約束
2025/09/23
「……っ、千弘くん……!」
耐えきれなくて振り向いたとき、そこはもうワンダーランドではなかった。薄暗い路地にひとり、私はぽつんと立ち尽くすばかり。
……戻ってきてしまった。ハートの女王とアリスという役柄を被らざるを得なかったあの場では、|私《アリス》が|彼《女王》に全てを尋ねるほどの余裕が持てなかった。彼が言う『あの世とこの世の間』の世界、その世界を彼が女王として統治している意味も聞けないまま。《《またね》》と言う曖昧な約束だけを結んで、幼かったあの日のようにまたひとりで。
「……信じて、いいんだよね……?」
ワンダーランドに行く前、足を運んだはずのバーすらそこにはなく。問いかけに答えてくれる声も、ない。とぼとぼと自宅への道を進みながら、頭にこびりついて離れないのはただひとつ、どこか翳りのある表情で私を見送る、想い人の最後の表情だった。
◇◆◇
家に帰ってから気付いたのは、どうやらあちらの世界で過ごしたのと同じ日数がこちらでも経過しているということ。無事、仕事を無断欠勤した上、数日間連絡すら取れず無視したことになっていた私は、残業続きだったこともあり、そのまましばらく休養のために休暇を命じられた。
「……とは言っても、なぁ……」
今はまだ、自分の中の芯がぐにゃぐにゃで何もする気になれない。ただひたすら、楽しかった子どもの頃の記憶と、数日間の再会を忘れないようにリフレインし続ける。
「やくそく」
言葉にすると、どうしようもなく涙腺が緩む。これまで長い間、僅かな時間しか交流を持てなかった彼の、『迎えに行くね』の約束だけを支えに待ち続けて来られたと言うのに。目に見える、触れられるものが……私と彼の間には何もなかった。子どもの時分は、彼が自由になれる僅かな自習の時間を縫って遊んでいたから。今は、お互いの存在が遠くに行ってしまったから。写真すらない、幼い頃に交わした約束を|縁《よすが》に繋がった関係。たしかに夢と現の狭間で、もう一度大好きも愛してるも交わしたとは言え、千弘くんも私も、その先の関係を示す言葉は交わさなかった。この関係を、いったい何と表現すればいいのだろう。ともすれば夢の間に消えてしまいそうな記憶と約束だけが、私たちを繋ぐ縁だ。
こんなにも鮮明に、覚えているのに。彼の匂いも、体温も、柔らかな笑みも、女王ではなく千弘くんとしての表情も、私の名を……少し懐かしむように、確かめるように呼んでくれる声も、ぜんぶ。
「……私が、優しいなんてうそだよ……っ!」
無意識に最後にただひとつだけ、彼が残してくれた|想い《モノ》に縋るように下腹を撫でて、食い縛った歯の隙間から声を溢した。
——ああ、嗚呼。本当はずっと優しいのはあなたの方なのに。きっとあの日も明日には自分が居なくなることを知っていた。幼い私が寂しがったとき、上手に突き放すことができないから——自分の気持ちと、またねの約束を交わして。今度は、|ま《﹅》|だ《﹅》|死《﹅》|ん《﹅》|だ《﹅》|わ《﹅》|け《﹅》|じ《﹅》|ゃ《﹅》|な《﹅》|い《﹅》私を、自分の手で首を刎ねて死なせてしまうことができなくて。彼はずっと、自分のことを一番に置かずただ私のことだけを考えて最後の選択を決めてくれていた。
ずっとずっと、本当に優しいのは千弘くんだと言うのに……私のことを優しいと称す貴方は、きっとその優しさを弱さと狡さだと思っているのだろう。
「あ……ぁあ、あ……!」
喉奥から咆哮のように迸った激情は、行く先を失って部屋の中で霧散する。私が好きなぜんぶが、愛したすべてがどうにもならないほど遠くて、綺麗で。この手に収めておけないことを、今ほど悔やんだことはなかった。
……私はね、千弘くん。貴方が望んでくれたなら、この首を刎ねられることくらい、これっぽっちも怖いと思わなかったよ。千弘くんが苦しんでいる方が、辛かった。
幼い私が教えられるはずもなかっただろうけど、いつかまた逢えたら。ふん縛ってでも、愛されていい、求めていい、遠慮して話さず千弘くんひとりで傷ついて済ませようとするなら、その分私は自分で進んで同じだけの疵を作りに行ってやるんだって、伝えるから。
一緒に傷ついて、泣いて、そうして掴んでいく選択肢を、千弘くんが取ってもいいと思えるくらい強くなってみせるから。……だから、絶対に待っていてね。
私もきっと、この涙が枯れたら……また貴方が好きと言ってくれた笑顔で、しっかり立って生きていくから。今だけは、整理のつかない感情と寂しさに飲まれてしまうことを許してほしい。
◇◆◇
「ねえ、お母さんは幸せだった?」
「ふふ、|十《﹅》|分《﹅》幸せよ。愛する人の忘れ形見をずぅっと守りきったんだもの」
◇◆◇
ふと目を覚ますと、初めて見たはずなのによく知っている気がする光景、彼岸との境界線が目の前に広がっていた。思ったよりも荒れていない、穏やかな川面に視線を落とす。
「もう二度と、来れないんだと思ってたのにな。……いつの間に三途の川ってワンダーランドになったんですか、|女《﹅》|王《﹅》|様《﹅》?」
背後の気配に、そんな問いを投げる。困らせるのをわかっていて意地の悪い質問をしたのは、叶える気など最初からない優しすぎるウソへのほんの意趣返しだ。
「……今だけ、かな。アリスちゃんが逝くときに、俺も女王の仕事はおしまいって決めてたから」
バツの悪そうな声でそう言ってのけるヒトを、振り返ってようやく視界に入れた。けれど続くのは、再会を喜ぶ言葉ではない。
「……自分の首を、刎ねさせて?」
「…………うん」
気付いてたんだねとぽそりと溢された言葉に、黙って首肯する。ワンダーランドで女王直々に説明してくれたルールでは、『ワンダーランドに迷い込んだ者』のことしか触れていなかった。私のように|迷い込んだ《此岸》側の人間が〝ワンダーランドに縛り付けられる〟ならば。元々あの世界の住人であるはずの彼らはと考えれば、答えは自ずと絞られる。
久しぶりに見た彼の姿は、最後にワンダーランドで見送られた時と寸分違わずそこに在った。じゃり、と足元で不釣り合いな石が擦れる音が鳴る。老いた足腰には少々辛い不安定な足場を、立ち止まりもせず一心に進む。ジャッジャッと鳴る音と混ざって、隠しきれないほどの嗚咽が漏れるのも止められず。ぽかりと彼の鳩尾辺りを叩いた手には、まともに力を籠められなかった。
「ばか!千弘くんのばか!」
思った以上に自分の精神はあの頃のまま成長していなかったらしい。ようやく逢えたと言うのに、口を突いて出たのは寂寥でも歓喜でもなく、そんな幼稚な罵倒だった。
「……待ってた、ずっと待ってたんだよ!」
わあわあと、幼子のようにしゃくりあげる。後から後から頬を伝う熱が、凪いだはずの感情の湖面を波立たせた。ずっと見たかったはずの彼の顔も、滲んで見えない。何よりもこのぐしゃぐしゃの泣き顔も、皺だらけになった顔も見られたくはなくて……ただ、静かに私の慟哭を受け止める彼の胸元一点を朧な視界で捉えるしかなかった。
「……うん、ごめんね。約束、ただの一度も守れなかった」
ぽんぽんと宥めるように、呼吸を落ち着けさせるようにゆっくりやさしいリズムで頭を撫でる大きな手が、最後に触れた時の記憶よりも幾分か大きく感じて。記憶の曖昧さと、己の身がそれほど変わってしまったことをどこか冷静に思い知る。ぐずぐずと鼻を鳴らして、辿々しく言葉を紡いだ。
「ちがう……ちがうよ、約束は、守ってくれてるよ。確かに生きてる間じゃなかったかもしれないけど、いま、こうして会ってる。……それとも、千弘くんは迎えにきてくれたわけじゃ、なぁい?」
たしかに……すぐにじゃ、なかったけど。なんとかそこまで、途切れ途切れにではあるものの言葉にしてしまえば、もう後には戻れなくて。今こうして居てくれることが答えだと知りつつ、そんなわかりきったことを聞いた。居心地の悪さを誤魔化すように、彼の手を押しやる形で胸に頭を預ける。互いに鼓動の音はしない。互いに変わってしまったなと思う。
「ううん、そんなことないよ。……迎えに、来たんだ。遅くなっちゃったけど……約束、守れなくてごめん。正直、今もどうして会えてるのかわからない」
あの時俺は諦めて、生まれ変わったらまた会おう、その時はどんなことがあっても離さないって心に決めて見送ったんだ。困ったようにそう言った後、迷いながら伸ばした手を彼はそっと私の背中に回した。撫でているのか抱きしめているのかわからないような力加減で、数度背をなぞられる。自身でも答えを探すかのように、迷いを滲ませて。
「理屈は、なんだっていいよ。今こうして逢えたから、他はもうなんだっていい」
するりと零れた言葉に、自分の覚悟はとうに決まっていたことを今さらのように思い知る。手を伸ばして、その背中を抱きしめた。錯覚だろうか、最後に千弘くんと逢った頃に戻ったような気がするのは。言葉遣いも、心身ともに。あの日の覚悟が鮮明によみがえる。
「……離さないでいてくれるんでしょ?私は我儘だから、生まれ変わったらなんて待ってられない。この先が天国でも地獄でも、生まれ変わる前からこの先はずっと一緒にいてくれる?」
私だってもう二度と、離したりしないから。手を取って浅瀬に足を進める。なぜかはわからないけれど、この先も絶対に千弘くんと同じ場所で同じ道を一緒に歩いて行けるという自信が今はあるから。答えはもう、聞かなくてもいいかなとすら思えた。