしまっている。当時は幼かったこともあって、今の自分たちがどこにいるのか皆目見当もつかなかった。
「ううん……ビルは見えてるので、それなりに歩けば現在地は分かりそうなんですけど……」
同じように眉を下げた彼女も、遠目に見えるビルを眺めて困ったように声を上げた。それに、と口籠もるようにして俺の方をちらりと見やった彼女の視線に、ちいさく首を傾げる。
「……千弘さん、その格好だとそんなに長距離歩くのは難しい……ですよね。草履ですし……でも今携帯もお財布も持ってないので、電車に乗ったりタクシーに乗るって言うのも難しそうで……」
ほんの少し言い淀んだ後、しょんぼりと肩を落としてそう言った彼女の言葉に、そういえばそっかと俺は目を丸くした。あの里では農耕が主だったし、里の中には川もなかった。里自体もそこまで大きくなく、数日かければ歩いて里中を回れるくらいの大きさだったのだ。だから、俺には移動手段という考えがなかった。いろんな視点が必要なんだな、と自分の不慣れさが浮き彫りになって歯痒い。
「千弘さん、なんて顔してるんですか。もうほら、眉間に皺が寄っちゃってますよ!……こっちの世界のこと、たくさん教えてほしいって言ったのは千弘さんですもん。大丈夫です、私がついてますから……ね?」
俺の顔を覗き込むようにして、眉間の皺をぐいぐいと伸ばしながら彼女は笑ってそう言った。自分だって不安だろうに、底抜けに明るく掛けられた声音と久遠ちゃんの体温に無性に安心する。情けないような気持ちもあるけれど、それよりもこうして彼女が気遣ってくれたことが嬉しくて、思わず破顔した。
「うん……そうだね、今の俺はひとりじゃない。キミがついてる」
そう言ってちいさな手に顔を寄せると、すりと肌で指先を撫でる。そこから伝わる体温が、今の俺たちふたりがこの現世に生きていることを実感させてくれて……とてつもなく安心した。
◇ ◆ ◇
「……な、なんとか……帰ってこれました、ね……」
部屋にたどり着くと、彼女はへたりと座り込んで疲れた声でそう言う。それもそのはずで、出発した頃まだ高かった陽は、すっかり沈んでしまっていた。鍵も持たない状態でなんとか彼女の住む家まで戻って来て、大家さんに開けてもらってようやく家に入れたのが今である。俺も疲れがないわけじゃなかったけど、それよりも初めて目にする彼女の部屋への興味の方が強かった。きょろきょろと、不躾だろうなぁとは思いながらも部屋の様子を眺める。
その様子を見留めた久遠ちゃんが、少しばかり居心地の悪そうな……気恥ずかしそうな顔で俺のことを仰ぎ見て「そんなに面白いですか?」とちいさな声でそう尋ねてきた。
「面白いっていうか……なんだろう、ほら……里で俺が住んでた家――あんまり生活感がなかったでしょう?元々は俺の家じゃないし、あちらは娯楽もなかったし……。こっちにいたときも病院暮らしだったから、私物とかあんまり持ってなくて。なんだかね、ああここは君が今まで生活してた場所なんだ……って思うと、すごく嬉しくて……」
あったかい、って言うのかな……とまとまらない考えを、そのまま口にし続ける。キミはこんな風に生きてきた人なんだ、こういうものが好きなんだ、いろんな情報が部屋を見るだけでわかる。よく整理整頓された部屋。綺麗に整えられた寝具。シンプルで、けれどどこか温かみのある置かれた家具たち。飾られた写真に、写る笑顔の彼女。友人たちと楽しそうに笑う姿――驚いて目を丸くした写真。どれもすべてが、ころころと良く変わる……でもそれが愛らしいと思わせる彼女の一瞬一瞬を、切り取っていた。
「……なんだかね、この部屋に……他でもないキミの部屋にこうして俺を招き入れてくれたことが、久遠ちゃんが俺を本当に信頼して……心を許してくれているんだなって伝わって、嬉しくって」
疲労感よりも、幸福の方が大きい。充足感と言えばいいのだろうか、空虚だった俺の内側を満たしてくれる感覚がする。初めて訪れたはずなのに、妙に落ち着きを覚えさえした。落ち着くなぁと思った瞬間、身体から力が抜けていく。さすがに死ぬかもしれないと覚悟をするほどの出来事から、ずっと気を張りつめっぱなしだった反動か……安堵を覚えた瞬間にどっと疲れが襲ってきた。かくんと膝を折って、壁に手を着く。
「千弘さん、大丈夫ですか……!?」
慌てた声を上げた久遠ちゃんが、腰を浮かせる。そっと伸ばされた手に支えられて、部屋の中央まで歩を進めた。
「とりあえず、座ってください……!」
心配そうに下げられた眉。自分だって疲れているだろうに、そんな様子を感じさせないほど真剣に俺の心配だけをしてくれる真摯な瞳。部屋に置かれたベッドに腰掛けるよう諭されて、恐る恐る腰を下ろす。彼女の身体に合わせたサイズのベッドは、俺の身体には小さくて壊してしまうのではないかと不安になった。
「今お水持ってきますから、ちょっと待っててくださいね……!」
「あ、うん……。ありがとう」
俺も比較的彼女に対してはお節介を焼いた気がするけれど、彼女も俺と似た者なのかもしれないとわずかに気を緩める。キッチンへ向かって手際よく準備をしていくその後ろ姿を目で追って、ちいさく息を吐いた。あの里では俺が『助ける側』だったけど、ここでは彼女に『助けられる』側が俺なんだなぁといきなり実感させられる。けれど、なぜだろう。そんなに悪い気はしない。
「……どうぞ千弘さん、お水です」
両手を添えて、手渡された水に口をつけた。こくんとちいさく嚥下をすると、冷たい水が染み渡って身体の渇きを嫌でも自覚する。
「ありがとう久遠ちゃん、ちょっと落ち着いたよ」
ちいさく笑ってそう言うと、彼女は俺の前にすとんと腰を下ろす。先の慌てた表情ではなく、少しだけ気を緩めた柔らかな表情。コップを俺の手から受け取って、テーブルに置く。ことんと鳴った音が、部屋の中で響いた。
「もっと寛いでくれていいですからね……って言っても、振袖だとあんまり寛げないですよね……」
千弘さんが着られるようなサイズの洋服あったかなぁ、と彼女は顎に手を当てた。むむ、と思案に耽るその表情は、あの里で見た色んな表情ともまた違っている。これが彼女の素なのだろうと思うと、隣に座って何気なくその素を見せられる相手として信用してくれていることが、こんなにも嬉しい。里にいる間、長らく俺は誰にも心を許せず緊張を強いられてきた。だからこそ、彼女の傍は落ち着いて呼吸ができる。こんなにも気を緩めていられること……ただ、それだけで胸が熱くなった。俺にとっての彼女は、なによりも暖かくて大きな存在だ。
「んんっと……多分上は前に買ったおっきいパーカーで行けると思うんですけど……スウェットあったかなぁ……」
明日千弘さん用のお洋服買いに行きましょうね!と言い残して、彼女はぱたぱたと服を探しに行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、これからの毎日も楽しくなりそうだなぁとちいさく笑った。
◇ ◆ ◇
「さて、遅くなっちゃいましたがご飯も済ませましたし……なんとか今日千弘さんが着るお洋服も見繕えたところで、お風呂にしましょう!」
夕飯の片付けを終えて、ひと息ついたところでぱんと手を叩いて久遠ちゃんがそう宣言する。まだ旅行のために取ってたお休みの間でよかったです、と笑った彼女に続いてお風呂場に案内される。そこでこちらを振り返った彼女が、少しばかり不安そうに俺を見上げた。
「……里の千弘さんのお家のお風呂とは比べ物にならないサイズなので、疲れが取れるかわからないんですけど……」
広い日本家屋はやっぱり良かったですねぇ……と零しながら、手早く準備をしてくれる。ずっと着ていたシラガミ様が用意してくれていた振袖は、傷まないようにひとまず虫干しにしておきましょうねとハンガーを出してくれた。振袖を脱いで襦袢になると、彼女が「あ」と声を上げる。
「……そういえば千弘さん、こっちのお風呂の使い方……わかりますか……?」
「うーん、自信ないかも……。本当に小さい頃しかこっちにいなかったし、それも身体弱くて介助してもらってたから……」
暮らした年数としては、完全にあちらの生活の方が長い。こちらにいる頃の記憶は、ほとんど病室の窓から見た景色で埋め尽くされているほどに俺の身体は弱かった。大の男が何を言ってるんだろうと、恥ずかしい気持ちがなくもないけれど、きっと彼女は笑ったりしないだろうから。くい、と袖を引いて彼女に問う。
「……あの、ね……久遠ちゃん。今日だけでいいから、一緒に入ってもらってもいい……かな?」
じわりと顔が熱くなる。けれど、彼女は一度目を瞬いた後にこりとやわらかく笑んで「もちろんです♡」と了承してくれた。
◇ ◆ ◇
ふたり並んでベッドに横になると、スプリングが軋む音がしてほんの少し身を固くする。シングルベッドにふたりで寝るのは窮屈ではあるけれど、意図せずとも密着する形になれるのは嬉しくもあった。
「一緒にお風呂っていうのも、結構楽しかったなぁ……」
ぽそりと呟くと胸元に顔を寄せていた久遠ちゃんがそっと顔を上げて、「気に入りました?」と微かに笑う。うん、と小さく頷いて顔を寄せるとふわりと揃いのシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。偶然にも、彼女が普段から好んで使っているシャンプーは桃の香りのものだった。あの里では常に溢れていて、生活の一部になっていた匂いがして、ひどく安堵する。
「それじゃ、時々また一緒に入りましょっか。ベッドももうちょっと大きいの買おうかなぁ……」
今のベッドじゃ千弘さん、足伸ばせないですもんねとまた思案顔に逆戻りしてしまった彼女の身体をぎゅうと抱きしめてくすくすと笑う。
「……俺、こうやって密着してられるのも好きだよ?」
「むぅ……そう言われちゃうと私だって引っ付いてたいですもん……」
「あは、でしょう?こうしてくっついてると、あったかくって幸せな気持ちでいっぱいになるもんね……♡」
互いの体温を分け合うようにして寄り添っていると、本当に満たされていく。俺のこれまでの人生には、自由があんまりなかったから。病弱だった幼少の頃はもちろん、あの里で非情にも行われていた矛先が自分に向いてからというもの……姿も見えず、声も聞こえないシラガミ様だけを頼りに生きていくしかなかった。死の苦痛が遠かった割に、あの里から出ようと思ったこともなければ、生活を壊してしまうのも怖くて改革も出来ないまま。ただ、こうして耐えることだけが俺にできることだと言い聞かせていた。
だからこそ、感情をこんな風に発露することも……誰かひとりにそれを向けることができたことも、自分自身が一番驚いている。でも、その変化が嫌じゃない。比喩などではなく、彼女と一緒ならどんな変化でも受け入れて乗り越えられる気がするんだ。
「はい、幸せいっぱいで……でも、死ぬかもしれないような体験を一緒に超えられたんですから……千弘さんと一緒なら、この先も何とかなると思えるんです」
言いながら、彼女の目蓋は徐々に落ちていく。うとうとと微睡みに誘われる久遠ちゃんの体温で、俺もつられるように「ふぁ……」と欠伸をした。こつんと額を合わせて、軽く触れるだけのキスをする。
「うん、俺もそう思う……♡今日、死にそうな思いをしたなんて思えないくらい。新しい生活の不安とかなによりも……踏み出してよかった、って思ってるんだ」
「ふふ、こっちでの生活のことはたくさん私に頼ってくださいね。なにしろ、シラガミ様にも千弘さんのこと頼まれたんですから♡」
そう言って眠たげな表情で笑った彼女の言葉は力強くて、お道化てあげてみせた細腕はなによりも愛おしい。桃源の里の桃よりも遥かにあまい、俺だけの果実を腕に抱いてこれからもそっと、ふたりで同じ未来を歩んで行くことがどうか叶いますように。