募る想い
2021/11/23
「おつかれっした~」
「おつかれ~」
ミーティング終了の声とともに、その声が部屋の各所で次々と上がる。
伸びをしながら出ていく人、あくびを噛み殺して出ていく人……色んな人がいる中で、俺は人が殺到する出口の方をぼんやり眺めて、佇んでいた。
疲れていない、と言えばうそになるけれど、それは疲れたというよりも飛行機に乗っている間、窮屈な思いをした……くらいのしんどさだ。
この胸の、喪失感よりも耐え難いものなんて、今の俺には見つからない。
「チヒロ、どーした?さすがのお前も疲れたか?」
「トーちゃん……。ううん、疲れは平気なんだけどね」
何を、とは言えずに曖昧に笑みを浮かべる。同じ事務所の男優の中でも特に仲のいいトーちゃん――渋木藤次郎は、すでに彼女とも顔を合わせたことがある。
そういえば、富士野飛沫丸という芸名をふざけて教えたときの、彼女の事態が飲み込めないといった疑問符いっぱいの表情は可愛かったなぁと、また彼女のことを思い出す。
何かひとつ考えるたびに、彼女とのことを思い浮かべてまた寂しさを勝手に募らせていっているなんて、自分でも馬鹿だなぁと思う。
寂しいという想いは口にできても、さすがに彼女にも、キミと過ごした日々を思い出すようなことがあるたびに、余計に寂しくなっていくなんてことは言えなかった。だって、寂しいのは彼女も同じはずだから。あの子が笑って喜んでくれているのに、俺だけが寂しいと言うのは、なんだか卑怯な気がしてしまう。
「あ~……、あれか?さっきの自由時間に、もしかして彼女さんに電話でもしてきたか?」
「……うん、まあね。さすがトーちゃん、分かっちゃうんだなぁ」
「いやお前飛行機でもずっとそわそわしてたし、俺しか知らないってのはあると思うけど……ずっとあの子のことばっか喋ってるぞ?」
さすがに付き合いも長いしそれくらいは俺でもわかるわと笑った友人の言葉に、自分自身そんなに彼女のことばかり話していたのかと、内心反省する。
最近は社長も岡持っちゃんもトーちゃんも、俺の周りの人は彼女のことを当たり前に知っていたし、お仕事に着いてきてもらう日もあって、すこし気が緩んでいたのかもしれない。
甘えていたと言うべきだろうか。俺のこの女性不信を知っている人は少ないけれど、代わりにそれを知っている人たちは皆、彼女との出会いをよかったねと応援してくれる。
そうではない仕事上のお付き合いの人も、以前よりパフォーマンスを上げられるようになった俺と、その変化を聞いて「彼女さんにお礼言っておいてくださいね」と言ってくれる人ばかりだったから。
「まー社長もお前には言い寄ってくる人間も減るだろうし、隠さず言っていいって言ってあんだろ?ならまあいいだろ。声聞いて寂しくなるとか、普通にあることなんだし気にすんな」
ほらもう遅いし、出口も空いてきたからそろそろ行こーぜと肩を叩かれて、歩き出す。
それから先、部屋に戻るまでは明日の撮影についてだとか、ここしばらくの近況だとかの、これまで通りの他愛ない話をして、トーちゃんと別れた。
部屋に戻って、誰もいないベッドに腰かける。気を遣って岡持っちゃんが手配してくれたひとり部屋は、リゾート地ということもあってか、ひとり部屋の割に間取りが広い。
なんだか、彼女が家に来る前の、無機質で最低限の物しかない、だだっ広くて冷たい我が家を思い出してしまう。
「んー、明日も撮影だし早くお風呂済ませて寝ないとね……」
彼女が来てからの俺の家は、すこしずつ物が増えて、色が増えて――それと一緒に、部屋での思い出も増えて。
冷たくて凍えてしまうようなベッドで眠るのではなく、あの子の体温と、充足感に包まれて眠るようになって、今ではそれが当たり前になった。
……だからだろうか。ひとり寝がこんなにも寂しくて、冷たいシーツが肌だけではなく胸の奥まで刺すように感じてしまうのは。彼女はいつものあの部屋で、なにを考えてどう思いながら、今日は眠りについたのだろう。
そんなことを考えているうちに、まどろみが訪れる。鈍くなった思考で、それでも彼女のことを考えたまま、意識はゆるやかに落ちていった。
◇ ◆ ◇
昼休憩の時間に、俺は珍しく箸を止める。
「どーしたんだよチヒロ。食欲ないのか?まさか、今になって時差ボケか?」
黙々と出された食事に手をつけていたトーちゃんが、そう声をかけてくれる。ううん、と緩やかに首を左右に振ってから、やや不満げな声を出してみせた。
「んーん、もうちょっとだったのにトーちゃんに負けたの悔しいなーって考えてたんだよ」
午前の撮影で開催されたビーチフラッグのことを話題に上げて、そう言ってみせる。
ああと笑ったトーちゃんは、止めていた手を再開させてからからと笑う。
「いやー、俺だってまだまだお前らには負けてらんねぇよ」
その声に、他の面々も続々と声をあげて反応してくる。
「ていうかふたりが強すぎんだけど。なにお前ら。もうちょっと縮んでからやり直してくれない?」
「持って生まれた体躯はどうしようもないだろー。はーでもあんなガチで走ったのいつぶりよ?」
「俺、今朝ふっつーに日本時間のままで朝のアラームかけてて寝坊しかけたから、ガチで走ったの今日の朝イチ♡ いやー、猛ダッシュだったわ〜」
「お前がやらかすのは納得だわ」
「いやひどくない?息切れもせずに到着したし、ちゃーんとその後も動けてたっしょ!?」
「あ、あの猛ダッシュの集合シーンも使うつもりで撮ってあるから〜!」
「……え、マジで?ちょっとそれは恥ずくない?」
同じ事務所の人間と、顔馴染みのスタッフ。だから基本的には気安い関係だし、こうして他愛もない話題で盛り上がれる。
これまでの俺なら、こういう場ではもっと楽しんでいただろうと思う。気を張らなくて済む――それだけで、ひと心地つけていたから。
休憩中にはこんな風に盛り上がって笑って、その後も和気藹々と撮影は進んでいく。思ったよりも盛り上がりすぎて、撮影が押したり。テープチェンジの休憩だったりで、あんまり自由な時間はなかったけれど。それでよかったかもな、なんて考えたりもした。
――だって、きっと自由時間に行く先々で、あの子と一緒だったら……って考えてしまう。これを見たらあの子はどんな反応をするかな。こういうのは好きかなぁ、とか。小さな仕草も、言葉も、表情も……全部、鮮明に思い浮かんでしまうくらいに。
「……やっぱり、恥ずかしいからダメって言われて取り上げられちゃったけど……久遠ちゃんの服、持ってくるんだったかなぁ……」
うーん、と湯船に浸かりながらそんな声を上げた。こんな風に弱音を吐くなんて、自分自身のことながらに珍しい。
ここで出てくる食事も美味しいけれど、どこか物足りない。味気ない。ふたりで作ったごはんを囲んで、なんでもない話をしながらあの子と食べる食事に、勝るものがない。ここへ来てから、ずっと満ち足りない。飢えを抱えた獣のような、淡い飢餓感を感じながら、吐息をこぼす。
ざぶりとお湯を手で掬って、ただそれを湯船に戻す動作を何度か繰り返す。不満があるかと問われれば、仕事に対して不満はない。……ないのに、こんなにも寂しいと感じてしまう。
いつも使ってるシャンプーやボディーソープの匂いが急に恋しくなる。彼女と同じ匂いに包まれているだけで、なんだか安心できるから。思った以上にあの子のことが大事で、愛しいんだなと自覚したら、もうそれだけで胸がいっぱいになった。
誰も俺を見てくれないかもしれないと。「高嶺千弘」そのままで受け止めて、受け入れてくれる人はいないのかもしれないと思っていたから。あの子の体温がすぐ傍で、触れられる距離にあり続けてくれることが、もうとっくに俺にとっての何よりの支えで、原動力になっている。
今日はもうすこし我慢して、彼女が眠る頃になるまで電話を待とうと思っていたけれど。考え始めたら、もう気持ちが抑えられそうになかった。
このところ、何をするにもあの子が一緒で、何をするにもいつもと比較をして寂しくなってしまう。――お風呂に入るのだってそう。小柄な彼女の身体を後ろから抱きしめるようにして浸かる湯船に慣れてしまって、ひとりで手足を伸ばして入るそれに、むしろうら寂しさを覚えてしまうくらいには。
お風呂を出たら、予定よりすこし早いかもしれないけど、あの子に電話をしよう。気ばかりが急くなかで、バスルームを後にする。濡れた髪もそのままにして、ただ早く早くと焦れる心のままに。
眠気に抗う彼女の、ふにゃふにゃと溶けていくような呂律で紡がれる声も。とろんと落ちはじめた瞼も、ぜんぶ俺を満たしてくれるから。ひとつたりとも逃したくない、なんて。キミには言えない感情を胸にそっとしまって、コール音のあとで名前を呼ぶ。
「久遠ちゃん、おまたせ」
◇ ◆ ◇
汗ばんだ肌が吸いついたその感触が、いくらか時間が経ったのにまだ心地よくて、手放せないでいる。
体温も声も、そのひとつひとつの仕草もぜんぶ逃したくなくて、無理をさせているのもわかっているのに、何度も際限なく彼女を求めた。
結果、最後にはほとんど気を失うようにして眠ってしまった彼女の身体を抱きしめたまま、胸の奥に広がるあたたかさを噛み締めて、俺はただぼんやりその寝顔を眺めている。
するりとその肌を指先で撫でて、彼女の華奢な腕に嵌ったままのバングルに視線を落とす。
見立てに自信はあったけれど、実際にその腕に嵌めたところを見ているのとはワケが違う。その肌の色によく映えて、きらきらと照明の光を受けて静かに存在を主張する様子に、じわりと、色んな感情が溶けていくのを感じる。
腕に嵌めてバングルを彼女に渡したとき、揺れる瞳でこちらを見て小さく息を吸い込んで。震える声音を隠しもせずに、腕を抱くようにしてそれに唇を寄せた彼女のいじらしさに、胸が押しつぶされるほどの幸福に包まれた。
何度も嬉しいと気持ちを伝えて、泣き出しそうな顔で笑う久遠ちゃんを見ていたら、押し留めていた感情が、簡単に決壊していく。
掻き抱きたくなるほどの愛しさをそのままに、手を伸ばして、想いも熱も、ぜんぶをぶつけて。
――通話なんかじゃなくて、その可愛い声を直接聞かせて。画面越しなんかじゃなくて、その唇にキスをさせて。直接触れてキミの熱を感じさせて、キミも俺の熱でいっぱいになって欲しい。……なんて、尽きることのない欲求を、何度も何度も言葉と、行為と、溢れて止まらない熱で、注ぎ込んだ。
ふわふわと纏わりつくような眠気が、じわじわと身体を侵食していく。回らなくなっていく思考で、最後にその額に軽く口づけを落とす。
溶け切った体温に思考まで溶かしてしまうように、何もかもを放り投げ、明日無理をさせたことを謝ろうと考えつつ、ただかけがえのない人の傍で、眠りについた。