雨露霜雪

2026/01/22

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思いきり吐いた溜息は思いの外深く、重く電気を消した部屋に響き渡った。ほんの少し、聞こえて起こしてしまってやいないかと家主の眠る部屋の方へ目を向ける。寝息も、寝返りや布擦れの音も聞こえないしんとした静寂に、安堵と同時に晴れない胸に広がる靄のようなモノを自覚して、ぐしゃりと髪を掻き混ぜながら目を閉じると細く長く、息を吐いた。
「はー……、こうなるって分かってたのに。なんで旭のとこ来ちまったんだろうな……」
漏らした呟きの答えなど、とうに出ている癖に自嘲気味にそんなことを吐き出すしかなくて。いつまで経っても成長しねぇ、と自分自身に釘を刺す。
罪悪感で押し潰されそうなのに、会えば後悔するとも分かってたのに……逃げるように地元を出た高校入学からこの先、守り続けていた会わないという覚悟も、距離も、全部自分の手でかなぐり捨ててしまった。ほとんど十年ぶりの再会に、これまでどうやって旭と会話していたのかの感覚も曖昧だった。こんな距離感だったかとか、気安さとか――旭が帰ってくるまでずっとぐるぐる考えてたそれも、当の本人を前にしたら全部霧散して消えてしまった。舌が喉に張り付くような緊張感と、反して勝手に言葉を紡ぐ口を止められないことへの胸が軽くなるような感覚を覚えて……それがまた胸を貫く。
しばらく忘れていた痛みがじくじくと胸の奥から広がって、苦しい。俺|だ《﹅》|け《﹅》がここに居ていいはずないと、あんな風に気安く話して、笑って……「ゆきちゃん」って変わらずにあの声で呼ばれて良いわけがないのに。一度『昔みたいにゆきちゃんって呼んで?』と戯けてみせたら、疑問も覚えず『ゆきちゃん』と反芻するように呼ぶ声が、耳に馴染んで。やっぱりこいつにだけ、そう呼んでもらいたいと思ってしまった。今までの十数年、ただの一度も埋まらずぽかりと空いた胸の隙間が、たったその一言だけで埋まったことに気がついて――蓋をしていた感情を、自らこじ開けてしまったと自覚した時にはもう遅い。
近寄るだけでわかるほど酒の臭いを纏った旭が、俺の指摘に|目を逸らした《嘘を吐く時の癖》のを認めて、その苦しみも安堵もぜんぶ吹き飛ぶくらい、ひとつの感情だけに占拠される。どうせ幼馴染としか思われてないなんて知っていたはずだった。淡い期待なんかするなって言い聞かせて、この部屋に転がり込むことを決めたつもりだった。
……でも、ぜんぶ無駄だった。
気付いたときには、感情が先走って腰を抱き寄せてた。
「あー……くそ、旭も旭だろ。なんで、戸惑うばっかで拒絶しねえんだよ……」
いらないことを口走ったと、肺の中のモン全部吐き出すくらいに深く息を吐き出す。別に、旭のお母さんだって彼氏がいるなんてわざわざ話さなかっただけ。同棲してなきゃ、火事で家財も何もかも失った幼馴染に数日部屋貸すくらいするだろ、と再度自分に言い含める。しかもお誂え向きに、旭の住んでる家は広くてわざわざ客間まであるんだから。いやそりゃ、付き合ってる奴がいるって知ってたらそっちもいい気はしないだろうしわざわざ俺にそんな提案あんなフランクにしなかったかもしれないけど。
変に煽られて、いらないことを口走りあまつさえ手を出しかねない素振りをした幼馴染を前にして、べろっべろに酔っ払ってるとは言え、手は振り解かず、混乱するばっかでそのまま腕の中でぐーすか寝息を立てるのは本当に。
「あー……心臓に悪い……」
上書きしてやろっかなんて口から飛び出た私利私欲を冗談って有耶無耶にした癖に、結局違う形で服を脱がせる羽目になるとは思わなかった。嫌われたくねえから、必死に自罰しただけ。今この一瞬だけでもいいから、また得られた位置をむざむざ捨てたくない。ただそれだけの、重くてどろっどろになった積年の執着。バレたら嫌われる。俺があいつの立場でも引くだろ、とひたすらに言い含める。俺の立ち位置は、ずっとあいつの近くの、ただの気心知れた幼馴染。それ以上でも、以下でもない。罪を抱えた俺に、話してくれるだけで十分。また声を、笑顔を……見られるだけで十分すぎる奇跡なんだって。
たったひとつ抱えて蓋して生きてきた、初恋なんて感情――ずっとひた隠して、なんてことないフリして幼馴染をしていられた頃の安寧を思い出せ。もう、おくびにも出すわけにいかない。
俺が我慢し続けてさえいれば、失わなかったはずの存在も。近くて遠い、旭がいる日常も。ずっと抱えて隠してきたなら、今度こそ徹底的に隠し通せ。
俺の知らないあいつの顔を、知ってるヤツがいるんだってことに一瞬で真っ黒に埋め尽くされた感情も、髪の隙間から項に寄せた唇から感じた、触れた肌の温度も柔らかさも。酒の臭いに紛れてしまうくらい微かに、鼻腔を擽る体臭も。抱き寄せた腰の細さも、寝こけて脱力しきった身体の、思った以上の軽さもなにもかも。ぜんぶ、全部……忘れてなかったことにする。
俺の罪を、後悔も、懺悔も――吐き出す日が来るとしたらそれは決別の日なんだって。もう一度、深く身に刻む。

ゆきちゃん、って変わらずに俺を呼ぶ声が今までと何も変わらなくて。ゆきちゃん、って言いながら他愛ない話で笑ってくれるその表情が、あまりに曇りなくて。
怒ったり笑ったり、くるくる変わる表情も、俺に対しては我儘放題なとこも、そのくせしんどい時ばっかり一人で抱えて他人を頼らないとこも変わってなくて。
意識し始めた頃には触れるどころか、近寄る距離も少しずつ遠くなっていってたはずなのに、そんなの全部なかったみたいに無防備に近寄らせて、腕の中にダイブしてくる意味不明な距離感も。
自分のしでかした大きな大きな許さない罪まで、許されたみたいで麻痺していく。
ここで、また旭の隣で生きてていいんだと。息をすることも、日の光を浴びて生きてていいんだと言われたみたいな気になってしまう。
大事な大事な幼馴染を殺した罪人のくせに、あの雪の日から一歩、前に進みたいなんて。
凍てついた雪の中、立ち止まり続けなきゃならない存在に雪解けなんて望む権利はないんだと。なあ、旭。罪を告白した咎人の俺に、お前から終止符を打ってくれよ。
そう思ってたはずなのに、なんで同じ大事なものを失ったはずのお前が、その手で俺を引き留めるんだよ。

雪解けの温度が、悴み切った身体には痛いほどに熱くて。この温度で灼けて消えてしまえればいいと、そんなことすら本気で考えた。
――知らなかった事情も思いも、全部氷解させてくれる温度だなんて知らないまま。