融解する温度

2022/03/12


「千弘さん、何してるんですか?」
ひょいと背後から覗き込むように顔を出した彼女の声に応じるように、そちらへ視線をやる。すぐ傍にやってきた横顔が、興味津々といった表情で思わず口元を緩めた。
彼女の動きに合わせて、さらさらと揺れて落ちた髪が首筋をくすぐっていく。自然と、安心しきって寄ってきてくれる彼女の無自覚な信頼に、それだけで満たされていく感覚がする。
「ふふっ、この間の写真をちょっとね、見返してて」
「……あ、プラスタの更新ですか?」
「ううん、ほら。約束したけどなんだかんだでまだ送ってなかったでしょ、写真」
「ん……っ、そうでした……」
その日のことを思い出したのかさっと頬を朱に染めたその表情も、とてもいじらしくて。くすくすと、つい笑みが漏れた。すこしだけ眉尻を下げて、咎めるような表情をした久遠ちゃんがこちらを向いて頬を膨らませる。くるくる、ころころと変わる表情が……俺の前でだけなんだと思うと、こんなにも愛おしい。出逢った当初にも警戒心が薄いなぁと思ったけれど、それでもこんなにもくるくると表情が変わる子だとは思わなかったから。そう考えると、今はすっかり心を許してくれているんだなと……さらに実感する。
〝お仕事以外で女の子に触れない〟と——知り合って間もない彼女にバレてしまったときも。何度目かの『自分とだけにしてほしい』なんて撮影相手に言われて……つい、弱ってしまったときも。彼女が何気なくくれた言葉が、未だに心の中心に――残っている。
『そんなに疎まれるお仕事なのかなぁ、この仕事って……。久遠ちゃんはさ、どう思う?』
『千弘さんは、とても誠実にお仕事されてます。私はそれを見て、感銘を受けたんですよ。私は、千弘さんの味方です……!』
知らず知らずのうちに警戒を緩めてしまったのも、今思えば久遠ちゃんが一緒だったからなんだろうと理解できる。何を言わなくても、穿った見方をせずにただ受け止めて、自分なりに咀嚼をして。その上で何かをくれるわけではなくて、ただ態度で信頼を返してくれるだけ……というのは。案外、心地がいいモノなのだと初めて理解した。勝手な理想を押し付けた〝|俺《﹅》〟ではなく、ただまっすぐに〝高嶺千弘〟を見て受け止めてくれたのが。彼女で良かったと、今ではしみじみ思う。
――ゼロがイチになっただけ、かもしれなくても。誇りと熱意を持って打ち込んできたこの仕事のことを、同業者にも理解されず。そんなときに現れた、なんにもこの業界のことを知らない《《ただの女の子》》が、短い期間だけでも俺を見て……この仕事に触れて、《《はじめての理解者》》になってくれたこと。それが、長らくこの仕事を続けてきた俺にとっての《《救い》》だった。
理解してくれただけじゃなくて、心から信用して……その信頼に触れて嬉しいと感じさせてくれたのも。好意を伝えて『ごめんね』と謝った俺に、間髪入れず『どうして謝るんですか』と困った顔をしてくれたことも。〝この仕事をしている限り独りきり〟なんだろうという《《割り切らなくちゃいけない》》と感じ始めていた想いごと、そんなことないと受け止めて。傍にいてくれたことに、俺がどれだけ救われたか――きっと何度話しても。あのときの満たされていく感覚も、独りじゃないという喜びも、心に灯がともるような温かさも……伝えきれはしないから。こうして今も傍にいて、そして〝《《これからもずっと》》〟を誓ってくれること。俺が唯一、本当の意味で自分を晒して安らげる場所でいてくれることが……ただただ、本当に幸福で。
……そんなことを考えながら、しばらく黙って百面相をしている様子を眺めたままでいたせいか、はたと我に返ったらしい彼女がこちらを振り向く。
「……って、そうじゃなくて……ですね!千弘さんが見てた写真のことですっ……!」
「そうだったね。ほら、これ」
おいでと手招きをすると、久遠ちゃんは大人しくソファの背面側からこちら側へと回ってくる。ぽすんと隣に腰を下ろすと、何の疑いもなく顔を寄せてくる――その素直さが底抜けに眩しくて。つい悪戯心に火がついて、寄せられた頬に自分の頬を触れさせた。
彼女の側からすれば、完全に不意打ちだったのだろう。思わずといった風にちいさく身体を跳ねさせた次の瞬間には、触れた頬が熱くなっていくのが感じられる。ふふっと漏れた笑い声に、もう……と困ったような笑みを孕んだ声がして、また元通り——頬が触れる位置に、収まった。拒絶しないで、受け入れて。柔らかに包み込んでくれるその愛情を、日常の何気ない瞬間ですら、彼女はそうして返してくれる。
――ようやく画面に表示していた写真に目をやったのか、久遠ちゃんの方からもちいさく、やさしい笑みが漏れる。
「やっぱり猫ちゃんは可愛いですね……♡」
……元来、動物が好きなのだろう。彼女は以前、何の因果か俺に耳と尻尾が生えてしまったときにも、目をキラキラさせてはしゃいでいた。写真の中の彼女も、記憶の中の彼女も、今隣にいる彼女も……いつもそうだ。子どもみたいに純真に、無垢に。その目をキラキラと輝かせている。破顔して緩んだ表情からも、やさしさが伝わってくるくらいに、柔らかな表情で。
「猫ちゃんも可愛いけど、久遠ちゃんもすっごく可愛いよ?」
「……んん、千弘さんが撮るのがお上手だからですよ……!あとは猫ちゃん効果です……!」
「そこまで言うなら、そういうことにしておこっか♡」
あまり|揶揄《からか》いすぎるのも、また困った顔をさせてしまうかなと。くすくすと笑って、その話題を切り上げた。彼女はほっとしたように息を吐くと、薄く頷く。
「それにしても、本当に猫ちゃんもやさしい顔してるね。……これとかほら、すっかり久遠ちゃんに甘えきってるよ♡」
「猫好きとしては嬉しい限りなんですけど……!うう、私の顔もゆるみすぎで……っ!」
あとで見返すと恥ずかしいです、と首を左右に振る彼女を見て、またついつい笑う。甘えてゴロゴロと喉を鳴らした猫ちゃんが、頭を押し付けるようにすりすりと彼女の手に甘えていた様を思い出す。彼女といると癒されて、ついつい甘えてしまいたくなるから……はじめて会ったはずの猫ちゃんが、すぐに心を開いたのもよくわかる。
「ふふ♡ でもちょっとだけ、俺も猫ちゃんになりたい気持ちわかるなぁ」
「え、そう……ですか?」
「うん、ほら。俺はどう頑張っても久遠ちゃんに抱っこされる側にはなれないから、ちょっと経験してみたいなとは思うよ♡」
そう返事をすれば、一度驚いたように目を瞬いたあと、彼女はゆっくりと満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、千弘さんなら猫ちゃんになっても可愛いんでしょうね……♡」
「久遠ちゃんも結構ノリ気だ♡ その時は思う存分抱っこしてね?」
――そんな話を、何気なく交わしたのだった。

◇ ◆ ◇

「みゃおん」
昼下がりの陽気に負けてうたた寝をしてしまっていたのか、目が覚めて違和感を覚えて……ふわふわの体毛に包まれたちいさな手――もとい、前足を眺めて声を上げる。もちろん、その声も案の定……|この姿《ネコ》にふさわしいものになっていた。
一度尻尾と耳が生えた経験からか、目覚めて何故か自身が猫になっていても、思ったより冷静でいられている気がする。……まぁ、元々お仕事の都合で色んな〝あり得ない〟設定をこなしてきたせいもあるとは思うのだけど。そんなこともあるか、というのが最初の感想で、いつもの自分の視界と違いすぎる視界を案外楽しんですらいる。
どうやら俺は今、長毛種の猫になっているらしい。以前と同様、ぱたぱたと寝息を立てる彼女の腕や足に、尻尾で触れた。そのふわふわでもふもふの手触りに、久遠ちゃんはちいさく唸り声を上げて身動ぎをする。
「……ん、んん……ちひろ、さん……?」
もぞりと身体を起こした彼女が、眠そうな目を擦りながら俺の名を呼ぶ。応じるように喉を鳴らして、すりすりと腕に甘えるようにして顔を押し付けた。くすぐったさからか、ふふっとちいさく笑い声を漏らした後で「あれ?」と我に返った久遠ちゃんの声が聞こえて。まだ眠たげな色をたたえた瞳が、徐々に俺の顔を見据えて……焦点を結んでいく。
「千弘さん、えっ……ね、猫ちゃんになってますけど……!?」
驚きの声を上げ、ぱくぱくと口を開閉しながら必死に現状を理解しようとしているらしい彼女を落ち着けるように、するりと身体を寄せる。なるほど、猫の身体は流動体のようだと思うことも多いけど……本当に、思った以上にするすると動く。視線を合わせることや見下ろすことはあっても、完全に彼女を見上げることは少ない。ぺたんと普通に座るだけで、自然と見上げる形になるのがなんだか新鮮で、それだけで楽しくなった。
触れていいのか迷うようにして、先ほどからふらふらと手を彷徨わせては我に返ったように引っ込めてを繰り返す彼女に、思わず笑みが漏れる。人間だったら笑っていただろうところが、ぐるぐると楽しげに喉が鳴った。あのときも、ぱたぱたと感情に合わせて揺れる尻尾を目で追っては、じっと熱のこもった表情でひたすら見られたのだ。あまりの様子に「触っていいよ」と言った途端、本当ですかと目を輝かせていたのも記憶に新しい。
……言葉が発せない代わりに、安心して触っていいのだと意思表示も兼ねて、自ら飛び込むように、久遠ちゃんの腕の中に身体を預けて。そう言えば、いつもは俺が抱き留める側で――彼女にこんな風に飛びつくのも、はじめてかもしれない。自分からすり寄って抱擁を求めること自体は毎日のようにあるけれど、やっぱり体格差がある以上は全力で抱きつくことはできないから。
「わ……っ!」
驚きながらも伸ばされた腕が、やさしく身体を抱き留めてくれる。あたたかな温度が伝わって、自然と表情が緩む。猫の姿のときはいったいどんな表情になっているのか、想像がつかなくてほんの少しの戸惑いもあるけれど。彼女の温もりに包まれて、嗅ぎ慣れた匂いに鼻を埋めるように肌に触れた。先ほどからずっとごろごろ鳴りっぱなしの喉の音に、いかに自分が彼女の前だと気を許しているのか、いつも以上に客観視させられるようで面映い。
「ふふっ、千弘さんくすぐったいです……」
触れた肌がくすぐったいのか、身を捩りながらそう言って笑う彼女の表情に忌避感は見られない。唯一安心できる居場所……安らげる場所を得た俺の、これまで自分の中にはなかった〝我欲〟を喜んで受け入れてくれる久遠ちゃんは、最初からしっかりしているのにどこか抜けていて。こういった不思議な事態にも、最初は面食らいこそすれど《《俺であること》》それ自体には疑問を抱かずに、素直にただ受け止めてくれる。
そういう、ただ《《受け止めてくれる》》ことが心地良い。普段は過度に何かを求めたりしないのに、俺に愛されているときだけ素直に応じるどころか――求めてくれるようになったことも含めて……全部。その全部が愛おしい。離さずに抱きしめていてくれるこの腕があるから、俺はこれまで以上に仕事にも打ち込めるのだから。
「ぅにゃあ」
言葉は全部鳴き声になってしまうけれど、それでも確かに彼女に伝わっているのだろうというのは感じられる。聞き慣れた心音も、触れる温度も……いつも通り、たった一度で手放したくなくなってしまった彼女のそれだ。いつもは俺が包んであげる側の温度と体躯に、やさしく包まれてこんなに心地良くて落ち着くものなのかと、染み込んでいくように馴染んでいく温かさに身体を緩めた。
いつもは腕の中で感じているすこし高めの体温が、全身を包んでふわふわと気分を高揚させていく。道理で彼女の腕の中で、猫ちゃんたちがあんなにも甘えていたわけだと納得してしまうほど——居心地が良い。彼女の体臭と混ざった揃いのシャンプーやボディーソープの薄くなった香りが、鼻腔をくすぐる。人より優れた嗅覚に引きずられているのか、普段だったらこの時間にはあまり感じられないはずの微かな匂いすらも拾えることに、驚きつつも薄く笑う。聴力も同じで、人より良いそれが……普段は耳を澄ますか、肌を寄せて感じることの多い彼女の刻む心音やわずかな吐息を拾ってはぴくぴくと耳が反応しているのが感じられる。
ただこうして膝の上で抱きかかえられているだけで、とろとろと思考が蕩けていってしまうような――それほどに安堵してしまう。普段、惰眠を貪ったりはしない|性質《タチ》なのだけれど、こうしているだけで徐々に眠りの淵に誘われていく。
ただでさえ春めいてきたお休みの日の昼下がりの日差しなんてものは、抗いがたいほどの誘惑だというのに。一定のリズムを刻む拍動と温もりで、急速に思考がぐずぐずになっていく。それは久遠ちゃんも同じらしい。ふわぁと眠たそうな声が聞こえたかと思ったら、うとうとと瞼が落ちかけている様子だった。そのまま、膝の上に抱きかかえていた俺の身体を掬いあげるようにして、睡魔に負けて彼女はそのままベッドに身体を横たえた。抱え上げた俺ごと横になると、ぽやぽやと眠たげな瞳のまま甘えるように身体へ鼻先を擦り寄せる。
……この家にベッドは一台しかない。彼女がこの家で暮らし始めてからずっと——、俺たちは寝食を共にしている。隣にその体温があることが常で、生活の一部として溶け込んでしまった。だから、お互いにもう……その温度がないと物足りない。何かが欠けてしまったようで、心の底から安心して眠れない。
――少なくとも、俺はそうだ。仕事でどうしても家を空けてしまうことも、あるけれど……。いつも足りない。安心しきった寝顔を無防備に晒して、腕の中ですやすやと寝息を立てる彼女がいてようやく。……ないしは。拒絶も不快も一ミリもない、俺を受け入れることを《《当然》》としてくれる彼女のとろとろにほどけた声音を傍で聞きながら、体温を感じてようやく。ああ一番ここが安心する、と。実感できるから……俺も同じように無警戒で寝顔を晒せるのだ。
眠たげな久遠ちゃんから出た何気ないたった一つのその行動で、ああ彼女も同じなのだと思うだけで……こんなにも充足感に包まれる。
そう思ったら俺の意識も、もう保てそうになかった。どんどんと、微睡みに落ちて行ってしまう。すべての思考を手放してしまうまでに、そう……時間はかからなかった。

◇ ◆ ◇

太陽が傾いたせいか、些か低くなった室温にわずかばかりの肌寒さを覚える。それにつられるようにして、一気に思考が覚醒していく。ゆるゆると水中を登っていくような浮上感を感じながら、存外しゃっきりとした思考で目を開いた。
ぱちぱちと、数度目を瞬く。もぞりと身動ぎをして、元の姿に戻っていることに気付いて……思わずくすりと笑みを溢す。白昼夢のような出来事だったな、と自分でも思う。揃って不思議な夢を見ていたのだと言われた方が、納得がいきそうな不可思議な出来事。夢だったとしても、彼女が同じ夢を見て……思考を共有してくれていたのだとしたら、それでもいいと。そう思ってしまうほど、かけがえのない唯一無二の存在になっている恋人の姿を視界に入れて、俺はもう一度笑った。
「ふふっ」
今度は、思わず声も漏れてしまった。その音に、眠っていた彼女の瞼が、ぴくりと反応を示す。恐らくちいさな猫の手を掴んだまま寝ていたのであろう彼女の手は、俺の指を数本握りしめたままになっている。彼女の身動ぎに合わせてゆるく力の込められる手に、くすぐったい気持ちになる。
――きっと、放っておいてももうすぐ覚醒するであろう彼女の意識を浮上させるように。乱れた前髪の隙間から覗く額へ、唇を寄せた。
「……久遠ちゃん、起きて」
もうすっかり日も陰っている。これ以上遅くまで寝ていたら、今夜の就寝時間に影響が出かねない。残念ながら明日は仕事の予定で、いつまでもゆっくり過ごすことも難しかった。
「……んー、んぅ……?」
ぼんやりと意識はあるらしい。呼びかけに、言葉にならない言葉が返ってきた。きゅ、と甘えるように握った手に力が込められて……それから、もぞもぞと起き出した彼女の瞼がゆるく持ち上げられる。まだ夢見心地で覚醒しきっていない彼女の見せる、そのふにゃふにゃとした表情が。警戒などひとつもない寝顔の次に、本当に俺のことを心の底から信頼してくれているんだなと実感できるから――……。この寝起きのやり取りをするのが、俺は好きだ。
「ほーら、起きて。ちょっとお昼寝しすぎちゃったね、もう日落ちちゃってるんだよね」
そう言いながら、触れるだけの口付けを何度か落とす。んー、とちいさく溢した彼女が黙ってそれを受け入れて、徐々に覚醒していく瞳を間近で覗き込んだ。
「もう夜だけど、おはよう……久遠ちゃん♡」
「……おはよう、ございます……!あれ、千弘さん戻ってる……?」
さっと頬を染めながらそう挨拶してきた彼女の「夢だったのかな……」の言葉にくつくつと笑いながら、手を引いて身体を起こして。
「どうだろうね?」
俺は――わざと悪戯っぽく、片目を瞑ってみせた。この後、すっかり飢えてしまった想いを今日も、彼女に強請ることを……ひそかに心に決めながら。