空白
2021/11/29
「……演習は以上!先の経験を次に活かすように」
突き抜けるような青い空の下、土煙が上がるなか――、よく通る声の、号令が聞こえる。
執務室の窓の桟に腰掛け、その様子を一瞥した。ざ、と音を立てて敬礼をする隊列の前に、小柄な姿が見える。背中を伸ばし凛と立つ姿は可憐ささえあるのに、そこから漂う緊張感に、例え同階級の者であろうが、身じろぎすら出来なくなるのだ。
――僅かに静寂が訪れて、風が窓を打つカタカタという小さな音だけが部屋に響いた。
「……総員、解散!」
一拍の間を置いてそう短く号令をかけた准尉の声に、隊員たちは最敬礼をやめて宿舎の方へ駆けて行く。走っていく彼らの姿を見送ったあと、不意に彼女は空を見上げた。
今回彼女の進言で行われた演習は、野営訓練と遠征先……慣れない場所かつ戦闘に向かない場所での夜戦を想定してのものだった。俺たちと別の師団ではあるが、そこに所属する隊が遠征中に敵陣営とかち合い、そのまま戦闘となり軽被害を受けたことも関係するのだろう。
准尉が所属・指揮官を務める第三部隊も、ここしばらくで下士官の補充と士官クラスの要員交代もあり、そろそろ大規模な演習をする必要があると語っていたことを思い出す。
それにしてもと、つられるように視線を空へと移動させて、ほとんど丸一日前に出立した彼女らのことを思って、薄く苦笑をした。この照りつけるような日差しでは、ほとんど寝ていない身体には酷だろう。
隊員らの多くは、この後は夕方頃まで余暇を言い渡されているはずだが、指揮官かつ隊長でもある准尉は、この後も任務が続く。佐官相手に報告を行う軍議もあって、まだ休むわけにはいかないのだ。多少なり負傷者は出たはずで、その把握・報告も必要になる。
ただでさえ軍人の多くは男だ。そもそも身体のつくり、基礎体力からして違う彼らを率いて前線で戦い続ける過酷さは相当なもののはずなのに。本当に強い子だな、と改めて思う。
軍帽をかぶり直した彼女が視線を下げる。ふとこちらを見ていることに気が付いて、ひらひらと手を振った。
気が付いたのか、一瞬間をおいて彼女が頭を下げる。ここでの俺と彼女の関係は、恋人である前に直属の上司と部下――|士官《中尉》と|准士官《准尉》だ。
天性のセンスからのものか、戦闘において彼女のあげた功績は数知れない。この基地に配属された頃から、戦闘センスはほかの誰より抜きんでていたし、戦場でも冷静に俯瞰して戦況を見られている。立案も提示も上手く、上官に対しても物怖じせずに発言する。
本当に、よく出来た部下だ。だからこそ抱えているものがたくさんあるはずなのに、そんなことを感じさせない。そんなところが愛らしくも、俺の心を苦くさせる。
頭を下げた彼女が、その場から立ち去っていく。それを見送って、俺も窓から離れた。
……ノックの音を、密かに待ち侘びながら。
◇ ◆ ◇
コンコン、と控えめな音で扉が叩かれる。どうぞと応じて、扉が開いていくのを目で追った。
「失礼します、高嶺中尉」
ただいま帰還しました、と言う声と共に、執務室の中に彼女が一歩踏み込む。
「おかえり、神里准尉。今回の演習の首尾は?」
「は。……まず先んじて配属された下士官ですが、もう少し練度を上げるために通常の訓練を少し変更した方が良いかと思います」
このままでは野営時に単独哨戒は難しいでしょうし、今回もそれで負傷者が出ていますと報告を述べる様子は、いっぺんの緩みもないほどに真剣だ。
「……そうか。負傷者は何人ほど?」
「10名少々ですね。ほとんど擦過傷や打ち身で任務に支障はありません。……が、そのほぼすべてが新たに配属になった下士官です。こちらの指揮もよくありませんでした」
「まあ、ただでさえ慣れない領地での初演習だ。その程度の人数で済んだなら僥倖だろう」
「……中尉。怪我人は守備陣営側の作戦員のみ、ですよ。敵陣営側をやってもらった隊員には詳細な指示は出していたにしろ、乱戦後は主だった指揮なしです。それでこの偏りはまず間違いなく戦場では響きます」
そもそも、と彼女は言葉を続ける。
「戦場では敵も、味方もより鬼気迫る状況です。周囲には血も、怒号も、悲鳴も飛び交います。武器訓練も兼ねているので、新兵には銃剣の使用も許可しました。対するこちらは木銃です。大きな負傷が出なかったのは確かに幸いですが、まず間違いなく今の状況では下士官たちは負傷すればそこまで――。気力が折れます」
本当に、見た目に反して冷静で、俯瞰的で。それでいて誰よりも仲間に対して情に篤い。だから、こうして准尉はあらゆる人員のことを気に掛ける。失わないように、失わせないように。
「もちろん、分かったうえでの評価だよ。確かに課題点は多いが、ひとまず皆無事であったことくらいは褒めてあげないとね。……そうじゃないと、折れる心もあるからさ」
そうでしょ、久遠ちゃんと。ふと口調を緩めてそう言えば、彼女は少し押し黙った。不服そうではあるが、俺の言ったことにも筋が通っていることを知っているから、何も言い返さない。
スイッチが入っている時の准尉は、誰よりも苛烈で、|峻烈《しゅんれつ》だ。自身はもちろん、隊の誰にも敵前で背を向けることを許さない。
――強いなぁ、と思う。彼女は怖くないのだろうか、と馬鹿なことを考えることがある。
そんなわけはないと、知っているのに。俺の腕の中でだけ見せる、年相応のあどけなさを残すあの表情のときだけ、押し隠しているのであろう複雑な感情で、その瞳を小さく揺らすのだから。
それでも、俺の前でも彼女は弱音を吐かない。ただ強く笑って、前だけを向いている。そうすれば俺が次にどうするかを、本能的に察しているからだろう。
「……はぁ、本当に。中尉の飴のおかげで成り立っているところがありますね……。お言葉の通りです。褒めるところは褒めないといけませんでした」
あとで怪我の様子を見がてら各人のところを回ってきますと言って、ようやく彼女は表情を緩めた。
「うん、そうしてあげて。……っと、でももうすぐ軍議の時間だよね。どうせ俺も出るしそれまで休んだら?この時間帯まで起きてると、つらいでしょ」
椅子を引きながらそう言えば、久遠ちゃんはほんの少しだけ眉根を寄せる。
「……もしかして、さっき空睨んでたの、見てました……?」
「あはは、うん。偶然、ね」
「……偶然、ですか。中尉が言うならそういうことにしておきます。で、先ほどの提案ですが。……乗っても?」
「ふふっ、もちろんいいよ。……どうする?お疲れだろうし、ぎゅってしてあげよっか?」
「それは、さすがに……気が抜けてこの後の軍議で使い物にならなくなったら困るので、一旦遠慮します」
「一旦、なんだ?」
「言葉の綾です……!」
からかい過ぎちゃったかと笑いながら、ほんの少し鼻白んだ彼女を手招きした。こういうとき、普段は無駄だなと思うのに、このやけに豪奢な執務机がここにあってよかったなと、雁字搦めの地位でひとつだけ、感謝をする。
そそくさと足元の机の下に潜っていった准尉が、足を抱えて丸くなる。重たげな瞼を必死に持ち上げている様子からも、どれだけ気を張っていたのかが伝わった。
彼女は准士官で、佐官以上も出席する軍議に遅れるわけにもいかず、これまでだって、いつもこうして気を張っていたのだろう。その小さな身体に不釣り合いなほどの荷物を背負い、潰れないように。
早々に机の隅に頭を預けて目を瞑ると、彼女はたちまち眠りに落ちていってしまった。お疲れ様、と唇だけでつぶやいて手を伸ばす。こうして横にすらならずに仮眠を取ることにも、すっかり慣れてしまった様子の彼女を見ていると、些か複雑な気持ちにもなる。
どう見たって、こんなに小さくて、ともすれば簡単に折れてしまいそうな体躯をしている女の子が、こんなところにいるのは向いていないだろうに。前線に出られない俺の代わりに兵を率いて、一番危険な戦線で身体を張り続ける彼女に……こんなことは言えないけれど。それでもずっとその気持ちは拭えなくて、俺は言葉の代わりに眠る彼女の頬に、指を這わせた。
――どうか、このひとときだけでも、彼女の心が真に休まりますように、と。
するりと、撫でるように頬に這わせたその指に、擦り寄るようにして眠る准尉が顔を寄せる。……こんな風に気を許してくれるのが、俺だけなんだという事実に、仄暗い充足感で身体が満たされていく。
すり、すり、と。何度も指先で、まだ少し砂っぽい彼女の肌を何度も撫でた。
◇ ◆ ◇
背後で鈍い音を立てて、執務室の扉が閉まる。その音を合図にするように、歩きながら俺はふう、と声を上げた。
「んん〜っ、今日の会議は長引いたねぇ」
「激化してきている戦線も多いですからね。……この状況下で担当任務の調整を含む提案をしたので、反対意見が出るのは想定していましたけど……」
双方の譲歩範囲を探るのにここまで時間がかかるとは、と。疲れた《《よう》》にではなく、本当に珍しく疲れ切った声でそう弱音を吐く准尉の顔には、色濃い疲労が浮かんでいる。
それもそうだろう。たかだか十数分程度の仮眠は取ったにしろ、丸一日半動きっぱなしになっているのだ。
この状況で会議の間中、疲れなど微塵も感じさせなかった彼女が、俺の前では疲労を滲ませる。
じわじわと込み上げてくる感情を感じながら、俺は椅子に腰を下ろし彼女の方へと腕を伸ばす。
「さすがにあの仮眠だけじゃあ、お疲れだよねぇ」
伸ばされた腕を見て硬直し、こちらの表情を伺っている久遠ちゃんに笑みを向けた。
「ほら、俺が癒してあげるからおいで?」
「……い、いやあの……!演習から戻って湯浴みしたとは言え、本当に浴びた程度なので……!」
ぶんぶんと音が鳴りそうなほど首を左右に振る様子に、思わず笑みが深まる。ふふ、と堪えきれずに漏れた笑い声に、彼女は顔を赤らめてむっと眉を寄せた。
「気にしないよ、そんなこと。ほーら、遠慮してないでおいで?疲れてるでしょ?」
「……食い下がっても無駄、でしょうから……行きます、けど」
色々と目を瞑っていただけると、と小声で言いながらようやく俺の腕の中に歩んできたその身体を、ぎゅっと抱き寄せる。
「本当にお疲れ様……♡」
そう囁いて頭を撫でて、顔を覗き込む。先ほどまで凛々しかった表情の面影などどこにも、一片も残っていないほど、緩んだ表情をした彼女と目が合う。
「ふふっ、すっかり表情が蕩けちゃったね……♡ こんなに蕩けた久遠ちゃんの顔、部下には見せられないね?」
最初の複雑そうな表情までも溶かしてしまうくらいに。目を細めただ撫でられるがままになっている表情に、戦場を駆け目を惹く勇猛な将の面影などどこにもない。
……ただ、俺の腕の中で脱力して抱擁と体温とを享受している姿は、その瞬間だけ彼女のことを〝准尉〟ではなく、ひとりの女の子に戻す。とろんと落ちた瞼で見上げてくるその表情に、思わず喉が鳴った。
「……そう言う千弘さんも、部下には見せられない顔ですよ……?」
そう言いながらふにゃりと笑い、久遠ちゃんはすりと頭を俺の身体の方へと寄せてくる。
その身体からはすっかり力が抜けていて、もうそれは身体を寄せたというよりしなだれかかっている、と表現した方が正しい。俺が抱き締めているからかろうじて立っているのであって、ここで力を緩めたら、すとんと床に落ちてしまうであろうほどだ。
彼女が言う通り、俺も例に漏れず中隊長として部下の前で晒す顔ではなく、ただひとりの男の顔をしているのだろう。
「じゃあ、そんなところでもお揃いだ♡」
そう囁くように言いながら、笑って顔を寄せる。至近距離で見つめた顔は、このあと俺にどうされるのかを知っているから、すでに瞳が潤んでいた。本当にそういうところがかわいいなぁと、表情筋がどんどん弛んでいく。
互いの呼気を感じるほど間近で、見つめあう。時間にすればたった数秒のことなのに、それだけで彼女の拍動が速くなったことが、触れた身体から伝わってきた。同時にじわりと上がった体温が、キミの匂いを濃くする。汚いだとか、心配しなくていいのにと思いながら、頭の片隅でこの後久遠ちゃんを説得するための言葉を幾つか考えた。
「……千弘、さん……」
張りのよく、通る声じゃない。甘さを滲ませて弛んで、かすかに震える声で、キミはそうやって俺の名を呼ぶ。昼間の、互いに部下の前で中隊長と第三部隊隊長兼中隊演習掛として呼びかける〝高嶺中尉〟という他人行儀な呼び方ではなく、〝千弘さん〟と。
俺の前でしか見せない、ひとつひとつの仕草や表情が、ぜんぶ、丸ごと愛おしくて。
名前を呼ばれて僅かに、顔を寄せる。そうすると彼女が大人しく目を瞑ることを知っていて、俺はいつもそうしてしまう。キミがキミの意志で俺を受け入れてくれているのだと、実感できることがなによりも心を打ち震わせるから。――今も、ほら。静かに目を閉じたキミのことがいじらしくて、どうしようもない。
静かにキスをする。触れて、重ねるだけのキス。それだけでもさらに表情を変えてしまう彼女のその全部を逃さないように、ただ欲張りな男としての貌を晒して、何度も。
上官にも部下の下士官たちにも、もちろん同輩たちの誰にも見せない、勇敢さとは対極の表情を晒して――、大人しく俺の腕の中に捕まって。俺の与えるものすべてを享受して、戦慄く声で、震えた喉で、吐息混じりに俺の名を呼んで。
「あは、もう蕩けきっちゃったの?そんな顔されたらもっとしてあげたくなっちゃう……♡」
そう言って、顎を指先で持ち上げる。戸惑うように一瞬視線が逸らされて、その隙をついて唇を食む。くぐもった声が漏れて、しんと静まり返った空間に零れた。
今日はもう平時の任務時間は終わっている。日中、中隊長に当番でついている人員も、もうこの部屋にはいない。中隊長室でもあるここは、俺の仕事場所兼――個室でもあるからだ。
准士官でもある彼女も、本来なら中隊事務室が割り当てられるのだろうが、部隊長と演習掛を兼任していることもあり、中隊附将校としては異例の個室を宛がわれている。本来は俺の中隊長室だって、あくまで執務室で私室とは別もののはずだった。俺だって戦線が激化するまでは普通に将校事務室で働いていたし、だから前線へも出ていた。この中隊にはもう、中隊長を務められる大尉クラスの人員が、残っていないのだ。俺たちの祖国は、それほどまでに追い込まれている。だから、かつては別の執務室だった部屋まで一緒に、俺の私室として割り当てられて――危険な任務を、死地に赴くような命を、部下に……彼女に下さなくてはならない。
これまでもそうだったし、これからもそうなのだろう。俺は何度も、口の中に広がる苦い思いを噛み締めながら、《《中尉》》として彼女に戦場へ出るよう告げねばならないのだ。表情を曇らせず、戦況を読んで、ただ《《上官命令》》として。我が師団最高の部隊となった、第三部隊部隊長である……神里准尉に。それだけで、胸を渦巻く想いが洪水のように溢れそうになる。本当はその手を縫い止めてでも、引き留めたい。けれど、それでは見逃してくれている大佐にも恩を仇で返すことになるし、何より一番肌で激化している戦火を、戦場を知る彼女に拒絶されてしまうのだろう。行かないでというたった一言がこんなにも重くて、ただその一言が紡げない。剣を振るい、あの燃え盛る戦火の中……ただ前を見据えて、その瞳に灯した揺らぐことのない炎を爆ぜさせる准尉の姿に、目を奪われたのは……俺も、例外ではないからだ。
互いに雑居部屋でないからこそ、こうして人目を忍んで会うことも叶う。普段は枷になるそれのおかげでこうしてふたりでいられるのだから、こんな時ばかりは自分の感情に素直にあろうと、そっと胎の底を焼くような恐怖を追い払った。今、この瞬間はただ、彼女のぬくもりに溺れていたい。
薄く開いた唇から舌を滑り込ませて、咥内を弄ぶ。ときおり漏れる声ごと食らうようにして、深く。――もっと深く。
ただでさえ力の抜けていた肢体から、さらに力が抜けていく。かくんと膝を折りかけた体躯を抱き留めて、ようやく解放する。
引いた糸を指で拭って彼女を見やれば、薄くなった酸素を求めて喘鳴をあげながら、肩で息をしていた。俺の胸に手を当てて、何か言いたげな表情でこちらを見上げるその顔が、さらに劣情を煽っているなんて、きっとキミは気付いていないのだろうけど。
紅潮した頬と涙目で睨めつけられたところで、嗜虐心を煽るだけだと言うことを、理解しないままのキミの方が好きだから……言ってあげない。
「ねぇ、久遠ちゃん。もっと触れたい……って言っても、怒らない?」
「……っ、だから、まともに身体も洗っていないんですが……っ」
俺が触れることが、ではなく。《《このまま》》が嫌だと声を上げるところが。情欲を掻き立てる。止まれなくさせるのに。
「いいよ、キミが気になる気持ちもわかるけど……ごめんね、一日以上ぶりにようやくキミを抱き締められたから……どうしても離したくなくて。だめかな?」
手を握り、するりと親指でその小さな手の甲を撫でる。ぴくりと小さく肩を震わせて、眉尻を下げた困惑の表情が、俺の顔を見つめた。
「……千弘さん、私がその言い方に弱いのを知っていて、言ってますよね?」
苦笑してそう言うと、彼女は指先に力を込めて俺の手を握り返す。その拙い返事を汲んで、彼女の身体を抱き抱えて隣の私室へ移動する。何度も抱き竦め、抱え上げたその身体は何度抱き上げても、小さくて軽い。剣を振るい戦場を駆ける身体は筋肉質で引き締まっているのに、俺なんかよりよほど軽いのだ。
「それでも拒絶しないでいてくれるんだから、久遠ちゃんは優しいよねぇ」
くすくすと笑みをこぼしながらそう言うと、暗がりでもわかるほど彼女の顔が赤く染まった。そうして小さな声で、「そりゃあ私だって欲しいですよ」と呟く声が聞こえる。
戦場の厳しさを、自分たちの明日の危うさを知っているからか、照れはしても彼女はこういうところで伝えることを躊躇わない。強いなぁと思う反面、そんなところが彼女の弱さなのだろうとも思う。
戦線に出るたび、細い、いつ切れてしまうとも分からない約束を交わして。離れてしまう直前にはこうして肌を重ねるのが、俺たちの決まりのようになってしまった。互いの存在を刻むかのように、忘れないように。またここへ戻ってくるという、誓いを込めて。
また近々、彼女は戦場に出るだろう。悪化の一途を辿っている戦線は、もう彼女を戦場から退かせることの出来ないところまで来てしまっている。彼女も自身の任を投げ出すような性格ではないし、他人に押し付けることになるくらいなら、笑ってどんな死地にも出ていくだろう。それが分かっているから、胸が不安で潰されてしまいそうになるくらい、不安で……苦しい。
寝台にそっと身体を下ろして、そのまま顔を埋めるようにして抱き着いた。結局こんなときにも立場と責務に縛られたままの俺も、彼女も、嘘は吐かないにしても、きっと心の底で燻っている本音を、互いに素直に吐露することは出来ていない。分かっていて、その事実から目を逸らす。
言葉にできないから、ただしがみつくように抱き着いてぬくもりを感じて。緊張で震えた吐息を隠すように、じっと息を凝らす。
「……何を不安になってるんですか、中尉。まだ私はここにいますし、次があっても帰ってきますよ」
約束を違えたこと、これまでにありましたかと薄く笑みを滲ませた声が、やわらかに降ってくる。ふわり、と。撫でられた頭に、彼女の体温が染み渡っていく。
「うん、大丈夫。不安になったわけじゃないんだよ、久遠ちゃんは今言った通り、約束を破ったことはないから。……信じてる。だけど……、ごめんね。今はこうしていて……」
不安なのだと。代わってあげたいなどという言葉は到底、言えなかった。だって俺がここにいるために、キミは茨の道を進んで歩いている。
自分の命と俺の命を秤にかけて、そのときキミは、迷わずに俺の命を選ぶんだろう。自分が死んでも俺が生き残るならいいと、そのときが来ても後悔のないように、悔いなく生きようと。そのために、不安は全部自分の中に押し留めて……それでいて、それ以外の心と身体は、俺に明け渡してくれる。
強いけど、残酷で。俺がキミを失っても、きっとこの〝中尉〟という役職に縛られている以上、後を追うことも出来ないと知っていて……。キミはその選択を、悔いなくする。
本当に、強い子を好きになっちゃったなと自嘲気味に笑った。さすが、我が軍で最も苛烈で熾烈な部隊を率い、この戦火の最前線を何度も潜り抜け、何度もこの地へ帰還をしている部隊長だ。
「いいんです、不安になっても。私だって戦場に出るときは、不安がゼロなわけじゃありません。でも、絶対に帰ってきて〝ただいま〟を言うって決めているので」
そのためだけにがむしゃらになっているだけですと、薄く彼女が笑う。その声が、じわじわと俺の裡へと降り積もっていく。
「……だから、千弘さんにはここにいてもらわないと困ります。私が帰ってきたときに、おかえりって出迎えてくれる人がいなきゃ、寂しいじゃないですか」
いつだって、キミの言葉で俺は救われている。そっかぁ、と情けないほどに震えた声でそう応じて、ようやく顔をあげた。
「……そうだったね。俺の役目はここで、キミのことをおかえりって、出迎える役だ」
ぽんぽんと軽く頭を撫でたあと、ふわりと笑う彼女の瞳が、痛みを堪えるようなそれになっていることにも、気付いていて。何も言わない彼女の強さに、結局俺は甘えていたのかもしれない。
「ところで千弘さん、私このまま放っておかれるとさすがに疲労で寝てしまいかねないんですけど。……いいんですか?」
「だーめ。しんみりしちゃって、お預け食らわせちゃったけど……ちゃあんと、キミのことを愛させて。ね……?」
そう言って軋む寝台へ乗り上げながら、彼女の躯体を引き倒す。
◇ ◆ ◇
「……え……?」
大佐に呼び出され、伝令としてひと足先に戻ってきた彼女の隊の軍曹の告げた言葉。その意味が理解できずに、俺は冷静な中尉の仮面をまともに被れなくなってしまった。
「神里准尉が、怪我……を?」
鸚鵡返しのような、言葉しか紡げない。
「……はい。戦闘自体はつつがなく終了しました。我が隊の勝利です。ですが……准尉は、掃討後の生存者確認のための見回り中――、かろうじて生存していた敵兵のひとりが仕掛けた爆弾で……」
敵兵の骸の間に埋もれるようにしていたために、生存者がいることに気付くのが遅れたこと。……その敵兵が、運悪く砲兵だったために、彼女が近付いたタイミングで無事だった砲弾ごと火をつけたこと。気付いた彼女は部下に対して鋭く、命としてこの場から下がることを告げたこと。その部隊長命令中、准尉の声を掻き消すようにして上がった轟音と敵兵たちの骸を吹き飛ばすほどの爆風に、煽られるようにして体勢を崩した准尉が、受け身も取れずに岩場に放り出されたこと。
――落下地点が悪く、頭部を殴打……負傷し、意識不明の状態であること。
それらすべてが、軍曹の口から説明された。
俺はと言えば、その報告がまったくと言っていいほど頭に入らなかった。みるみるうちに全身から血の気が引いていく。色を失い、恐怖から唇が戦慄き出す。悟られぬように唇を薄く噛み締めて、ただひと言、「そうか……」と絞り出すように応じた。
「……部隊への、損害は……」
「掃討後の哨戒は隊長が自ら行っていたため、隊への損害はありません」
迸りそうになる悲鳴を必死で喉に押し込めて、「それは不幸中の幸いだ」と思ってもいない言葉を返す。スルスルと、俺の気持ちとひとつも一致しない言葉が出てきて、平気でその言葉を紡げることに、ひどく苛立った。
「……神里准尉の容態は」
「外傷はほとんどなく、ただ打ちどころが悪かったために、意識だけが戻りません。……ここへの帰還は、早くて一両日中、には」
「わかった。……よく帰ったな、下がっていい。キミもゆっくり休みなさい」
言葉を紡げずにいると、やんわりと大佐が口を挟み、軍曹に帰るように告げる。俺はそれを止めることもできず、ただ頭を下げた軍曹が部屋から退室していくのを眺めていた。
「……っ」
押し殺していた声が、溢れる。止まらなかった。
「……高嶺中尉。気持ちはわかるし多少慮ってやることもできるが、ここを出るまでに部下に当たることのないよう……覚悟だけは、しておくように」
そう言い残して、大佐は自身の広い部屋に俺をひとり置いて部屋を出て行ってしまった。人払いは、してあるのだろう。この差し迫った状況においても、大佐のところや、俺のところには日中ほとんどの兵は尋ねて来ない。そう、これだけ戦況が激化していても、俺たちの仕事に、やることは変わらないのだ。人員が減り、削減された役もある。だが、将校以下のやることだけは変わらない。
あの子が命を賭けている間に、俺がやるのは命の危機など微塵もない、書類仕事だ。どうしてあの子が戦場にいるのに、俺はこうしてぬくぬくと安全な場所にいるのか。思いを告げたときに、覚悟していたはずなのに。彼女のことがどんどんと手放せない、手放したくない存在になっていったから、こんなときになって、馬鹿みたいに自分の本音を思い知ることになる。縋ればよかった。行かないでと。せめて伝えることを諦めずに、俺の本音はこうなんだと、そう伝えることくらいは躊躇わなくても良かったのではないか、と。
無事でいてくれと、ただただ祈ることしか出来ない時間の中、何度も手を合わせ、震える吐息を吐き出した。彼女が帰ってくるまでの時間が、こんなにも長い。あの子が笑顔で帰還を告げてくれることがないと、分かっているだけでこんなにも息ができなくなるのだと、俺は、この日はじめて自覚した。
◇ ◆ ◇
「第三部隊、ただいま帰還しました!」
司令部に、声が聞こえる。にわかに騒がしくなる外の喧騒を、どこか他人事のように聞きながら、視線を落としていた書類から顔を上げた。
読んでいたわけじゃない。昨日話を聞いてから、ろくに書類仕事が進んでいない。表向きはいつも通り。でも、ひとりで静かな執務室にいる間、気付けば彼女のことばかり考えている。
帰還を告げる声が、彼女ではなく……彼女より上位の古参の少尉の声だということに、また身体の芯が冷えていく心地を覚えながら。立ち上がって、執務室を後にした。
俺の、仕事は――……彼女たち、部隊の帰還を迎えてあげることだから。
「……神里准尉は?」
医務室に入って、医官にそう尋ねる。ああ中尉、と応じて彼は奥に設られた半個室のように目張りのされた寝台を示した。意識のない彼女に配慮したのだろう。急拵えのその様子を見ると、やはり軍などという場所は、基本的に女の子が生活することを前提にしていないのだと、まざまざと実感させられる。
目だけで応じて、足を向けた。目張りを軽く叩いて、顔を出す。中では看護官が何がしかを書きつけているところだった。目礼を受けて、俺も軍帽を軽く持ち上げて応じる。
部隊の面々は報告などもあるのか、この場にはいないようだった。ベッド脇に申し訳程度に置かれた丸椅子に腰を下ろす。本当は聞くのであれば軍医が良いのだろうが、口を閉ざしていることにも耐えられず、俺は口を開いた。
「准尉の様子は?」
震えを隠すために、押し殺した声は思った以上に険しい声音になってしまった。
書き付けから顔を上げて、看護官は眉根を寄せて難しい顔をしてみせる。
「怪我自体は大したことありませんよ。吹き飛ばされた時の衝撃でできた打ち身はひどいですが、骨折もありません。でも、打ちどころが悪かったので……場合によっては、目覚めないまま……亡くなることもあるでしょうね」
あんなに元気で、いい子だったのにと小さく小さく付け足して嘆息した彼女の言葉が、右から左へと抜けていく。そう。わかってはいたはずだった。医療も不十分なここでは、頭部殴打となっても、その中が無事かどうかなどわからない。あとは彼女の生命力に賭けるしか、方法はないのだと。
分かってはいたけれど、一縷の希望に縋って保っていた心が、瓦解していく音が聞こえる。他の何を犠牲にしてもいい。だからどうか。神でも、なんでもいい。助けてくれるのなら。もう一度、彼女と話がしたい。噛み締めすぎた唇から、鉄の味がする。いつの間にかひとり残された空間で、彼女の無事を祈って、ただ手を合わせた。
――こんなとき、俺がいても出来ることがないことが、こんなにも歯痒い。傍にいたところで、手も握ってあげられない。ただ、執務室でひとり縋るような気持ちで祈っていたときと同じように、祈ることしか出来やしない。
◇ ◆ ◇
それから俺の日課は、毎日執務の合間に医務室を訪ねることになった。
状態は落ち着いている、小康していて急変の兆しは見えない。そんな報告に、ただ胸を撫で下ろし、眠る彼女の顔を見つめるだけ。
今日も、そうだった。そのはず、だった。
「……!中尉!准尉が目覚めました……!」
「……え?」
部下のその声に、慌てて顔を向ける。話し込んでいたはずの軍医を放って、彼女のところへと駆ける。
「……っ、久遠!……よかった、戻ってきてくれて」
きょとんと。事態が飲み込めない様子の彼女に、声をかけて事情を説明する。
「ここは医務室だよ……キミは三日前にここに運び込まれて、ずっと眠っていたんだ」
安心させるように、やわらかな声で。喉が震えて涙声にならないように、細心の注意を払う。
困った顔をして、彼女の瞳が俺を捉える。剣の抜けた、険しさのない表情。あんなにも勇敢な戦士の顔をしていた面影など、そこにはなかった。ただ、本当に困った様子で、瞳を揺らす。あどけない、その……表情は。
「……?……どうしたの、そんな顔で俺を見つめて……?」
嫌な予感がした。また急速に、身体の芯が冷えていく。目が覚めたら、おかえりと声を掛けて。あの夕焼けの屋上で交わした約束の続きを告げるはずだった覚悟は、宙ぶらりんで置いていかれる。
嗚呼、そうだった。何をしてもいいから、と望んだのは俺だ。であれば、これはきっとチャンスなのだろう。何もかも……俺のことも含めて、本当に何もかも忘れてしまった准尉を、元の生活に戻してあげるには。
きっと、これが一番の好機なのだと。そう、自分に言い聞かせて、伸ばしかけていた手を、強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込むほど、深く。痛みを戒めにするために。
――次は、俺がキミを助ける番だから。誰も知らない約束を胸の裡で反芻して、折れそうになる心を、叱咤する。そうして俺は、彼女の上官としての表情を張りつけて、俺と彼女の身分を説明するために、口を開いた。
――金切声を上げる心に、蓋をして。