三千世界の鴉を殺し

2023/04/26


しまった、と思ったときにはもう遅かった。目の前の彼女の表情が痛みを堪えて泣き出す幼子のようなそれになって、口を噤みそうになる。
「……いやいや、なんちゅー顔してんねん。俺まだなんも言うてへんやん?『起請文《きしょうもん》って知っとる?』って聞いただけやで?」
「……煌雅くんこそ、起請文が何に使われたモンかわかって言うてる?」
震える声でそう問われて、いよいよやってもーたなと内心で頭を抱えた。初来店の際に遊郭のコンセプトに惹かれて来たのだと言っていた通り、彼女はどうにもこのテのことに詳しいらしい。
「知っとるよ、人が契約交わすときに使われてた約束破らんことを神仏に誓うモンやろ?江戸の世では遊郭でもよー使われたっちゅー話やん?」
ぽんぽんと頭を撫でながらそう言えば、間違ってはないけどと歯切れの悪い返答が返ってくる。それもそうだろう。こと本来の遊郭で使われたそれは、贔屓してくれる客に『年季が明ければ結婚する』と誓うものが多かった。もちろん、贔屓客の多くに渡される言わばリップサービスのそれである。それすらもらえない客……主は、遊女にとってそれを渡すほどの相手にも満たないという証左でもあるのだから。
この辺の|廓《くるわ》事情を知らなければ、起請文自体は戦国大名も同盟締結や和睦の証として互いに交わすこともある由緒正しきものなのだが。
やってしまったと思ったのはこれが理由だ。深く知らなければ良い意味で取れても、遊郭という場所におけるそれを知っているとなると、俺は今自分で『リップサービスしますよ〜!』と宣言したようなものである。普通に考えてアウト。しかもここ最近足繁く通ってくれる常連客に言うなど、もってのほかの内容だ。正直なりふり構わず頭を抱えてしまいたい失態である。
「……あー、ほんまにすまん。しおんのこと、傷つけたかったわけやないねん。はぁ……慣れへんことはするもんちゃうなぁ……」
正直に謝って、頭を撫でていた手を止める。恐る恐る彼女の顔色を窺うと、いくらか悲痛な色は薄れていた。だからその時の俺は気付かなかったのだ、彼女がとうに本気で俺を見ていてくれたことに。
「付け焼き刃の知識で喜ばそうとしてもよーないな。ごめんな、ほら……前にこの店来たんも遊郭の雰囲気が好きで〜って言うてたやろ、自分?」
頬を掻いてそう問えば、腕の中の彼女はこくんとちいさく頷き返した。
「……うん、まあ……それで煌雅くんにめちゃくちゃ文句言うたもんね、私」
「ほんまになー、出会い頭にいきなりチェンジや〜!って言われたんはさすがに俺も初めてやったから、面食らったわぁ。……ってそうやなくて、それでまあ……普段の接客もこんな感じやん、俺。せやからここに来てる間くらいは仕事とか嫌なことみーんな忘れて、非日常を味わってほしいしさ。前も言うたけど、ちょっとでも生きる活力になったらええなぁ、って思ってるねん」
「……うん。続けて?」
じっと見上げてくる凪いだ湖面のような瞳に、しおんの真意が読み解けず、数度続く言葉を紡ぐことを逡巡する。無意味に口を開閉すること数度を経て、意を決して言葉を続けた。
「……んでさ、常連さんにはその分サービスしてるて言うたやん?もちろんご奉仕の方もやけど、ここのコンセプトとか雰囲気が好きやって言うてたしおんには、ちゃんとそういう雰囲気も味わわせてあげたら喜んでもらえるんとちゃうかな……と思って」
いっつも普通に横文字使っとるし、こういう店で働いとってなんやけど、そんな遊郭にも詳しないし。そう結んで口を閉ざす。彼女の表情を幼子のそれと言っておきながら、まるで幼子の言い訳のような内容を並べているのは自分の方だ。最低限のコンセプトと売りは理解していても、それ以上のものは知りもしない。だから色々と調べてみたのだ。純粋に、彼女を喜ばせたくて。全部裏目に出てもうたけど……と内心で自嘲し、しおんちゃんの顔が見られなくてそっと目を伏せる。
「なぁんや、煌雅くんわざわざ調べてくれたん?」
明るい声がそう紡いで、はたと視線を上げた。先ほどまでの沈痛な色はそこにはなく、彼女はただ明るく笑むばかり。
「ちょっとびっくりしたけど、そんな風に考えて頑張ろうとしてくれてたの聞いたら怒られへんって。別に気にせんでええよ、煌雅くんと普通に話してるだけで楽しいと思って来てるんやし」
だからいつも通りの煌雅くんでおって、と括られた言葉に苦笑を零す。客に気遣われることになるとはなぁと思いながらも、「ほんまに気にしとらへん?」と聞いて顔色を窺った。
「もー、気にしてへんってば!さっきも言うたけど、ほんまに納得してなかったら何回も指名して来んって!」
「はは、さよかぁ~。……ごめんな、急にこんなこと言うて。ほら、いらんこと話してもうたし……もうしばらくこうさせといて?」
笑みと同時に零れた安堵の息を誤魔化すように、その柔らかな肌に顔を埋めて俺はもう一度腕の中の彼女にそう告げた。

◇ ◆ ◇

「今日もおおきにな〜♡仕事に疲れたら、またいつでもオーガくんに癒されに来たって♡ほな気をつけて帰るんやで〜!」
ぶんぶんと手を振りながら見送れば、はにかみながらしおんは去っていく。その後ろ姿を眺めながら、薄ら明るくなってきた空の色に目を移す。眠気覚ましに煙管を燻らせ、ひとつくぁ……と欠伸をした。ぐぐっと首を伸ばし、纏わりつく眠気を払うようにゆるく頭を振る。
「……三千世界の鴉を殺し、主と共寝がしてみたい……ってなァ、ほんまによぉ言うたもんやなぁ……」
ぷか、と吸い込んだ煙を円の形にして吐き出しながらそんなことを呟いた。遊女から客に送られたという都々逸は、色んな説がある。ただただ静かに眠りたいからという説、まだ別れたくないという説。それから、もうひとつ。こうして花を売る身として働いてみた今では、こう思いもする。割と真剣にリップサービスなどではなく、そう捉えられても共に傷つかない建前を含んだ言い方だったのではないか……と。起請文には熊野神社の護符が用いられることが多く、その神社の使いは鴉だ。贔屓客の多くに渡されたそれを破れば、誓いを果たした相手以外へ渡された分の使いの八咫烏は死んでしまう――そういう意図を含んだそれは、別にリップサービスなんかじゃなくても言うことだってあるだろう。
もう一度、はぁと煙を燻らせる。
「あっかん、もう頭回らんし限界やな〜……。はよ吸うてもて風呂入って寝よ……」
からからと窓を閉じると、店の奥にある自室へ重い足を引き摺るようにして運んだ。

◇ ◆ ◇

「は……っ!?え、なんで煌雅くんここにおんの!?」
扉を開けた途端、鳩が豆鉄砲を喰らったように目をまんまるに見開いて、驚きの声をあげる|元《﹅》常連客に俺はけらけらと笑って応じる。
「……はは、めっちゃビックリした顔してんな〜♡なんでここにおるかってそらぁアレや、あの店辞めたからやけど。ていうかあんなコトまでして、両想いやってわかってんのにまーだ変わらずに店来る気にしてたん?」
「えっ、うそぉ!?お店辞めたん……!?いやだって、煌雅くん住んでんのもあそこやん!」
「わはは、凄い顔しとるなしおん〜。……花魁のこと好きになってもうたら、そいつのこと身請けするまでがワンセットやろ?せやし諦めて身請けしたって♡」
ほんで悪いねんけど、店辞めて住むとこなくなったしココ住んでもええ?と間髪を入れずに尋ねれば、彼女の表情は驚きのそれから諦観のものになる。その後、こめかみを揉むように支えたかと思えば、一瞬遅れてふはっと吹き出した。
「……ええよ、煌雅くんには狭い部屋かもしれんけど。とりあえず、ずっと玄関先のままやとアレやし上がる?」
そう言って半身を引いたしおんの開けたスペースに、そっと一歩踏み出す。ちいさな鞄と身ひとつだけで済んでしまった引越しとも言えないような引越しは、一瞬で終わった。すんと鼻腔をくすぐる嗅ぎ慣れた彼女から香るのと同じそれに、ひとりでに頬が緩んでいく。
「夢の同棲生活スタートやな♡これでようやくしおんとも共寝ができるっちゅーワケや♡」
「……んー?それあれ?三千世界の鴉を殺し〜、のやつ?」
「そうそ、ようわかったなぁ♡さすがやわ♡……俺らこれまで朝までずうっと一緒におったことはないやん?」
「それで都々逸?煌雅くんもなんやかんや好きやなぁ……」
笑ってそう言う彼女の後ろに続きながら、部屋を見回す。煌雅くん普通のベッドで身体収まんの?と難しい顔をするしおんに抱きつきながら、にかっと笑みを返す。
「……せやからほら、もしかしたら今日はぎょうさん鴉死なしてもうたかもな?」
冗談やけど、と肩を竦めてちいさく言い添えれば小柄な彼女がこちらを振り仰いだ。
「……はぁ、悪い花魁やなぁ。でーも、煌雅くん?今日から住むんは廓やないんやから、また禿から始める心積りでおってよ♡」
「うげっ……そう来る!?今後のふたりの生活のためにも精一杯頑張るさかい、これからあんじょうよろしゅうしたってや♡」