胸中
2023/06/04
座ったまま、昏い夜の帳を窓から見上げてひとつ息を吐くような仕草をする。〝仕草〟なのは、俺が死人で|僵尸《キョンシー》だからだ。呼吸もない……というより、生命活動の一切合切がないのだから『それらしいポーズ』を取ることができるというだけに過ぎない。
「……よぉ眠ってるわ、ホンマ。無防備やなぁ……」
寝台の上ですやすやと穏やかな寝息を立てて眠りこける契約主の顔をチラと一瞥して、吐息と変わらないほどの声でそう零す。じわりと身体の奥で感じられる、繋がったばかりの|法力の導線《パス》を意識するように、ふと息を吐いて目を細めた。
血の循環しない肉体は、すでに先ほどまでの熱を失い冷え始めている。けれど。僵尸になってからもそれなりの年数の経過した俺の第二の人生でも初めて、あんなにも血に熱が通う感覚を覚えたせいか、ふわふわと気持ちが浮ついたままになっているのを自分でも感じた。
から、と小さく窓を開けると新月の夜の冷たく冷えた風が体表を撫でていく。揺蕩うような心地から僅かに目が醒めるようで、眠れもしないのにその肌を刺す冷気の心地良さに、身を任せるように目を閉じた。さわさわと小さく擦れる梢の音だけが、暗がりから時折響く。道士様の代役として見初めた彼女は、今日の騒動のせいか先ほどから身動ぎもせず寝入り続けていた。寝入るまではと頭を撫でていた手を除けると、指先に髪が数本絡む。しばらく名残惜しむようにその残滓を指先で弄んで、ついと滑らせるように指を離した。
彼女の身体の中では今、目まぐるしく変化が起こっている最中だろう。俺との間に繋いだ法力の道を、身体に馴染ませるためだ。これまで法術とも縁遠く、自分に法力があることすら知らなかったしおんからすれば、それはあまりに大きな変化だろう。トラブルで帰国できなくなったかと思えば命を狙われ、自分の身を守るためとは言え僵尸に身体を捧げ……とくれば、自覚がなくとも疲労は色濃いだろうと言うのも想像に難くない。
(ま、不死者になるか性交渉するか……|実《﹅》|質《﹅》|一《﹅》|択《﹅》の問いを迫ったんも俺なんやけど……)
彼女といると、なぜかひどく懐かしい気持ちになるのだ。俺の創造主たるこの国至宝の法術師でもある道士様と、法力の波長が近いせいもあるのだろう。最初に目覚めた時、俺は道士様が目覚めて会いに来てくれたのだとまるで疑わなかった。それほどにふたりの波長は近い。防腐処理ほかをはじめ、この身体の隅々まで道士様の法術で処理が施された俺自身が言うのだから、間違いようがないほどに。
懐かしい気持ちと、寂しさが同時に込み上げる。しんと静寂に包まれた、夜半の動植物も眠るこの時間帯は、ひどくうら寂しい気分になるのだなと口端に自嘲気味の笑みを浮かべた。この場所が、道士様が生きていた頃使っていた屋敷だというせいもあるかもしれないが。長年、俺は彼女が年老いてその命を終えるまで、この肉体に固着化された魂がゆえに自我を持ち、一番近くでその生涯を見守ってきたのだ。彼女がその生涯を閉じる際、眠りにつくことを命じられてから実に三百年以上振りに目が覚めて、ようやく再会が叶うと思ったら……その夢は瞬く間に霧散してしまった。新たに身体に流れる法力は、もうすっかり馴染んで道士様の残した術のそれらと差異がない。
「よっと……」
腰を上げると、その辺に放ったままになっていた|長袍《チャンパオ》に袖を通す。もう一度振り返って彼女が寝ているのを確認すると、すと戸を閉めて外に出た。幾つかの回廊を移動して庭に出る。朝になって陽が登れば、また行動が制限されてしまう。その前に彼女が起きて食べるものを調達しておこうと思ったのだ。
夜半の外気は冷たいが、生きた人間ではない身体にはなんてことのない温度だった。ただ、離れていても繋がりを感じさせる道だけがじわりと身体の奥底で温かい。まだ数刻ほどしか共にしていない相手に対してこんなことを思うのもおかしいかもしれないが、ひとりでいるこの時間がこれほどまでに苦しくて、温度を感じられないことがこんなにも寂しくて、それだけで想いを自覚するには十分だった。俺が不死者になってからの時間は決して短くない。道士様にどこか寂しく、痛みを堪えるような目で俺を見られたときにも……こんな感情を抱いたことがある。けれど彼女は俺に対して何を語ることもなかったし、俺も僵尸になる前の記憶を持っていなかったから……必要以上の接触を避けていた。聞いておけばなにか変わったのだろうか、とも思うが今さらもう遅い。三百年以上経過して、道士様はまだ輪廻を終えていないのだろうか。あと何年、何十年……俺はひとりで師の帰りを待つのだろう。
「さっすがに劣化防止その他諸々の術が何重にも施されてるにしても、家の中にあるもんは食べる気にならんよなぁ……」
気持ちを入れ替えるように周囲をぐるりと見回して、そんなことを考える。そうなると自ずと彼女のために準備が出来そうなものは、庭に自生している桃だけになってしまった。年中何かしらの果実が実を結ぶように設計されてはいるのだが、しおんはこの国の人間ですらない。時代も大きく変わっているにしても、桃なら『不老長寿の実』として有名で縁起も良いだろう。邪気を祓う果実としても知られている。であれば、昨日の散々な状況もきっと好転するはずだ。偶然居合わせて助けただけの行きずりの関係ではなく、今の俺と彼女の関係は少なくとも契約上は『道士と専属僵尸』なのだから。
◇ ◆ ◇
微かな布擦れが聞こえて、音の方へ目をやる。のそのそと寝台の上で身体を起こしたしおんが、まだ眠たげな眼を擦っていた。ゆるゆるとした動きで、不思議そうな顔で周囲を見回っている。ゆっくりと部屋を一周見回したところで、ようやく俺に気が付いたらしい。その目が僅かに開かれて、光が灯る。
「……煌雅、くん」
寝起きでほんの少し、掠れて低くなった声で名を呼ばれる。「ん」と一言応じてそちらへ歩を進めると、彼女は緩みきった表情でひとつちいさく欠伸をした。すいと寝台の傍にしゃがみ込むと、まだ視点の定まり切らない朧な視線がこちらを向く。
「おはようさん、よう眠れたみたいやな」
「ん……おはよ、今何時……?」
「まだ九時ちょっと前やで、どうせ行動は夜やし気にせんとき」
頭を軽く撫でてやると、猫のように目を細める。掌の下でさらりと手触りの良い髪が揺れた。ほんまに素直な猫みたいやなぁと思うと、思わず笑いがこみ上げてくる。喉奥で笑いを噛み殺して、頭上に置いたその手をそのまま腹部へと滑らせた。すり、と肌の上をなぞると身体がぴくりと震える。
「……どや?まだ違和感あるか?」
「っ、ん……ううん、もう平気……」
「よしよし、ほな湯浴みでもしに行こか。昨日あのまんま寝たし、身体気持ち悪いやろ」
おいでと手を差し出すと、ちいさな手が俺の手を掴む。繋がれた手のひらから伝わる体温にじわりと身体の奥底が熱くなるような感覚がした。ただ人恋しいのとは違う、身体が渇望する想い。それが込み上がってはもう巡るはずのない血液に熱を通していく。死した身体にも関わらず、生前と変わりなく熱が燻っていくのが分かる。
膝裏に手を入れてひょいとその身体を抱え上げる。やはりその身体は昨晩と変わらず軽く、温かかった。
「ひゃっ、わ……っ!?ちょ、煌雅くん下ろして……!」
「下ろしたところで、しおんどこが風呂かも知らんやろ。三百年前のまんまやし、説明もなしに放り込まれて分かるって言えるか?」
「ぐっ……。うぅ、分かりません……」
「ふは、せやろ?ほな大人しくしとき♡」
すたすたと足早に浴室へ向かって歩いていく。庭に面した廊下へ出ると、彼女が素っ頓狂な声を上げて思いきりしがみついてきた。改築された道士様の屋敷は、俺たち僵尸でも自由に行動できるよう、日光が差し込まないように設計されているのだ。
「お、煌雅くん……!外!ここ外!!」
「ん~?俺昨日言わんかったっけ、ここ劣化防止だけやのうて隠匿魔除け認識阻害侵入防止その他もろもろの術が何重にもかけられてんねん。せやから道士様と同格かそれ以上の術師でもなかったらそもそも認識できんし、認識できたとしても許可されたモン以外は入られへんようになっとるんよ」
「えっ、なにそれ!?劣化せえへんようになっとるってことしか聞いてへん……!」
「ちゅーわけで誰も見とらんし安心してええで、今から風呂入るのにもっぺん服着るのも煩わしいやろ?」
「そ、それはそうやけど……!いやでも恥ずかしいもんは恥ずかしいねんけど……っ!?」
先ほどから俺で身体を隠すようにしている彼女の顔は、ほぼ見えない。けれど触れた箇所から感じる体温は、先ほどよりも余程高い。本気で恥ずかしがっているのだろうなというのが伝わって、思わずちいさく声を漏らした。途端に「煌雅くん!?」と抗議の声が上がる。
「いや悪い、めちゃくちゃ素直な子やなぁと思ったら思わずな〜」
「いや、言うほど自分私と歳変わらんやろ……!」
「おーん?言うたやろ、俺三百年以上昔の人間やで?見た目は確かに近いけど、普通にそのあと道士様が老衰で亡くなるまでずっと一緒におったんやし。自分より余程歳上やねんで?」
そんなことを話しているうちに、浴室に辿り着く。すとんと足を下ろしてやると、「ん、ありがとう」とちいさく応じて彼女はこちらを見上げた。なんかあったっけなと目を瞬かせると、ぐるりと浴室を一瞥する。もちろん屋敷全体に掛けられた劣化防止の術はここにも有効で、埃ひとつない。
「……思ったよりちゃんとお風呂や……?」
驚いたようにぽつりと呟いたその声に、思わず笑みを浮かべていた。確かに浴槽は木製できちんと栓もある。これを抜けば地中を通した管を伝って、外に排水される仕組みになっている。冷えないように浴室内に暖炉もついていて、当時のままとは言えそこまで困ることもないだろうとは思う。ただまあ、俺らの時代はそもそも湯水も貴重で毎日入るモンでもなかったから、その辺は多少違うだろうが。そもそも入浴ではなく『沐浴』と呼ぶのが常だった。
「ほんま?よかった〜、お湯も貼っといたし気にせんと入ってくれてええからな!」
「あっ、いやちょっと待って……!タオルとかどうしたらええん……?」
「ああそか、ほなら服と一緒に取って来て俺が外立ってるから終わったら呼んでくれたらええで」
それから、と言葉を続ける。シャワーはないから綺麗なうちに湯汲んで使ってな、身体洗うんは道士様用の|絺《ち》のやつ新しいの出しといたしそれ使って……と説明し浴室を出た。足早に歩いて部屋へ戻る。たった少しの距離も惜しむように。
◇ ◆ ◇
「だから!なんでまた抱き上げるん!?」
腕の中で顔を赤くして声を上げるしおんを見下ろした。そうは言いつつも暴れたりせずにしっかりしがみついている矛盾した行動に、勝手に頬が緩んでしまうのだ。何か言いたげにこちらを見上げて、結局何も言わずに口を噤んだ。頬を膨らませたまま、顔を隠すようにひっついて押し黙る。その耳朶がほんのりと赤いことに気がついて、声を漏らさないようにちいさく笑った。呼吸も何もない身体がゆえに、声さえ漏らさなければバレることはない。普通の人間なら身体の揺れでわかるのだろうが、それもないのだ。
「この方が移動も早いやろ?」
部屋に戻ろなーと言うと、敢えてゆっくりとした歩調で部屋へ向かう。異様なほどに身体に馴染む、そのほのかな熱の温度を手放したくなくて。わずかな時間でもいいから、この冷たい屍体を生きている頃と遜色のないほどに温めてくれるそれを感じていたかった。例え、今日の夜には手放してもう一生触れることのないものだとしても。彼女が生きている限り、肉体を通じるパスから淡くその存在と熱を感じることはできる。たった一日共にしただけで、手放しがたくなってしまった。数百年ひとりでいたから、ただ寂しいだけだと自分に言い聞かせる。彼女と別れれば、その日から俺は自由になるのだ。そうすれば第二の人生が始まる。僵尸だとバレさえしなければ、人に紛れて生活ができる。腐臭もしない、劣化もしない特殊な身体は自我が擦り切れることもない。こうして忌憚なく温度のない身体に触れ、物を言ってくれる存在はもう二度とないかもしれなくても……だ。彼女はまだ若いし、それなりの年数活動できるだろう。それだけの期間があればきっと、また寂しさも薄れる。道士様の寂しげな表情を見た時と同様、胸の奥にこびりつくような鈍い痛みを覚えることもあるだろうが……それは、年月が解決をしてくれる。
部屋までは互いに無言のまま、寄り添うように身を寄せた。
◇ ◆ ◇
「わっ、桃わざわざ取っといてくれたんや……?ありがとう、煌雅くん!」
夜の間に取っておいた桃を手渡すと、彼女は目を見開いて顔を綻ばせる。なんか久々に桃そのままで見るかも……と手にした桃を眺める表情は、昨日ほど暗くない。少しでも元気が出たならよかった……と安堵して一度目を閉じた。ふと表情をゆるめて視線を戻すと、しおんはこちらを不思議そうな顔で見上げている。
「煌雅くんは食べへんの?」
思いがけない言葉に、思わず目を瞬く。僵尸が死体だということは知っていると昨日話していたのと同じ口で、普通の人間と変わりない扱いをするのだから……ヘンな子やなぁとちいさく笑った。
「ああ、俺は別に食わんでも困らんからええねん」
ぽんと頭の上に手を置くと「そっかぁ……」とややトーンの落ちた声が返ってくる。ハの字型に下げられた眉とその表情に、少しの翳りを感じて。考えるより先に、思わず言葉が口をついていた。
「……って、なんでそこでションボリすんねん!」
「だって……煌雅くんと一緒に食べれんの、ちょっと寂しくて……」
……嗚呼、やっぱり。鎮めたはずの気持ちが、胸の奥でじわりと温度を持つのを感じる。
「……ふはっ、なんやそれ……♡ほんまに不思議な子やなぁ、自分」
別れが惜しくなるから、考えないようにしようと思っていたそれが柔らかに形を持ち始めた。
それはそれとして、俺が生前の記憶を取り戻してこの数奇な縁の由縁を知るのは……もう少し先の別の話なんやけど。