薫染
2022/01/30
「……それじゃ、お仕事行ってくるね♡」
「はぁい……行ってらっしゃい、千弘さん♡」
玄関先で手を振り合って、お仕事に行く千弘さんの後ろ姿を見送って。エレベーターホールに向かう途中、軽い会釈をしてくれた岡持さんに会釈を返す。
その後ろを着いていく千弘さんが、お茶目にウインクを飛ばすと、もう一度手を振って去って行く。
それに慌てて小さく手を振り返し、後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、部屋のドアを閉めた。
◇ ◆ ◇
……鍵を閉めて、ひと息つくと部屋の中へ戻る。よしっと気合を入れると、寝室へと向かう。
千弘さんは大層にマメな人なので、朝からお仕事の日でも、朝食後の片付けどころか、お掃除まで大体終わらせてからお仕事に向かう。
さすがに、細かなお掃除は家にいる私がすることが多いけれど。それでも家のほとんどのことを、千弘さんがしていると言っても過言ではない。
すごい人だなぁと改めて思う。千弘さんは謙遜してのことなのか、感心してつい言葉を溢しても、そんなことないよと笑ってくれるけれど。
「……うーん、だって今日私がすること……お布団干すくらいしか残ってない……」
こればかりは干しっぱなしにするわけにいかないこともあって、すっかり私の仕事になっている。
「よいしょ……っと」
先に拭いておいたベランダにお布団を運んで、枕も陰干しをして。布団乾燥機を使うより、どうしても気分的にお日様に干した後のお布団の方が好きなんだなぁと少しだけ言い訳をした。
文明の利器に頼りたくないわけではないのだけど、どうしても気分が上がる気がするのは、圧倒的にお日様の匂いなのだ。
そんなちいさな我が儘も、千弘さんは「わかるよ、気分上がるよねぇ♡」と受け入れてくれるので、ついつい甘えてしまう。
これでいいのかなぁと、ときどき不安に思うことはある。千弘さんはお家にいて、待ってくれているのが一番だよって言ってはくれるけれど。
……僅かな期間、臨時マネージャーとして働かせてもらっていたとはいえ、今の私は完全に無職で千弘さんのお家にご厄介になっている状態だ。
「……さすがに、千弘さんに甘えすぎな気がするんだけどなぁ」
千弘さんにいいから、と言われてしまうと強く言い返せない。せめてもう少し力になりたいと思うのに、無力だなぁと思い知る。
「俺がお仕事を終えて帰ってきて、久遠ちゃんに癒されたいんだからいいの♡ ……ね?」
言われた当時は意味もよくわからないまま了承したような気がするが、さすがにこの言葉の意味も、今ならわかるようになった。恥ずかしくはあるけど、千弘さんがそう求めるのなら、応えたいというのが私の答えだ。
……と、言うよりも。まあ、その。毎日のようにそういうことをしていたら、するのが当たり前のようになっている、というか。いやでも意識してしまう、というか。特にその、月のものでしばらくご無沙汰になったあとなんかは、こう。つい、そういう気持ちになってしまいがち、というか。
もごもごと口の中で言い訳をすると、そういう意味でも色んな変化があったなぁ、と思いを馳せる。
……職を失い、企業面接を装った裏ビデオの撮影に引っかかりかけ、女優さんと間違われて、お詫びということで臨時マネージャーとして雇ってもらい、そのまま千弘さんとお付き合いすることになって、同棲して……と。
――ここ数ヶ月の間の出来事のはずだけど、改めて振り返ってみると、その濃さに思わず瞠目しそうになる。
というより、他人に話したところで到底信じてもらえないような出来事が並んでいるなぁ……としみじみ実感した。
「これ全部、この一年の間の出来事なんだよね……」
思わず照れが込み上げてきて、ふるふると首を左右に振ってそれを追い払う。
色々と思い出してしまって、頬が熱い。気分を切り替えようとキッチンへ向かう。冷蔵庫の中身を確認して、買い足す食材を決めながら飲み物の補充をすることにした。
千弘さんは常に複数種類の飲み物をストックしているのだけれど、初めてそれを知ったときはあまりのマメさに驚嘆したものだ。私自身、何が飲みたいかと問われて答えればおおよそ出てくる、その種類の多さに、すべてを把握できていない。
というよりほとんど千弘さんがやってくれるおかげで、よく使うもの以外は未だにあまり場所を把握してない、という方が正しい。
気付けば食器棚の配置も〝私の手の届く範囲〟にお茶碗なんかは移動されていて、この暮らしを始めたばかりの頃に使わせてもらっていた客用茶碗なんかは、いつの間にか棚の上方に収められていた。
これでも私は、どちらかと言えば身長は高い方で、日常生活で困ったことなどなかった。そのせいか、こういう部分で気を遣われるのは初めてで、なんだか妙にくすぐったい。
〝ちいさくて可愛い〞などと言われたのは、千弘さん相手が初めてで。もともと千弘さんひとりで暮らしていた部屋なのだから当然と言えば当然なのだが、総じて高めに設えてある部屋というのも、なかなかに新鮮だった。
そんなことを考えながら、ストックを取り出そうと戸棚に手を伸ばす。ほんの少しだけ背伸びをして、指先で目当ての茶葉の入った缶を引いたところで――するん、と手が滑った。
「あ」
受け止めようと、慌てて手を伸ばす。やや大きめの缶を手で受け止め損ね、ついで身体を寄せてなんとかキャッチした。ぽふんと、缶がぶつかる鈍い衝撃が身体に伝わる。
「……っ、ふ」
思わず漏れた声に、反射的に片手で口を覆って。誰もいない、聞いていないことなど明らかなのに、バツの悪さから思わず周囲を見回した。当然、部屋の主はいない。先ほどその背中を見送ったのだから、間違いようがない……のに。
誰にも聞かれていないことに心底安堵して、ほっと息を吐いた。
――じわり、と。身体の奥底に染み出すような淡い感覚が、する。ぶんぶんぶんと。音がするほど大きく首を振って、雑念を追い払う。急に頭を激しく振ったせいか、若干耳が熱い気がするけど、それは無視して。
「……ささっと新しいの作って、買い出しに行こう……」
深く息を吐いて、そう溢した。
◇ ◆ ◇
出かける前に布団をひっくり返して、食材の買い出しを終え。帰宅後に布団と洗濯物を取り込み、ベッドメイクをする。
「ふふっ、今日もお布団も洗濯物もふっかふか……!」
日常のささやかな幸せになりつつある、この手触りと匂いに勝手に頬がゆるんでいく。
ふと時計を見上げて、割といい時間になっていることにようやく気付いた。リスケが続いた結果、今日の撮影は一本撮りになったので、もうしばらくしたら千弘さんのお仕事も終わるだろう。
――同棲を始めたとき、千弘さんから使っていない一室を自室として与えてもらったけれど。ひとり暮らしをしていた家から、家財道具をすべて持ってくるわけにもいかず。結局最初に運んできた荷物の他には、幾許かの荷物を運び込んだだけで、かつての〝私の家〞は早々に解約してしまった。
ひとりの時も結局ほとんどこうして共有スペースで過ごすことがほとんどで、あまり自室に籠ることはない。……本当に。ただ、傍にいることがこんなにも居心地が良いだなんて、たった数ヶ月前まで知らなかったのが嘘のように。
そこにいるのが、この先もずっと当たり前であればいいのに……と、強く思う。――隣で、肌で、触れあって感じる、体温も心音も。あんなにも誰かの隣にいて、〝安心する〟という感覚を覚えたのは初めてで。普段、隙間を埋めるかのように引っ付いているせいだろうか。たったの数時間。それすらも離れているのが惜しい、などと。
「……我が儘で、迷惑な感情だなぁ……」
呻くように言葉をこぼして、ぽすっと頭をベッドに預けた。
求められた分、応えたいだとか。色々とそれっぽい言葉で誤魔化してはいるけれど、要は普段あまり我が儘を言わない千弘さんに私の前でくらい、我が儘を言ってほしいし欲張りになって欲しいのだ。これだって、ただの私のエゴかもしれない。
こんな我が儘を〝優しいだけ〟だと言ってくれた。自惚れるならば……、他の人の前ではそんな風に控えめな彼の、〝我欲〟を向けてもらえていることに。許されるなら、自分の前でくらい遠慮も手加減も、気遣いも不要でありのままの〝千弘さん〟としていられる存在であれればいいと。そればかり、繰り返し思う。
「う〰〰〰ん……」
本人不在の場所で、こんな風に考えていても埒が明かないことなど知っているはずなのに。ひとりになると定期的に、こうして唸っているのだから不毛だなぁと自嘲した。
ヴーッと、くぐもった音が聞こえて反射的に顔を上げる。ベッドに凭れかかっているうちに、うとうと微睡んでしまったらしい。
そういえば携帯をテーブルの上に置きっぱなしにしていた、と思い出して慌てて駆ける。通知を開いて、メッセージの内容に目を通す。
『お仕事終わったよー♡ 事務所で軽い打ち合わせしてから帰るね~♡』
その内容に了承の返答を送って、ひとつ伸びをすると気持ちを切り替えた。
◇ ◆ ◇
ガチャンと鍵の開く音がして、弾かれたように顔を上げる。
「ただいま、久遠ちゃん♡ ちょっと遅くなっちゃった、待たせてごめんね?」
「……おかえりなさい、千弘さん♡ お仕事ですもん、気にしてないですよ!」
事務所で行う打ち合わせの時は、千弘さんが本当に信頼している事務所の方々ばかりになるからか、長引きがちなのを知っている。私自身、事務所の方々には短い期間とはいえお世話になったし、顔を知っている方も多いので、千弘さんが〝気を張らなくていい時間〟なのであればそれが長くなるのは寧ろいいことだと思っているのだけれど。
「……んー。じゃあ久遠ちゃんはひとりで寂しくなかったの?」
ほんの少しだけ。意地悪な表情を浮かべて問いかけながら、千弘さんが手を伸ばす。その腕の中に収まりながら、くすりと笑みを漏らした。
「寂しいのは……寂しかった、ですけど」
「ふふっ、でしょ……?俺もそうだから、ぎゅーってさせてね……♡」
こくりと頷いて胸元に顔を寄せると、ぎゅうと身体に回された腕に力が込められた。服から少しだけ覗く、見慣れたタトゥーがいつも通りの視界にあることになぜかひどく安堵する。
ふたりともいい大人だと言うのに、どうしてこうも際限がなくなってしまうんだろう。
これが本当に〝人を好きになる〟と言うことなんだとしたら、どうしようもなくしあわせなのに、どうしようもなく不安になるのも、仕方のないことのように思える。相手が自分のことを見てくれていることも知っていて。自分だって、相手以外の人のことなど目に入りもしないのに。もっと、まだもっと……と。どこまでも欲しくなってしまう。
千弘さんのお仕事のことを、嫌だと思ったことはないのに。縛りたくないと語ってくれた言葉に呼応するように、ありのままの気持ちを伝えられなかったこともあったけれど。
きっと、今。すこしだけ、互いに〝変わったな〟と感じる関係性を考えた上で。他でもない千弘さんが〝俺だけを見て〟と言ってくれるということは、私も……そう、求めても許されると。思ってもいいだろうか。
ずっと、好きであることに変わりはないけど、以前よりも愛しい……可愛い人だなぁと思うことが増えた。一歩感情から身を引いて、どこか諦観が見え隠れしていた千弘さんが〝以前より活き活きしている〟と。ずっと魅力的になった、と評価されることがうれしくて。
――すり、と鼻先を埋めるように強く抱き着く。同じはずのシャンプーとボディソープの香りが、千弘さんが纏うと全然違う匂いになる。この匂いと体温に包まれている瞬間が、途方もなく幸福で。どうしようもなく嬉しくて。手放したくないと、どんどん我欲が強くなっていく。
「どうしたの、久遠ちゃん?……なんだか今日は甘えん坊だねぇ♡」
「……だって寂しかった……ん、です……っ」
「……そっか♡ ぎゅ~ってしてもまだ足りないなら、ねぇ?お顔上げて」
言われるがままに、顔を上げる。真正面からかち合った視線に、燻っていた熱が煽られる感覚がした。
すり、と唇を撫でられて反射的に薄く開く。くす、と微かに笑う吐息だけが降ってきたのを耳で感じた次の瞬間には、唇を食まれていた。
甘噛みされて、ぴりと電流が身体を駆け抜けていく。ふと力の弛んだ肢体を抱え直すようにされて、逃げ場がなくなる。優しいのに、拒否権など与えられずに差し込まれた舌に自分のそれを絡めて。どちらから洩れている吐息なのか、鼻先で息が混じっていく。同時に湿度を変えた声が、鼓膜を震わせる。
「ふふっ、久遠ちゃんすごい勢い……♡」
ぺろりと唇を舐めあげ、明らかに熱のこもった視線でそう囁かれて、カッと顔に熱が集中していくのを感じた。
「また、真っ赤になっちゃったね♡ ……ほんとに可愛いんだから」
――これだけで照れちゃうのに、俺のこと待ち侘びてそんな顔しちゃうんだもん、と。
耳元で吐息混じりに囁かれ、ぴくりと肩が震える。反射的にぎゅう、と目を瞑った間に膝裏に手を入れられ、易々と抱え上げられて。気付けばいつもの通り、お姫様抱っこをされていた。
「……わっ、千弘さん……!」
危ないですよ、と言おうとした口をそのまま噤んで、代わりに首に手を回す。
「そうそう、大人しく掴まっててね♡」
今日はシャワーは後回しでいいか、と呟かれた言葉に返事の代わりに手に込めた力をすこし強めて。微かに、伝わるかどうか程度の首肯を返す。
変わっていく自分に、戸惑いがまったくないわけじゃない。……でも、千弘さんと一緒にいての変化なら、それでいいと思えるから。
……想いを伝えるたび、言葉で伝えきれない感情を態度にして交わすたび。うち震えるほどに、満たされるこの形容しがたい想いごと。全部、伝わればいいのにと何度も思う。
そうして、出来ればこの先も――あなたのその、心の機微ごとぜんぶ。余さず、隠さずに……私にぜんぶをくれますように。
独占欲などという、やさしい言葉で片付けられない気さえするほど、溢れて溢れて仕方のない感情を……言葉にするのは気が引けて。
「俺も全部あげるから……、久遠ちゃんも隠さずにちゃぁんと俺に全部ちょーだい♡ ……約束、したもんね?」
「は、い……、千弘さん……♡」
震える声で返事をして、やさしい振動を感じながらその肩口に顔を埋めた。