雪解光

2026/01/22

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きっかけは、本当に些細な、驚くほどに単純なことだった。
ずっとあまり好きではなかった、自分の名前と癖のある髪。短くすると余計に癖が強く出るせいで、あまり短くすることもできなかった髪のせいもあり、幼少期は揶揄われ続けた。「夕喜ちゃん」と蔑称されるのも嫌で、自分の容姿も名前も……何もかもが嫌いだった。あの頃はまだ身長も体格も今ほど大きくなくて、なよなよして見えたのも弄られる原因だったんだろうと今なら分かる。けど、当時は自分じゃどうしようもない理由でそんな風に言われるのが嫌で、そのくせ親にはつけてもらった名前が嫌だとか、心配されんのが嫌でなんにも言えなくて。負けん気が強くて変に口の強い姉貴に庇われたことも、当時は少なくなかった。雪にちなんだ童謡やらが取り上げられるたび、またわけのわからない理由で揶揄われるのかと思ったら、冬の時期は園に行くのも憂鬱に感じていたことを覚えている。
そんなある日だった。あいつと――旭と出逢ったのは。
一学年下の旭とは最初、特に接点なんてなくて、園全体の外遊び時間中にたまたま近くにいたのが、知り合ったきっかけだったと思う。姉貴も居たし、そんな歳の頃は男女入り乱れて遊ぶことも少なくなかったから、特に気にも留めずにいつの間にか遊ぶ仲になって……そのうち、降園後も遊ぶようになるまでそう時間はかからなかった。旭は特に物怖じもしなかったし、湊ともすぐに仲良くなったからあっという間に俺たちは三人でいるのが当たり前みたいになっていった。そんな湊のことはそのまま名前で呼ぶクセ、何故か俺のことは「ゆきちゃん」とひっきりなしに呼ぶ旭の声は耳馴染みが良くて、いつの間にか蔑称だったはずの「ゆきちゃん」呼びも嫌じゃなくなった。その代わりに、旭以外の他人にそう呼ばれるのが耐えられなくて、ゆきちゃんって呼ばれる度に威嚇するような有様だったから、小学校に上がる前には俺のことを家族以外でそう呼ぶのは、一個下の幼馴染だけになっていた。そんなだったから、旭の前で男児にしては長めの髪を揶揄われた時、久々にカッと身体中の血が沸騰するような感覚を覚えたのをよく覚えている。
名前で揶揄えなくなったから、容姿で弄ろうと言うなんてことのない、無邪気な悪意。湊と旭の二人と主に遊ぶようになってから、ほとんど感じなくなった悪意だった。まだ身体が小さくてお転婆で、一つ違いだろうがなんだろうが思ったことをそのままぶつける、悪く言えば兄弟姉妹がいない湊と、姉貴の傍若無人さに辟易していた俺に甘やかされて幼児期特有の我儘奔放ガールと化していた旭は、まだ小さい鉄砲玉のような彼女が走ってどこかに行かないように繋いでいた俺の手が強張ったことに気付いたのか、不思議そうに目を瞬いてこちらを見ていた。
しばらく目を見合わせたまま沈黙が続いて――何を言っているのかわからないと言うように、小首を傾げた後で旭はこう言ったのだ。
「なんでだめなの?ゆきちゃんの髪、ふわふわでわたしはすき!」
ぱっと笑って同意を求めるように「ねー?」と言った後。繋いだ手をおもむろに外すと、癖でくるくる丸まった髪をふわふわと彼女の小さな手で触れられたその瞬間を、その光景を……俺は未だに忘れられないでいる。

◇◆◇

「ん……」
懐かしい夢を見たなと、寝起きの定まらない思考でそんなことを思う。懐かしくも、鮮明な記憶。あの日抱いた恋心を、捨てきれないまま大人になった。がしがしと頭を掻いて身体を起こす。鮮烈な追体験のような夢に、眠気はすっかりどこかに行っていた。
「はー……なんでまたあの時の夢なんか……」
別に思い出すような出来事もなかったのに、唐突にこんな夢を見るなんて。もう二度と、旭には会わない。それは十三年前に決めたことで、そのために高校も地元から通えるところではなく、こちらの学校に決めたのだから。会いたいと思うことは、ある。けどあれ以来本当に、会っていない。……いや、正確には会えなかった。
湊が事故で死んだ、あの日からずっと。
その頃には肥大した恋心を持て余して、思春期で若干変化した距離感も、ずっと『三人仲良く』が変わらなかったことにも、三人でいるだけで飛んでくる『どっちと付き合ってんの?』の声も……全部煩わしくて。そういうんじゃないと言っても向けられる好奇の目も変わらず、学年が違うせいでずっと他の男たちから好意と下心を含んだ目線が旭に向けられることからも守り切れないことも、余計に苛立ちを募らせた。そんな思いから、あの冬の日に俺は湊に嘘を吐いた。
少しでも長く、旭とただふたり一緒に居たくて。昔からいつも三人一緒に遊んでいた公園で、旭が待ってるなんて……そんな、些細な噓。
雪がちらつく、寒い冬の日だった。
――その夜だった。湊が、その公園の程近くで、事故に遭って亡くなったと電話があったのは。
そうして動揺を隠しきれないままに参列した湊の葬儀で、お世話になった湊のお母さんが……「あなたのせいで湊は死んだの!」と慟哭した記憶も、俺の中で消せずに、色褪せずに、毎日のようにリフレインしている。それが、一生消せない俺の罪。直接手を下したわけじゃなくても、人は殺せるのだと思い知り、醜い欲望も、積年の恋心も、全部このまま秘め続けて噴き出すことのないように旭の前から消えることを選んだ。
湊の笑顔と未来も、家族の幸福も、旭の笑顔も奪った人殺しの俺に赦された贖罪を、当時はそれくらいしか思いつけなくて。俺の抱えた欲のせいで、大事な幼馴染を殺してしまったのならそれをぶつけることも表にすることもしないで生きていこうと思ったのだ。本当は、まだ三人で笑っていられた。湊も旭も笑って、これまでと変わらないはずの日常を過ごせるはずだったその機会を損ねた張本人の俺が、何食わぬ顔をしてあいつの隣にいるのは間違いだ、と。そうして地元から遠ざかって、そのままずるずる帰れなくなった。怖かった。湊の家族に遭ってしまうのが。旭に遭ってしまって、また閉じ込めたはずの気持ちを自覚するのが、抑え込んだはずの感情を抑えられなくなってしまうあの日の衝動が。それに、憔悴するあいつを前に湊のご家族が飲み込んでくれていた、俺にだけぶつけられた言葉と、俺があの日から隠してきた事実を知られてしまっていた時の、その反応も。大学もこちらで進学を決めた俺はそのまま姉貴とも、まだ事故当時は幼かった弟ともほとんど連絡を取らないまま十数年が経過して、余計に帰りづらくなったのだ。
そのくせ、まだあの日封印したはずの恋慕だけは消えずに残っていて、事あるごとに思い知る。学生時代、それなりに素行の悪い先輩とつるんで、バイクに乗り出してほんの少しだけ、ただその瞬間だけに没頭できる時間を知った。その代わり、ずっと隣にいた存在がいない空虚な一人の時間は、より一層苦痛になった。ころころ変わる表情も、他の奴の前ではそんなことないのに、俺らの前だとまだ出逢った頃みたいにすぐに我儘を言う癖も、他愛のない、どうでもいい馬鹿なことをして笑い合える時間も……湊にすら許さなかった「ゆきちゃん」って呼んでくれる声がなくなるだけで、一気にあの頃と同じかそれ以上に自分の名前も、冬の雪がちらつく季節も嫌いに逆戻りして。ただただぽっかり、心に穴が開いていた。他の人間で埋まることがないことも知っていて、それでもこの喪失感をどうにかしたくて。