南天の空と星

2022/12/15


「はー、寒ぅ……凍え死ぬわ、こんなん!……しおん、ただいま〜」
家の扉を開けてそう言うと、ぱたぱたと小さな足音がしてひょこりと同居人――恋人が顔を出した。
「煌雅くんおかえり!めっちゃええタイミングで帰ってきた♡ 疲れてるとこ急かして悪いけど、ちょっと着替えて早めにこっち来てくれん?」
「んぉ?なんやなんや、しおん……ごっつはしゃいどらんか?」
「いーいーかーらー!戻ってきたらちゃんと話すから、ね?」
手を引かれて部屋の中まで連れて行かれたと思えば、ぐいぐいと背を押さえて着替えてくるように促される。要領を得ないまま「お、おう?」と、とりあえず応じると彼女はリビングの方へ戻って行ってしまった。まだ今日はおかえりのハグもしてないねんけどな〜……と、若干残った疲れを思いながらほんの少し肩を落とす。あれほんまに疲れ吹き飛ぶから楽しみにしてんのになぁ、とややぶすくれる気持ちがないでもない。
「……んまあでも、あないに楽しそうなカオされたらなぁ……」
断れへんっちゅーねん、と薄く笑って背広を脱ぐ。いそいそと部屋着のパーカーに袖を通すと、しおんのいる部屋へ戻った。
「……ん?この匂い……」
部屋の中に充満した甘い香りに鼻孔を刺激されて、ちいさく鼻をすんと鳴らす。その匂いは、間違いなくここしばらくで生活の中にすっかり根差した匂いだった。
「ん……なんやこの匂い、ミルクティー作っとんの?」
着替えてきたで、と言いながら小柄な彼女の背に控えめにひっついて横から顔を覗かせる。火にかけられた小鍋の中では、牛乳と一緒に先日買い込んできた茶葉が入れられていた。沸騰させないようにしながら、焦げ付かないようにやさしく鍋をかき混ぜる動作のたび、ふわりとその甘い香りが部屋中に広がる。
「おつかれさま〜、ごめんね手離せんくて……。そ、これできたら一緒にベランダ出よ思て♡」
「ベランダぁ?俺今さっき、さっぶいお外から帰ってきたとこやのに……自分えらい張り切っとるし、今日外でなんかあんの?」
「流星群!しかも今日これからがピークなん……!煌雅くんと一緒に見れたらな〜、て♡」
意見聞かんと勝手にはしゃいでもうてごめん、としょんぼりと肩を落としたかと思えば、不安げな菫色の瞳が伺うような視線でこちらを見上げた。と言いつつもその手元は止まることなく、煮終えたミルクティーの小鍋から茶葉を漉して|い《﹅》|つ《﹅》|も《﹅》|の《﹅》揃いのマグに注ぎ分けている真っ最中だった。あべこべに乖離した言動に、思わず笑う。
「ふは……っ、ええよ気にせんで。元からやめる気毛頭ないんやろ?もうブランケットも出してあるし、これも外が冷えるから作っとったんやろ。準備万端やん♡ ここまでされてかわいい彼女のお願い断るほど、鬼ちゃうわ!」
んでも寂しいから外でもこうしてくっついてよな♡と言い添えると、彼女の目元にじわじわと滲ませたように朱が差していく。
「あーあー、一瞬でこんな赤なってもうて……。ほんまにかわえーなぁ……♡」
「〰〰っ、え……ええから!ほらミルクティー冷める前に出よ!」
そう言ってずいと眼前に赤いマグを突き出されて、降参の意を示すために一度軽く両手を上げた。

◇ ◆ ◇

ここ数日でぐっと冷え込んだせいか、吐く息が白い。みるみるうちに悴んだ指先が、マグカップの熱のおかげでほんのり温まる。
「しおん、寒ない?」
大判のブランケットを被っているとはいえ、自分の背に掛けたそれを前に回す形で一緒に被ったそれは、どうしたってぐるりと一周できるほどの大きさはなく。――つまり、彼女の前面はほぼ覆えていないのだ。
先日購入したミルクティー色のもこもこのルームウェアを身に纏った彼女は、夜空へ向けていた視線をこちらへ寄越して苦笑いしてみせる。
「いやさっむい!下ショーパンやもん、脚冷える〜っ!」
やからはよ見れたらええんやけど……と言葉を続けたあと、手にした紫のマグカップに口をつけた。
「……あかん、もううっすらあったかいかな〜くらいになってるわ……」
「はは、しゃーないわこの寒さやもん。戻ったらあっためて飲みなおそ」
「う〰〰、そうする……」
ぽんぽんと頭に手を置いて薄く笑うと、じっとこちらを見上げた彼女がぼそりと呟く。
「煌雅くんのこと風除けにすればよかったな〜」
「お?別にええで、その方がもっとくっつけるやろ♡ 今からでもこっち来るか?」
俺しゃがんだらしおんも見えんことはないやろと言えば「冗談やってんけど……」と言いつつも、逡巡する様子を見せる。むむ、と眉を寄せて百面相を始めた彼女をしばし眺めて、寒さを我慢して出てきた以上、見逃したらもったいないかと空に視線を向けた。
都心の空は周囲の光のせいで普段はあまり星も見えないが、今日ばかりは風が強くて空気が澄んでいるおかげか……いつもよりも星が綺麗に見える気がする。――そんなことを考えていると、夜空を星が横切った。
「おっ、流れた!」
思わず声に出していた言葉に、しおんが「うそぉ!?」と声を上げて空を振り仰ぐ。
「待って待って、見れへんかった!」
「わはは、残念やったな〜♡ ほら、諦めてこっちおいでーや♡」
手からマグをさっさと取り上げて、気持ち腕を広げて「ん」と促すと、彼女は諦めたように腕の中に収まる。ブランケットを摘んで前で掻き抱くようにしたその耳が、暗い外でもわかるほど赤く染まっていることに気付いて、喉奥で声を殺して笑った。
「……もー、煌雅くん笑わんといて……」
雰囲気で察したのか、不満げに呟かれたそれに「すまんすまん」と笑って応じると、諦めたのかぽすんとちいさな背を預けられる。
「おー、ほんまに身体冷えとるやん。もうちょっと見れたらさっさと戻ろか」
「……ん。よう考えたら煌雅くん、お風呂もご飯もまだやもんね」
「明日も仕事やからな〜。ま、明日は劇場立てるし……しみちゃんと一緒やから楽しみやねんけど!」
じわりと滲んだ温かさが、幸福感から来るものなのか……はたまた触れる体温から来るものなのかはわからないが。確実に言えるのは、少なくとも彼女と出逢う前の自分ならこんな風に家に帰ってひとりだった時間に笑うことはなかっただろうということだった。
「あー……ほんま幸せやなぁ……」
しみじみと感慨を込めて呟くと、空を見上げたままそっと彼女の頭頂部に顎を乗せる。ぽつぽつと溢した言葉は、ほとんど独白に近かった。
「俺ひとりじゃ、もし流星群見れるてわかってても見んかったやろうし……こんなことしてなんになんねんー、って思ってたからなぁ。でも、なんやろ……やっぱやってみんとわからんことってあるねんなーって今めちゃくちゃ実感しとる」
気恥ずかしさを誤魔化すかのように「また初めての経験さしてもらったなぁ」とからからと笑う。ほんまに俺でええんかなとか、未だに心配になることも多いけど……でも、大事にしたいと思っていることや冗談ではなく本心で彼女のことが好きだと想っている気持ちはちゃんと伝わっているだろうから。
「……ちゃんと、ずっと隣におってや?」
聞こえるか聞こえないか程度の小声で吐息混じりに問いかけた言葉は、あっという間に夜の喧騒に溶け込んでいってしまった。聞こえんかったならまぁそれでええかと、口を開こうとした瞬間――。
「……一生隣におるって、約束した」
ちゃんと守りますよとそのまま潜めたやさしい声が言葉を続ける。
別の、当たり障りのない言葉を紡ごうと開いていた口が……紡ぐべき言葉を見失って、一瞬押し黙って。
「……絶対やからな、絶対!」
色んな感情が綯い交ぜになった息を深々と吐きながら、俯いて顔を押し付けてそう念を押した。