主よ、私の罪を赦し給え

2026/01/09


「……主よ、私の罪をお赦しください」
ロザリオを抱くように額に付け、頭を垂れる。私室の床に座り込み、熱く震える声をか細く溢して――目を伏せると、縋るようにそう囁いた。

◇ ◆ ◇

ぼんやりと気怠い身体を寝台の上に起こす。寝台に手を着いて床の上に足をつけると、ぺたりと微かに音が鳴った。ふらふらと壁に掛けた修道服のところまでたどり着くと、ネグリジェの首元のリボンを解く。姿見に目をやると、首筋に深々と残った赤黒い痕が目に入って――指先でさり、と撫でるようにその傷をなぞった。痛みはない。ぼんやりと身体に残った燻る熱と、酩酊するほど甘い疼きの残滓を感じて、深々と息を吐く。
「……嗚呼、今日もまたあの夢を見たんだわ……」
夢の記憶は霞みがかっていて、定かではない。けれどもう、この身体の変調で予想はついている。出逢ったばかり、縁を結んだばかりの良き隣人と……猥らなことをする、不敬で不埒な夢。今日もきっと、チヒロさんはこの教会へ顔を出しに来るのだろう。そして私は……彼の顔を見た瞬間、昨晩のことを鮮明に思い出すのだ。ずくりと疼く、肉体の疼きとともに。
ここしばらく、修道女として赦されるはずもない夢を見ていた。繰り返し見るこの夢は……姦淫となんら変わりがない。主の教えによれば、情欲に塗れているからこのような夢を見るのだと言う。道義的に姦淫せずとも、情欲に塗れた目で相手を見ているだけで姦淫に値するのだ、と教えでも言われている。その教えに従うのであれば、初対面の日からそのような夢を見てしまった私は――彼に邪心を抱いていたということなのだろう。彼の牙が、この首筋を愛撫する感触を。突き立てられた牙が、皮膚を破り血管を食い破り……喉を鳴らして血を吸い上げられ、飲み下されるたびに思考が明滅していく。視界が、頭が……ぱちぱちと爆ぜて、この快楽を享受していたい気持ちが湧いてくる。
夢を繰り返し見るようになって、はや数日が経過した。夢は数日おきに繰り返される。決まってその夢を見た日は、彼が教会を訪ねてくるのだ。今日もきっとそうだろう。周期的に夢を見るようになってから、薄く残った記憶の中で……私はその快感に身を焦がし、請われるままに自分から首筋を晒し――彼に懇願する。『気持ちいいのがほしいです』……と。
……私はもう、薄々気が付いている。彼の正体を。自分がいったい何をされているかを。――そしてそれが主の教えに背く、背信行為だということを。
ほうと二度息を吐いて、湧いた思考を追い出すようにゆるく頭を振った。ぱしんと頬を叩いて、気持ちを入れ替える。これではまた朝の礼拝に遅刻をしてしまう。急いで修道服に袖を通すと、ばたばたと慌てて部屋を出た。

◇ ◆ ◇

朝の礼拝のバタつく時間を終え、人が減った頃。箒を片手に聖堂の外へ出る。聖堂の外へ出ると、薄曇りの空を見上げた。そうしてふと、彼が言っていたことを思い出す。〝|あ《﹅》|ま《﹅》|り《﹅》|日《﹅》|に《﹅》|強《﹅》|く《﹅》|な《﹅》|い《﹅》〟と……彼は初めてあの夢を見た翌日にここを訪れた際、そう言ったのだ。そのことを思い出し、箒で落葉を掃きながらぼんやりと考え込む。私が思っている存在なのだとしたら、陽のもとで活動できるような存在がいるのかはわからないけれど。きっと、彼は力の強い存在なのだろうというのは想像に難くない。
「あ、おはようクオンちゃん♡ また遊びに来たよ♡」
「……っ!お、はようございます……チヒロさん」
突然かけられた声に驚いて振り返る。その声は、ここ数日で聞き慣れたものだった。何度もやさしく名を呼び、囁くように語りかけられた……低く、どこか甘さのある声。視線を下げて、顔を合わせないままに挨拶に応じてそう言った。じわり、と顔に熱が集中してくるのがわかる。彼の顔が見られないまま、おろおろと視線を彷徨わせた。
「ふふっ、どうしたの?顔赤いけど……熱でもあるのかな?」
伺うような視線でそっと顔を覗き込まれて、目線がかち合う。瞬間、脳裏に昨夜の夢の内容が走馬灯のごとく流れ込んでくる。カッと顔と耳が熱くなったのを感じて、慌てて目を逸らした。けれども逸らしたときには既に遅く……思いきり赤くなった顔を見られてしまった後だった。ちいさく笑って、彼がこちらを見遣る。
「あらら、大丈夫?シスターさん♡」
「……な、なんでもありませんっ……!チヒロさんが近くてちょっと驚いちゃっただけで、大丈夫ですから……っ!」
「ふふ、ホントかなぁ……?」
「ほんとですよ……!」
ぶんぶんと手を振ってそう言うと、くすくすと笑った彼が笑みを孕んだ視線を寄越した。うぅ、と小声で弱音を吐いて肩を落とす。熱くなった頬に手を当ててひとつ深く息を吐くと、ぎゅうと目を瞑った。心を落ち着けるように、そのまま数度深呼吸を繰り返す。その様子をじっと見守る視線が、背中に刺さる。
「……な、なんですかチヒロさん……」
あまりに視線が突き刺さって、思わず振り返って彼の顔をじぃと睨めつけながらそう問い掛けた。ぱしぱしと瞬きを繰り返してから、チヒロさんはゆっくりと口角で弧を描く。
「ふふっ、ううん……頑張って誤魔化しちゃってかわいーなぁ、と思って……♡」
「誤魔化してなんかないです……っ!」
……ぺろり、と。赤い舌が覗いて、妖艶な笑みを浮かべたまま彼が舌舐めずりをした。それと同時に、わずかばかり口唇の狭間から白く鋭い牙が覗いて――落ち着き出していた顔の熱さが、ぶわりと戻ってくる。……あの舌が、あの牙が。昨晩肌に触れたときの感触を、まざまざと思い出して。ぞわぞわと痺れが訪れ、全身が総毛立つ。こく、とちいさく喉が鳴った。人気の少ない教会の外では、その音はイヤに空間に響く。
「ホントに可愛い反応するんだから……♡ あんまりそんな顔、ヒトに見せちゃダメだよ?」
蠱惑的な表情で見下ろされて、あまつさえそんな風に囁かれる。修道女なら知っているだろうけど、キミたちをそういう悪しき目で見る人たちって言うのはいるからね、と。ご丁寧に釘まで刺されて、言葉に詰まった。チヒロさんは、間違いなく気付いている。私の|夢《﹅》のことを。……否、夢だと思っているあの時間のことを。そうして私が毎度の如く、その翌日に彼の顔を見るたび……言い逃れができないほどに頬を染めている理由を。
「気を……つけます……」
「ん、友人としてキミが悲しい目に遭うのは嫌だからね。それじゃ、今日はちょっと立ち寄っただけだから……また遊びに来てもいいかな?クオンちゃん」
「……もちろんです、教会は誰にも等しく開かれた場所……ですから」
お馴染みになったやりとりを繰り返して、今日も彼は聖堂で主に祈りを捧げることもせずに裾を翻して帰って行った。

◇ ◆ ◇

その夜――また、もう何度目かわからない夢を見る。……否、私ももう気付いていた。これが決して夢ではないこと、彼が本物の吸血鬼なのだろうということに。日ごとにわざわざ訪ねて良いかの確認を取るのは、きっとどこかで噂に聞いたことのある『吸血鬼は招かれた場所にしか入れない』という性質が故なのだろう。首筋に残る牙の痕も、ぶつりと血管が食い破られる感覚も……次いで訪れる、酩酊するほどの享楽も。ぜんぶ、きっと本当のことなのだ。……そうして、現実のことだからこそ私は罪深い。
これが夢でないと知っていながら、彼と夢の狭間のような意識の中で対話をする中で、私は彼がもたらしてくれる快感に酔い痴れ、あまつさえ自己の意思を持ってそれを求めているのだから。
「ふふっ、もうすっかり気持ちいいこと覚えちゃったね?俺がここに来るだけで|蕩けた表情《そんなカオ》するようになっちゃって……♡」
蠱惑的な笑みを浮かべ、ぺろりと彼の唇から舌が覗く。鋭い牙が、視界に入るだけで下腹がずくりと甘く疼いた。呼応するようにちいさく漏れた吐息が熱くて、我ながらそのはしたなさに失笑しそうなほど。
「今日も貰うね……♡」
そう言ってするりと首筋を撫でられるだけで、こきゅんと喉が鳴る。首肯すると、私は自らの手でネグリジェの首元を寛げた。いつの間にか、隠しきれないほどに深く残った彼の痕跡を――己の手で彼の前に晒す。いい子、とうっそりと笑って頭をひとつ撫でてから……彼はいつものように噛みついた。啜り上げる水音が無機質な部屋に残響して、嚥下音の度に思考がばちばちと融けていく。きもちいい。……もっとほしい、と。それしか考えられなくなる。けれど彼が触れるのは、いつも吸血のときだけ……それもやさしく頭を撫でるだけで、それ以上のものはくれない。
「ぷはっ……今夜もごちそうさま♡」
ガクガクと無様に震える身体を抱えて、喘鳴のような呼吸しか漏らせない私を見下ろして彼はそう礼を告げる。震えが収まるまで、ただ子どもをあやすかのように撫で続け……そうして、おやすみと言って夜闇に溶けるように帰ってしまうのだ。幻術と現実の狭間に、寂しく置いて行かれた私は……微睡みを覚えながらも、疼きが収まらない下腹部へと手を伸ばす。くちゅり、と布の上からでもわかるほど酷く濡れそぼったそこに羞恥を覚えながらも、欲望に抗えない。ひとつ、ため息とも感嘆ともつかない呼気を吐いて――そっと、下着の隙間から指を滑り込ませた。声を殺して、指を埋める。熱く、すっかり蕩けて蜜を湛えたそこを指で掻き混ぜながら――彼の顔を、声を……仕草を思い出して、上りつめていく感覚に耐え切れずに名を呼んだ。
「チ、ヒロさん……っ♡」

◇ ◆ ◇

その後、彼は私への配慮で仮死休眠に就こうとしていることを告げた。離別を惜しんだ私に正体を明かし……その上で、私にすべての選択を委ねてくれた。もちろん、私の取った選択は『彼の生涯で唯一の眷属となり、彼と寿命を共にすること』だ。その選択をするのも、一度人間としての生を擲ち『死』を経験することにも迷いはなかった。彼に本当の意味ですべてを捧げることができたことを、嬉しく思う。
私の知識以上に古く強大な真祖の吸血鬼だった彼は、既に数百年を超える彼の人生の中で唯一、隣に並び立つ血族として……伴侶として私を迎えてくれた。
彼の住む街外れの古城で、ふたりで暮らすようになってしばらくが経つが……私の存在は、彼の幻術で街の人々の間から消え――夜半や晴天でなければ、街に繰り出してふたりで歩くことすら可能にしてくれる。一方で、それほどに強大な幻術が私にだけ効きが弱く、遂には自力で破ってしまえたことに改めて驚くことにはなったのだけど。
遠くから、もう訪問することの叶わない長く暮らした教会を眺めて……目を細める。教会や主の教えに嫌気が差したわけではない。それらすべてに背いてでも、添い遂げたい存在ができたというだけのこと。修道女として尽くした『奉仕』は性に合っていたと思う。だからこそ、自分の中にこんなにも強い想いが眠っていたことに自分でも驚いた。そんな風に思える存在も、私の生涯においても彼だけだろう。けれど、世話になった人たちが……いつか私より先に天に召されてしまった時に僅かな寂しさを覚えるのだけは赦してほしい。
そんなことを考えながら、しばらく教会を眺めていた私にチヒロさんはひょいと顔を覗き込みながら「せっかくだから懺悔でもしていく?」と敢えて明るく尋ねてみせる。
「……懺悔って、なにをですか……!」
「んー?例えば生前の行い……とか?」
くすりと笑ってみせた彼に、生前ひっそりと部屋で慰めた後……懺悔をしていたことを知られていたバツの悪さから抗議の視線を投げながら、「私に『夢の出来事だから、身を捧げる神様も許してくれるよ』って免罪符を与えたのは誰でしたっけ?」と頬を膨らませた。
「ふふっ、ごめんね意地悪言って。もう神に赦しを求める必要なんてないよ♡ ……だってキミの|主《﹅》はもう、神様じゃなくて俺なんだから。だから、父と子と聖霊の御名ではなくて、俺が俺の名によって……これまでもこれからも、ぜんぶのキミの罪を赦すよ♡」