至上の幸福
2024/12/07
「だめだなぁ、落ち着かなくてそわそわしちゃう……」
面会時間を終えて戻ってきた自宅に着いて早々、苦笑いとともに思わずそう溢した。
いつか家族が増えたときのために、と選んだ広めのリビングのお部屋はひとりでいると伽藍堂としていてなんだか切なさを増してしまう。
「えぇっと、入院セットは今日持って行ったし……あとは赤ちゃんが落ち着いて来たらサイズ見ておむつとか買っておかなきゃいけないくらいかな?」
ふるふると小さく|頭《かぶり》を振って、思考を切り替える。事前におおよそ買い揃えておいたおかげで、新しく購入しなければいけないものはそう多くはなかった。きっちり整えて置いてある赤ちゃん用品の並んだリビングを見つめて、思わず目を細める。
「本当に、本当に……可愛かったなぁ、俺たちの子ども……」
あの子がくれた幸せは途方もなくて、本気で何度伝えても足りないけれど。それを彼女はなんて事のないように言って、いつも穏やかに笑んでは自分が千弘さんにもらってるのと同じものを、自分に返せるぜんぶで返したいと思ってるだけなんですよと言ってくれる。
……そんなわけ、ないのにね。男優の職だって、俺のやりたいことだった。天職だと今でも思っているし、自分の選んだそれを間違いだとは思っていない。けれど、結婚式の前に父さんが彼女に問うたように……やっぱり世間一般では受け入れがたいものではあるし、そんな相手と結婚したいと思ってくれる人なんて稀だなんてことは誰よりも俺がよく知っている。
だって、何度も言われて来たんだもの。この人とはいい作品が作れるかもしれないと、勝手に戦友のように思った同業者からですら——何度も。
『|そ《﹅》|ん《﹅》|な《﹅》|仕《﹅》|事《﹅》辞めて、私だけを見てよ』……って。
俺の夢は誰にも受け入れられずに踏み躙られ続けて、俺自身ですら自暴自棄になっていた。それを彼女は真正面から受け止めて、『|AV男優《チヒロ》』としてではなく、ただありのまま『|一人の人間《高嶺千弘》』として見てくれた。何度そこに感謝を告げても、困ったように笑って答える彼女の答えはいつも変わらない。「私が知り合った時から千弘さんはチヒロでもあって、それが普通で……だから、私が好きな〝|千弘さん《高嶺千弘》〟にはその両方を含んでた。ただ、それだけなんですよ?」と。キミがいとも簡単にそう言ってくれた、俺が見て欲しかった俺を見てくれたのは——ただキミひとりだって言うのにね。
俺が望んだ普通とあの子にとっての普通は、実際にはすごくすごく……思っても見ないほどの高さのハードルだったのに。事もなげにそう言って、それに私はその熱意に感銘して胸を撃たれたファンでもありますから♡と笑ってくれた彼女のおかげで、俺は俺らしく自信を持って笑っていられた。きっとこれは何度伝えたところであの子に伝わらない。俺にとっては奇跡を掴んだ幸福で……その先ずぅっと幸福で満たしてくれた彼女に何倍にして返そうと、俺の心の底からの喜びも幸せも感謝も、ただのひとつも足りやしないのに。今日もまた、あの子はずっと俺が諦めていたひとつの幸福を与えてくれて……それでいて何故か、俺に感謝を伝えて笑うのだ。その言葉に俺が何度救われて、彼女もまた幸せでいてくれているんだと安堵しているかも知らないまま。
「……っといけない、感慨に耽ってないで俺も家のことやっちゃわないとね」
急な陣痛で慌ただしく家を後にして、そのまま忙しない一日になってしまったせいでまだ食卓にはマグカップが置かれたままになっている。俺の大事な大事な家族が帰ってくる家が、ふたりが帰ってくる前に荒れるなんてあってはならないことだもの。
「俺もパパにならなきゃいけないんだもん、感慨にばっかり耽ってる余裕はないなぁ……」
小さく笑って、そうひとりごちた。
◇◆◇
家のことを済ませ、寝支度を終えてそれでも浮ついたままの心でぼんやりとコップを片手にソファに座り込んでいると携帯が小さく鳴った。
久遠ちゃんかな、と思い通知に急いで目を落とすと彼女ではなく岡持っちゃんからの連絡だった。会社で何かあっただろうかとメッセージを開くと、そこには「お時間大丈夫ですか?」と言う岡持っちゃんらしい内容だけが送られて来ている。平気だよと返すと、ものの数十秒もしない間に電話が鳴った。
「岡持っちゃん、どうかした?」
「……はぁ、何言ってるんですかあんた。ああいやすみません、小言を言うために電話掛けたんじゃないんで……。改めて、お子さんのご誕生……おめでとうございます、チヒロさん」
開口一番のため息の後に、やや区切るようにして間を置いた後で電話口の彼はそう言った。
「あ、そっちかぁ。ありがとう……岡持っちゃん。と言っても俺はずっと傍に居ただけで、なんにもしてないんだけどね」
また落ち着いて会えるようになったら、それは俺の奥さんに伝えてあげてと笑うと向こうから「またこれですか……」と言う声が聞こえてくる。
「うん?」
「あんたそのクセやめた方がいいですよ、本当に」
「えぇ、お小言は言うのやめたんじゃなかったの?岡持っちゃん」
「そのつもりでしたけど、自分で頑張ってないって言うなら平気でしょう別に」
「あはは、さすがうちの統括マネージャーは手厳しい」
笑ってそう答えると、岡持っちゃんからの返答が少し途切れる。彼のことだから眉間に皺を寄せたまま、やれやれと肩を竦めているんだろうなとその様子を思い浮かべて、俺も口の端に苦笑を浮かべながらコップの中のぬるくなったお茶を口に含んだ。
「……チヒロさん、前に里桜音さんに刺されたときのこと覚えてますよね?」
薮から棒の質問に、ほんの少し面食らう。なにしろそれは、俺が彼女と付き合い出して間もない頃の話だった。
「……覚えてるよ。でもなんで何年も前のことを今になって急に?」
めでたい日に聞きたい名前かと言われると、さすがの俺でも即答はできない相手だから。俺の事を好いて、俺に夢見て『こんな仕事』と言ってきたコのうちのひとり。まだ短期マネージャーだった久遠ちゃんにも怒られて、俺にも拒絶されて……逃げるように業界を辞めたまま、俺の前に現れて、刺して行ったり式にまで乗り込んできた子でもある。最終的には彼女のことも認めてくれたみたいだから、今でこそ嫌悪感を強く抱くような相手ではないけれど……思わず、刺された腹部をすりと服の上から手で撫でる。
「刺されたとき、久遠さんに手を握ってて欲しいって頼んだのあんたでしょう。それはなんででした?」
「…………発作が出て、刺された傷も痛くてパニックで。それでも彼女が、久遠ちゃんが手を握っててくれたら安心できたから……かな」
「久遠さんも同じなんですよ。出産なんて初めての経験で、不安がないわけないでしょう。確率が低いとは言え、今でも亡くなる方だっているんですから。……そんな時に手を握ってくれて安心できる相手が、久遠さんにとってはチヒロさんだからですよ。いい加減、似た者夫婦の自覚あるならその辺もわかってあげてください」
岡持っちゃんの口から出てきた思わぬ言葉に、頭を殴られたような感覚がした。いっそ、酩酊したような眩暈すら覚える。
「……っ、ああ……うん。そっかぁ、そう……なんだ……」
「……どうせ久遠さんからも謙遜してちょっと困られたんでしょう、チヒロさん」
ぐしゃぐしゃと下ろしたままの髪を掻き混ぜながら、思わず笑う。
「岡持っちゃんはよく見てるねぇ」
「何年あんたたちと一緒に居ると思ってるんですか。統括マネージャーを舐めてもらっちゃ困りますね」
「舐めたつもりはないんだけどなー、育休くれた辺りも俺のことよくわかってるなぁと思ってるし」
「普段は似た者夫婦の自覚あるのに、そういうところは自覚ないんですね。……何年も見てるこっちからすると、嫌になるくらい似てますよ。チヒロさんたち夫婦」
お人よしで自分以外にやさしいところまでそっくりですから、と小さく呆れるように嘆息しながら岡持っちゃんがそう言った。相手の力になんてなれてないのかもしれないと思いつつ、それでもできる精一杯をしたくて。どんな瞬間でも分け合っていたくて。
「……あーあ、岡持っちゃんのせいで俺今日寝られないかも」
笑って戯けるようにそう言いながら、空になったマグカップを手にソファから立ち上がる。
「……今日くらいは、まあどんな話だろうと付き合いますよ。俺も明日は休みですから」
うちの社長夫妻のめでたい日なんで、特別にと強気に電話口で笑って告げる声に目を丸くして瞬きを繰り返す。なんだかんだでこうして甘やかしてくれる辺り、岡持っちゃんも昔から全然変わってないよなぁと思う。ずっと俺の味方で居てくれた、稀有な存在。
「ほんとに?」
「いつも言ってるでしょう、久遠さんと俺くらいなんですよ。チヒロさんのこと支えてやれる相手なんて」
……まあ俺は未だに『何言ってるんだこの人』と思う機会も多いですけどねと、最後に変わらずほんの少しだけ手厳しいことを言い置いて、岡持っちゃんは言葉を切った。
「……チヒロさんが、誰よりも一番よく知ってるでしょう。あの人の言葉が全部本心で、他意なくそう想ってるんだってまっすぐなのは」
「うん……知ってる。その言葉にずっと救われ続けたんだもの、俺。今日だってずっと一番大変なのはあの子なのに、俺にありがとうって笑うんだもの」
言葉と一緒に吐いた息は、先ほどまでより僅かに熱い。
出産の時のことを思い起こすだけで、じんわりと胸の奥が熱くなって、涙腺が緩んでしまうのを感じた。額に汗を浮かべながら、苦しげに歪む彼女の背を必死にさすって声を掛ける間、今まで何度も繋いで握り締めたどの手よりも、よほど強く俺の手を握った彼女の手の感触も、小さな小さな手が——思った以上に強い力で、頬に触れた俺の指先を握ってくれたその感触もまだ、この手に色濃く残っていて。固唾を飲んで見守るしか出来ずにいた俺の前で、やっぱり強くてやさしいあの子はこんなにも大変で気高くて尊い、命を産むという一大事を終えた後ですら額に張り付いた髪をそのままに、ふにゃりと双眸を崩して「千弘さんがついて励ましてくれたから頑張りきれたんですよ」と笑っていた。
「本当に、敵わないなぁ……」
押し留めたはずの涙がじわりと滲んで、声も震える。ずっと無言でいた俺の発する言葉を、電話口で黙って聞いていてくれた大事な仲間は、声を緩めて笑っている。
「よかったですね、本当に」
恐怖も苦しみも孤独も飲み込んで、それでも頑張り続けたあなたを知ってるからこそ思います、と。彼は聞き取るのがやっとの声量でそう言って笑う。
「チヒロさんが幸せそうなの、ムカつきますけど従業員一同嬉しく想ってますよ。……心から」
うちの事務所であんたの女性恐怖症を知ってる人はみんな、彼女と付き合い出してからのあんたがずっと心の奥底から笑えてることに安堵してましたから。そう告げられて、いつだったかに馴染みの監督に言われた言葉を思い出した。
『チヒロちゃん、最近魅力に磨きがかかったんじゃない?また撮らせてよ、チヒロちゃんで撮りたい作品がいっぱいあるんだからさ!』
あれはいつだっただろうか。彼女と交際を始めて、同時にいつかは手放さなきゃいけない幸せかもしれないと覚悟もした。そのうち手放したくない存在だと自覚して……勇気を出して『永遠』なんて想いを言葉にしたら、本当に嬉しそうに破顔してあの子が事もなさげに『はい、ずっと!』って笑って返事をしてくれた後だったような気がする。
「ありがとね、岡持っちゃん。育休から戻ったら、俺も前まで以上に働いてみせるから」
「やる気は嬉しいですけどいいんですよ、あんたがいなくても|メイトプロ《うちの事務所》は潰させないんで。今はしっかり久遠さんのサポートして、我が子の成長をその目で見て楽しんでください。……復帰されたときは、その話を楽しみにしてますんで」
「なんだかその言い方されると、俺って結構事務所でも甘やかされてた?」
「自覚なかったんですか、チヒロさん?……あんたが現役の間、ずっと屋台骨でいた事務所ですよ。少なくとも、裏方の人間であんたのこと嫌いな人なんていませんし、みんなチヒロさんのためならって率先して動くようなお人好しばっかですよ、今の|会社《ウチ》は」
「……じゃあ、俺が明日寝不足の顔してあの子のとこに行ったら、怒るのは久遠ちゃんだけじゃなさそうだなぁ〜」
小さく笑って、そんな軽口を叩く。ふむと電話の向こうで頷いた彼は、そうですねと応じてからあっけらかんとこう言った。
「……というわけで前言撤回します、チヒロさんはこれ以上夜更かしせずにさっさと寝てください。では」
本当におめでとうございますと、最後にもう一度だけそう言い残して電話は切れた。
「あはは、岡持っちゃんらしいなぁ…!ありがとね、ほんとに」
そう呟いて、俺も後片付けを済ませようとキッチンへ向かった。そのまま手早く寝支度も終えて、夫婦の寝室へと向かう。
布団を剥いで潜り込んだベッドの上で、隣の空間の広さに改めて目を瞬く。
彼女がいない自室のベッドなんて、何年ぶりだろう。俺が仕事で家を空けることはあっても、彼女が家を空けることはなかった。それに結婚を機に引っ越してきたこの家では、本当に初めての経験かもしれない。いつもそこにある温もりがなくて、寂しいはずなのに——その寂しさよりもよほど大きな幸福感が、暖かく胸を占めている。
「ああ、そうだ……俺たちの子どもの名前」
この胸の暖かさが、喜びと祈りが赤ちゃんにも届くような名前にしたい。
ふたりで考えた候補の名前を思い浮かべては、字にもその願いを込められるようにと考える。名前は人生で最初の贈り物だから、慎重に。
そんなことを繰り返すうちに眠りについた日の夢は、とても暖かなものだった。