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雪解光

2026/01/22

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きっかけは、本当に些細な、驚くほどに単純なことだった。
ずっとあまり好きではなかった、自分の名前と癖のある髪。短くすると余計に癖が強く出るせいで、あまり短くすることもできなかった髪のせいもあり、幼少期は揶揄われ続けた。「夕喜ちゃん」と蔑称されるのも嫌で、自分の容姿も名前も……何もかもが嫌いだった。あの頃はまだ身長も体格も今ほど大きくなくて、なよなよして見えたのも弄られる原因だったんだろうと今なら分かる。けど、当時は自分じゃどうしようもない理由でそんな風に言われるのが嫌で、そのくせ親にはつけてもらった名前が嫌だとか、心配されんのが嫌でなんにも言えなくて。負けん気が強くて変に口の強い姉貴に庇われたことも、当時は少なくなかった。雪にちなんだ童謡やらが取り上げられるたび、またわけのわからない理由で揶揄われるのかと思ったら、冬の時期は園に行くのも憂鬱に感じていたことを覚えている。
そんなある日だった。あいつと――旭と出逢ったのは。
一学年下の旭とは最初、特に接点なんてなくて、園全体の外遊び時間中にたまたま近くにいたのが、知り合ったきっかけだったと思う。姉貴も居たし、そんな歳の頃は男女入り乱れて遊ぶことも少なくなかったから、特に気にも留めずにいつの間にか遊ぶ仲になって……そのうち、降園後も遊ぶようになるまでそう時間はかからなかった。旭は特に物怖じもしなかったし、湊ともすぐに仲良くなったからあっという間に俺たちは三人でいるのが当たり前みたいになっていった。そんな湊のことはそのまま名前で呼ぶクセ、何故か俺のことは「ゆきちゃん」とひっきりなしに呼ぶ旭の声は耳馴染みが良くて、いつの間にか蔑称だったはずの「ゆきちゃん」呼びも嫌じゃなくなった。その代わりに、旭以外の他人にそう呼ばれるのが耐えられなくて、ゆきちゃんって呼ばれる度に威嚇するような有様だったから、小学校に上がる前には俺のことを家族以外でそう呼ぶのは、一個下の幼馴染だけになっていた。そんなだったから、旭の前で男児にしては長めの髪を揶揄われた時、久々にカッと身体中の血が沸騰するような感覚を覚えたのをよく覚えている。
名前で揶揄えなくなったから、容姿で弄ろうと言うなんてことのない、無邪気な悪意。湊と旭の二人と主に遊ぶようになってから、ほとんど感じなくなった悪意だった。まだ身体が小さくてお転婆で、一つ違いだろうがなんだろうが思ったことをそのままぶつける、悪く言えば兄弟姉妹がいない湊と、姉貴の傍若無人さに辟易していた俺に甘やかされて幼児期特有の我儘奔放ガールと化していた旭は、まだ小さい鉄砲玉のような彼女が走ってどこかに行かないように繋いでいた俺の手が強張ったことに気付いたのか、不思議そうに目を瞬いてこちらを見ていた。
しばらく目を見合わせたまま沈黙が続いて――何を言っているのかわからないと言うように、小首を傾げた後で旭はこう言ったのだ。
「なんでだめなの?ゆきちゃんの髪、ふわふわでわたしはすき!」
ぱっと笑って同意を求めるように「ねー?」と言った後。繋いだ手をおもむろに外すと、癖でくるくる丸まった髪をふわふわと彼女の小さな手で触れられたその瞬間を、その光景を……俺は未だに忘れられないでいる。

◇◆◇

「ん……」
懐かしい夢を見たなと、寝起きの定まらない思考でそんなことを思う。懐かしくも、鮮明な記憶。あの日抱いた恋心を、捨てきれないまま大人になった。がしがしと頭を掻いて身体を起こす。鮮烈な追体験のような夢に、眠気はすっかりどこかに行っていた。
「はー……なんでまたあの時の夢なんか……」
別に思い出すような出来事もなかったのに、唐突にこんな夢を見るなんて。もう二度と、旭には会わない。それは十三年前に決めたことで、そのために高校も地元から通えるところではなく、こちらの学校に決めたのだから。会いたいと思うことは、ある。けどあれ以来本当に、会っていない。……いや、正確には会えなかった。
湊が事故で死んだ、あの日からずっと。
その頃には肥大した恋心を持て余して、思春期で若干変化した距離感も、ずっと『三人仲良く』が変わらなかったことにも、三人でいるだけで飛んでくる『どっちと付き合ってんの?』の声も……全部煩わしくて。そういうんじゃないと言っても向けられる好奇の目も変わらず、学年が違うせいでずっと他の男たちから好意と下心を含んだ目線が旭に向けられることからも守り切れないことも、余計に苛立ちを募らせた。そんな思いから、あの冬の日に俺は湊に嘘を吐いた。
少しでも長く、旭とただふたり一緒に居たくて。昔からいつも三人一緒に遊んでいた公園で、旭が待ってるなんて……そんな、些細な噓。
雪がちらつく、寒い冬の日だった。
――その夜だった。湊が、その公園の程近くで、事故に遭って亡くなったと電話があったのは。
そうして動揺を隠しきれないままに参列した湊の葬儀で、お世話になった湊のお母さんが……「あなたのせいで湊は死んだの!」と慟哭した記憶も、俺の中で消せずに、色褪せずに、毎日のようにリフレインしている。それが、一生消せない俺の罪。直接手を下したわけじゃなくても、人は殺せるのだと思い知り、醜い欲望も、積年の恋心も、全部このまま秘め続けて噴き出すことのないように旭の前から消えることを選んだ。
湊の笑顔と未来も、家族の幸福も、旭の笑顔も奪った人殺しの俺に赦された贖罪を、当時はそれくらいしか思いつけなくて。俺の抱えた欲のせいで、大事な幼馴染を殺してしまったのならそれをぶつけることも表にすることもしないで生きていこうと思ったのだ。本当は、まだ三人で笑っていられた。湊も旭も笑って、これまでと変わらないはずの日常を過ごせるはずだったその機会を損ねた張本人の俺が、何食わぬ顔をしてあいつの隣にいるのは間違いだ、と。そうして地元から遠ざかって、そのままずるずる帰れなくなった。怖かった。湊の家族に遭ってしまうのが。旭に遭ってしまって、また閉じ込めたはずの気持ちを自覚するのが、抑え込んだはずの感情を抑えられなくなってしまうあの日の衝動が。それに、憔悴するあいつを前に湊のご家族が飲み込んでくれていた、俺にだけぶつけられた言葉と、俺があの日から隠してきた事実を知られてしまっていた時の、その反応も。大学もこちらで進学を決めた俺はそのまま姉貴とも、まだ事故当時は幼かった弟ともほとんど連絡を取らないまま十数年が経過して、余計に帰りづらくなったのだ。
そのくせ、まだあの日封印したはずの恋慕だけは消えずに残っていて、事あるごとに思い知る。学生時代、それなりに素行の悪い先輩とつるんで、バイクに乗り出してほんの少しだけ、ただその瞬間だけに没頭できる時間を知った。その代わり、ずっと隣にいた存在がいない空虚な一人の時間は、より一層苦痛になった。ころころ変わる表情も、他の奴の前ではそんなことないのに、俺らの前だとまだ出逢った頃みたいにすぐに我儘を言う癖も、他愛のない、どうでもいい馬鹿なことをして笑い合える時間も……湊にすら許さなかった「ゆきちゃん」って呼んでくれる声がなくなるだけで、一気にあの頃と同じかそれ以上に自分の名前も、冬の雪がちらつく季節も嫌いに逆戻りして。ただただぽっかり、心に穴が開いていた。他の人間で埋まることがないことも知っていて、それでもこの喪失感をどうにかしたくて。

雨露霜雪

2026/01/22

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思いきり吐いた溜息は思いの外深く、重く電気を消した部屋に響き渡った。ほんの少し、聞こえて起こしてしまってやいないかと家主の眠る部屋の方へ目を向ける。寝息も、寝返りや布擦れの音も聞こえないしんとした静寂に、安堵と同時に晴れない胸に広がる靄のようなモノを自覚して、ぐしゃりと髪を掻き混ぜながら目を閉じると細く長く、息を吐いた。
「はー……、こうなるって分かってたのに。なんで旭のとこ来ちまったんだろうな……」
漏らした呟きの答えなど、とうに出ている癖に自嘲気味にそんなことを吐き出すしかなくて。いつまで経っても成長しねぇ、と自分自身に釘を刺す。
罪悪感で押し潰されそうなのに、会えば後悔するとも分かってたのに……逃げるように地元を出た高校入学からこの先、守り続けていた会わないという覚悟も、距離も、全部自分の手でかなぐり捨ててしまった。ほとんど十年ぶりの再会に、これまでどうやって旭と会話していたのかの感覚も曖昧だった。こんな距離感だったかとか、気安さとか――旭が帰ってくるまでずっとぐるぐる考えてたそれも、当の本人を前にしたら全部霧散して消えてしまった。舌が喉に張り付くような緊張感と、反して勝手に言葉を紡ぐ口を止められないことへの胸が軽くなるような感覚を覚えて……それがまた胸を貫く。
しばらく忘れていた痛みがじくじくと胸の奥から広がって、苦しい。俺|だ《﹅》|け《﹅》がここに居ていいはずないと、あんな風に気安く話して、笑って……「ゆきちゃん」って変わらずにあの声で呼ばれて良いわけがないのに。一度『昔みたいにゆきちゃんって呼んで?』と戯けてみせたら、疑問も覚えず『ゆきちゃん』と反芻するように呼ぶ声が、耳に馴染んで。やっぱりこいつにだけ、そう呼んでもらいたいと思ってしまった。今までの十数年、ただの一度も埋まらずぽかりと空いた胸の隙間が、たったその一言だけで埋まったことに気がついて――蓋をしていた感情を、自らこじ開けてしまったと自覚した時にはもう遅い。
近寄るだけでわかるほど酒の臭いを纏った旭が、俺の指摘に|目を逸らした《嘘を吐く時の癖》のを認めて、その苦しみも安堵もぜんぶ吹き飛ぶくらい、ひとつの感情だけに占拠される。どうせ幼馴染としか思われてないなんて知っていたはずだった。淡い期待なんかするなって言い聞かせて、この部屋に転がり込むことを決めたつもりだった。
……でも、ぜんぶ無駄だった。
気付いたときには、感情が先走って腰を抱き寄せてた。
「あー……くそ、旭も旭だろ。なんで、戸惑うばっかで拒絶しねえんだよ……」
いらないことを口走ったと、肺の中のモン全部吐き出すくらいに深く息を吐き出す。別に、旭のお母さんだって彼氏がいるなんてわざわざ話さなかっただけ。同棲してなきゃ、火事で家財も何もかも失った幼馴染に数日部屋貸すくらいするだろ、と再度自分に言い含める。しかもお誂え向きに、旭の住んでる家は広くてわざわざ客間まであるんだから。いやそりゃ、付き合ってる奴がいるって知ってたらそっちもいい気はしないだろうしわざわざ俺にそんな提案あんなフランクにしなかったかもしれないけど。
変に煽られて、いらないことを口走りあまつさえ手を出しかねない素振りをした幼馴染を前にして、べろっべろに酔っ払ってるとは言え、手は振り解かず、混乱するばっかでそのまま腕の中でぐーすか寝息を立てるのは本当に。
「あー……心臓に悪い……」
上書きしてやろっかなんて口から飛び出た私利私欲を冗談って有耶無耶にした癖に、結局違う形で服を脱がせる羽目になるとは思わなかった。嫌われたくねえから、必死に自罰しただけ。今この一瞬だけでもいいから、また得られた位置をむざむざ捨てたくない。ただそれだけの、重くてどろっどろになった積年の執着。バレたら嫌われる。俺があいつの立場でも引くだろ、とひたすらに言い含める。俺の立ち位置は、ずっとあいつの近くの、ただの気心知れた幼馴染。それ以上でも、以下でもない。罪を抱えた俺に、話してくれるだけで十分。また声を、笑顔を……見られるだけで十分すぎる奇跡なんだって。
たったひとつ抱えて蓋して生きてきた、初恋なんて感情――ずっとひた隠して、なんてことないフリして幼馴染をしていられた頃の安寧を思い出せ。もう、おくびにも出すわけにいかない。
俺が我慢し続けてさえいれば、失わなかったはずの存在も。近くて遠い、旭がいる日常も。ずっと抱えて隠してきたなら、今度こそ徹底的に隠し通せ。
俺の知らないあいつの顔を、知ってるヤツがいるんだってことに一瞬で真っ黒に埋め尽くされた感情も、髪の隙間から項に寄せた唇から感じた、触れた肌の温度も柔らかさも。酒の臭いに紛れてしまうくらい微かに、鼻腔を擽る体臭も。抱き寄せた腰の細さも、寝こけて脱力しきった身体の、思った以上の軽さもなにもかも。ぜんぶ、全部……忘れてなかったことにする。
俺の罪を、後悔も、懺悔も――吐き出す日が来るとしたらそれは決別の日なんだって。もう一度、深く身に刻む。

ゆきちゃん、って変わらずに俺を呼ぶ声が今までと何も変わらなくて。ゆきちゃん、って言いながら他愛ない話で笑ってくれるその表情が、あまりに曇りなくて。
怒ったり笑ったり、くるくる変わる表情も、俺に対しては我儘放題なとこも、そのくせしんどい時ばっかり一人で抱えて他人を頼らないとこも変わってなくて。
意識し始めた頃には触れるどころか、近寄る距離も少しずつ遠くなっていってたはずなのに、そんなの全部なかったみたいに無防備に近寄らせて、腕の中にダイブしてくる意味不明な距離感も。
自分のしでかした大きな大きな許さない罪まで、許されたみたいで麻痺していく。
ここで、また旭の隣で生きてていいんだと。息をすることも、日の光を浴びて生きてていいんだと言われたみたいな気になってしまう。
大事な大事な幼馴染を殺した罪人のくせに、あの雪の日から一歩、前に進みたいなんて。
凍てついた雪の中、立ち止まり続けなきゃならない存在に雪解けなんて望む権利はないんだと。なあ、旭。罪を告白した咎人の俺に、お前から終止符を打ってくれよ。
そう思ってたはずなのに、なんで同じ大事なものを失ったはずのお前が、その手で俺を引き留めるんだよ。

雪解けの温度が、悴み切った身体には痛いほどに熱くて。この温度で灼けて消えてしまえればいいと、そんなことすら本気で考えた。
――知らなかった事情も思いも、全部氷解させてくれる温度だなんて知らないまま。

主よ、私の罪を赦し給え

2026/01/09


「……主よ、私の罪をお赦しください」
ロザリオを抱くように額に付け、頭を垂れる。私室の床に座り込み、熱く震える声をか細く溢して――目を伏せると、縋るようにそう囁いた。

◇ ◆ ◇

ぼんやりと気怠い身体を寝台の上に起こす。寝台に手を着いて床の上に足をつけると、ぺたりと微かに音が鳴った。ふらふらと壁に掛けた修道服のところまでたどり着くと、ネグリジェの首元のリボンを解く。姿見に目をやると、首筋に深々と残った赤黒い痕が目に入って――指先でさり、と撫でるようにその傷をなぞった。痛みはない。ぼんやりと身体に残った燻る熱と、酩酊するほど甘い疼きの残滓を感じて、深々と息を吐く。
「……嗚呼、今日もまたあの夢を見たんだわ……」
夢の記憶は霞みがかっていて、定かではない。けれどもう、この身体の変調で予想はついている。出逢ったばかり、縁を結んだばかりの良き隣人と……猥らなことをする、不敬で不埒な夢。今日もきっと、チヒロさんはこの教会へ顔を出しに来るのだろう。そして私は……彼の顔を見た瞬間、昨晩のことを鮮明に思い出すのだ。ずくりと疼く、肉体の疼きとともに。
ここしばらく、修道女として赦されるはずもない夢を見ていた。繰り返し見るこの夢は……姦淫となんら変わりがない。主の教えによれば、情欲に塗れているからこのような夢を見るのだと言う。道義的に姦淫せずとも、情欲に塗れた目で相手を見ているだけで姦淫に値するのだ、と教えでも言われている。その教えに従うのであれば、初対面の日からそのような夢を見てしまった私は――彼に邪心を抱いていたということなのだろう。彼の牙が、この首筋を愛撫する感触を。突き立てられた牙が、皮膚を破り血管を食い破り……喉を鳴らして血を吸い上げられ、飲み下されるたびに思考が明滅していく。視界が、頭が……ぱちぱちと爆ぜて、この快楽を享受していたい気持ちが湧いてくる。
夢を繰り返し見るようになって、はや数日が経過した。夢は数日おきに繰り返される。決まってその夢を見た日は、彼が教会を訪ねてくるのだ。今日もきっとそうだろう。周期的に夢を見るようになってから、薄く残った記憶の中で……私はその快感に身を焦がし、請われるままに自分から首筋を晒し――彼に懇願する。『気持ちいいのがほしいです』……と。
……私はもう、薄々気が付いている。彼の正体を。自分がいったい何をされているかを。――そしてそれが主の教えに背く、背信行為だということを。
ほうと二度息を吐いて、湧いた思考を追い出すようにゆるく頭を振った。ぱしんと頬を叩いて、気持ちを入れ替える。これではまた朝の礼拝に遅刻をしてしまう。急いで修道服に袖を通すと、ばたばたと慌てて部屋を出た。

◇ ◆ ◇

朝の礼拝のバタつく時間を終え、人が減った頃。箒を片手に聖堂の外へ出る。聖堂の外へ出ると、薄曇りの空を見上げた。そうしてふと、彼が言っていたことを思い出す。〝|あ《﹅》|ま《﹅》|り《﹅》|日《﹅》|に《﹅》|強《﹅》|く《﹅》|な《﹅》|い《﹅》〟と……彼は初めてあの夢を見た翌日にここを訪れた際、そう言ったのだ。そのことを思い出し、箒で落葉を掃きながらぼんやりと考え込む。私が思っている存在なのだとしたら、陽のもとで活動できるような存在がいるのかはわからないけれど。きっと、彼は力の強い存在なのだろうというのは想像に難くない。
「あ、おはようクオンちゃん♡ また遊びに来たよ♡」
「……っ!お、はようございます……チヒロさん」
突然かけられた声に驚いて振り返る。その声は、ここ数日で聞き慣れたものだった。何度もやさしく名を呼び、囁くように語りかけられた……低く、どこか甘さのある声。視線を下げて、顔を合わせないままに挨拶に応じてそう言った。じわり、と顔に熱が集中してくるのがわかる。彼の顔が見られないまま、おろおろと視線を彷徨わせた。
「ふふっ、どうしたの?顔赤いけど……熱でもあるのかな?」
伺うような視線でそっと顔を覗き込まれて、目線がかち合う。瞬間、脳裏に昨夜の夢の内容が走馬灯のごとく流れ込んでくる。カッと顔と耳が熱くなったのを感じて、慌てて目を逸らした。けれども逸らしたときには既に遅く……思いきり赤くなった顔を見られてしまった後だった。ちいさく笑って、彼がこちらを見遣る。
「あらら、大丈夫?シスターさん♡」
「……な、なんでもありませんっ……!チヒロさんが近くてちょっと驚いちゃっただけで、大丈夫ですから……っ!」
「ふふ、ホントかなぁ……?」
「ほんとですよ……!」
ぶんぶんと手を振ってそう言うと、くすくすと笑った彼が笑みを孕んだ視線を寄越した。うぅ、と小声で弱音を吐いて肩を落とす。熱くなった頬に手を当ててひとつ深く息を吐くと、ぎゅうと目を瞑った。心を落ち着けるように、そのまま数度深呼吸を繰り返す。その様子をじっと見守る視線が、背中に刺さる。
「……な、なんですかチヒロさん……」
あまりに視線が突き刺さって、思わず振り返って彼の顔をじぃと睨めつけながらそう問い掛けた。ぱしぱしと瞬きを繰り返してから、チヒロさんはゆっくりと口角で弧を描く。
「ふふっ、ううん……頑張って誤魔化しちゃってかわいーなぁ、と思って……♡」
「誤魔化してなんかないです……っ!」
……ぺろり、と。赤い舌が覗いて、妖艶な笑みを浮かべたまま彼が舌舐めずりをした。それと同時に、わずかばかり口唇の狭間から白く鋭い牙が覗いて――落ち着き出していた顔の熱さが、ぶわりと戻ってくる。……あの舌が、あの牙が。昨晩肌に触れたときの感触を、まざまざと思い出して。ぞわぞわと痺れが訪れ、全身が総毛立つ。こく、とちいさく喉が鳴った。人気の少ない教会の外では、その音はイヤに空間に響く。
「ホントに可愛い反応するんだから……♡ あんまりそんな顔、ヒトに見せちゃダメだよ?」
蠱惑的な表情で見下ろされて、あまつさえそんな風に囁かれる。修道女なら知っているだろうけど、キミたちをそういう悪しき目で見る人たちって言うのはいるからね、と。ご丁寧に釘まで刺されて、言葉に詰まった。チヒロさんは、間違いなく気付いている。私の|夢《﹅》のことを。……否、夢だと思っているあの時間のことを。そうして私が毎度の如く、その翌日に彼の顔を見るたび……言い逃れができないほどに頬を染めている理由を。
「気を……つけます……」
「ん、友人としてキミが悲しい目に遭うのは嫌だからね。それじゃ、今日はちょっと立ち寄っただけだから……また遊びに来てもいいかな?クオンちゃん」
「……もちろんです、教会は誰にも等しく開かれた場所……ですから」
お馴染みになったやりとりを繰り返して、今日も彼は聖堂で主に祈りを捧げることもせずに裾を翻して帰って行った。

◇ ◆ ◇

その夜――また、もう何度目かわからない夢を見る。……否、私ももう気付いていた。これが決して夢ではないこと、彼が本物の吸血鬼なのだろうということに。日ごとにわざわざ訪ねて良いかの確認を取るのは、きっとどこかで噂に聞いたことのある『吸血鬼は招かれた場所にしか入れない』という性質が故なのだろう。首筋に残る牙の痕も、ぶつりと血管が食い破られる感覚も……次いで訪れる、酩酊するほどの享楽も。ぜんぶ、きっと本当のことなのだ。……そうして、現実のことだからこそ私は罪深い。
これが夢でないと知っていながら、彼と夢の狭間のような意識の中で対話をする中で、私は彼がもたらしてくれる快感に酔い痴れ、あまつさえ自己の意思を持ってそれを求めているのだから。
「ふふっ、もうすっかり気持ちいいこと覚えちゃったね?俺がここに来るだけで|蕩けた表情《そんなカオ》するようになっちゃって……♡」
蠱惑的な笑みを浮かべ、ぺろりと彼の唇から舌が覗く。鋭い牙が、視界に入るだけで下腹がずくりと甘く疼いた。呼応するようにちいさく漏れた吐息が熱くて、我ながらそのはしたなさに失笑しそうなほど。
「今日も貰うね……♡」
そう言ってするりと首筋を撫でられるだけで、こきゅんと喉が鳴る。首肯すると、私は自らの手でネグリジェの首元を寛げた。いつの間にか、隠しきれないほどに深く残った彼の痕跡を――己の手で彼の前に晒す。いい子、とうっそりと笑って頭をひとつ撫でてから……彼はいつものように噛みついた。啜り上げる水音が無機質な部屋に残響して、嚥下音の度に思考がばちばちと融けていく。きもちいい。……もっとほしい、と。それしか考えられなくなる。けれど彼が触れるのは、いつも吸血のときだけ……それもやさしく頭を撫でるだけで、それ以上のものはくれない。
「ぷはっ……今夜もごちそうさま♡」
ガクガクと無様に震える身体を抱えて、喘鳴のような呼吸しか漏らせない私を見下ろして彼はそう礼を告げる。震えが収まるまで、ただ子どもをあやすかのように撫で続け……そうして、おやすみと言って夜闇に溶けるように帰ってしまうのだ。幻術と現実の狭間に、寂しく置いて行かれた私は……微睡みを覚えながらも、疼きが収まらない下腹部へと手を伸ばす。くちゅり、と布の上からでもわかるほど酷く濡れそぼったそこに羞恥を覚えながらも、欲望に抗えない。ひとつ、ため息とも感嘆ともつかない呼気を吐いて――そっと、下着の隙間から指を滑り込ませた。声を殺して、指を埋める。熱く、すっかり蕩けて蜜を湛えたそこを指で掻き混ぜながら――彼の顔を、声を……仕草を思い出して、上りつめていく感覚に耐え切れずに名を呼んだ。
「チ、ヒロさん……っ♡」

◇ ◆ ◇

その後、彼は私への配慮で仮死休眠に就こうとしていることを告げた。離別を惜しんだ私に正体を明かし……その上で、私にすべての選択を委ねてくれた。もちろん、私の取った選択は『彼の生涯で唯一の眷属となり、彼と寿命を共にすること』だ。その選択をするのも、一度人間としての生を擲ち『死』を経験することにも迷いはなかった。彼に本当の意味ですべてを捧げることができたことを、嬉しく思う。
私の知識以上に古く強大な真祖の吸血鬼だった彼は、既に数百年を超える彼の人生の中で唯一、隣に並び立つ血族として……伴侶として私を迎えてくれた。
彼の住む街外れの古城で、ふたりで暮らすようになってしばらくが経つが……私の存在は、彼の幻術で街の人々の間から消え――夜半や晴天でなければ、街に繰り出してふたりで歩くことすら可能にしてくれる。一方で、それほどに強大な幻術が私にだけ効きが弱く、遂には自力で破ってしまえたことに改めて驚くことにはなったのだけど。
遠くから、もう訪問することの叶わない長く暮らした教会を眺めて……目を細める。教会や主の教えに嫌気が差したわけではない。それらすべてに背いてでも、添い遂げたい存在ができたというだけのこと。修道女として尽くした『奉仕』は性に合っていたと思う。だからこそ、自分の中にこんなにも強い想いが眠っていたことに自分でも驚いた。そんな風に思える存在も、私の生涯においても彼だけだろう。けれど、世話になった人たちが……いつか私より先に天に召されてしまった時に僅かな寂しさを覚えるのだけは赦してほしい。
そんなことを考えながら、しばらく教会を眺めていた私にチヒロさんはひょいと顔を覗き込みながら「せっかくだから懺悔でもしていく?」と敢えて明るく尋ねてみせる。
「……懺悔って、なにをですか……!」
「んー?例えば生前の行い……とか?」
くすりと笑ってみせた彼に、生前ひっそりと部屋で慰めた後……懺悔をしていたことを知られていたバツの悪さから抗議の視線を投げながら、「私に『夢の出来事だから、身を捧げる神様も許してくれるよ』って免罪符を与えたのは誰でしたっけ?」と頬を膨らませた。
「ふふっ、ごめんね意地悪言って。もう神に赦しを求める必要なんてないよ♡ ……だってキミの|主《﹅》はもう、神様じゃなくて俺なんだから。だから、父と子と聖霊の御名ではなくて、俺が俺の名によって……これまでもこれからも、ぜんぶのキミの罪を赦すよ♡」

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約束

2025/09/23


「……っ、千弘くん……!」
耐えきれなくて振り向いたとき、そこはもうワンダーランドではなかった。薄暗い路地にひとり、私はぽつんと立ち尽くすばかり。
……戻ってきてしまった。ハートの女王とアリスという役柄を被らざるを得なかったあの場では、|私《アリス》が|彼《女王》に全てを尋ねるほどの余裕が持てなかった。彼が言う『あの世とこの世の間』の世界、その世界を彼が女王として統治している意味も聞けないまま。《《またね》》と言う曖昧な約束だけを結んで、幼かったあの日のようにまたひとりで。
「……信じて、いいんだよね……?」
ワンダーランドに行く前、足を運んだはずのバーすらそこにはなく。問いかけに答えてくれる声も、ない。とぼとぼと自宅への道を進みながら、頭にこびりついて離れないのはただひとつ、どこか翳りのある表情で私を見送る、想い人の最後の表情だった。

◇◆◇

家に帰ってから気付いたのは、どうやらあちらの世界で過ごしたのと同じ日数がこちらでも経過しているということ。無事、仕事を無断欠勤した上、数日間連絡すら取れず無視したことになっていた私は、残業続きだったこともあり、そのまましばらく休養のために休暇を命じられた。
「……とは言っても、なぁ……」
今はまだ、自分の中の芯がぐにゃぐにゃで何もする気になれない。ただひたすら、楽しかった子どもの頃の記憶と、数日間の再会を忘れないようにリフレインし続ける。
「やくそく」
言葉にすると、どうしようもなく涙腺が緩む。これまで長い間、僅かな時間しか交流を持てなかった彼の、『迎えに行くね』の約束だけを支えに待ち続けて来られたと言うのに。目に見える、触れられるものが……私と彼の間には何もなかった。子どもの時分は、彼が自由になれる僅かな自習の時間を縫って遊んでいたから。今は、お互いの存在が遠くに行ってしまったから。写真すらない、幼い頃に交わした約束を|縁《よすが》に繋がった関係。たしかに夢と現の狭間で、もう一度大好きも愛してるも交わしたとは言え、千弘くんも私も、その先の関係を示す言葉は交わさなかった。この関係を、いったい何と表現すればいいのだろう。ともすれば夢の間に消えてしまいそうな記憶と約束だけが、私たちを繋ぐ縁だ。
こんなにも鮮明に、覚えているのに。彼の匂いも、体温も、柔らかな笑みも、女王ではなく千弘くんとしての表情も、私の名を……少し懐かしむように、確かめるように呼んでくれる声も、ぜんぶ。
「……私が、優しいなんてうそだよ……っ!」
無意識に最後にただひとつだけ、彼が残してくれた|想い《モノ》に縋るように下腹を撫でて、食い縛った歯の隙間から声を溢した。
——ああ、嗚呼。本当はずっと優しいのはあなたの方なのに。きっとあの日も明日には自分が居なくなることを知っていた。幼い私が寂しがったとき、上手に突き放すことができないから——自分の気持ちと、またねの約束を交わして。今度は、|ま《﹅》|だ《﹅》|死《﹅》|ん《﹅》|だ《﹅》|わ《﹅》|け《﹅》|じ《﹅》|ゃ《﹅》|な《﹅》|い《﹅》私を、自分の手で首を刎ねて死なせてしまうことができなくて。彼はずっと、自分のことを一番に置かずただ私のことだけを考えて最後の選択を決めてくれていた。
ずっとずっと、本当に優しいのは千弘くんだと言うのに……私のことを優しいと称す貴方は、きっとその優しさを弱さと狡さだと思っているのだろう。
「あ……ぁあ、あ……!」
喉奥から咆哮のように迸った激情は、行く先を失って部屋の中で霧散する。私が好きなぜんぶが、愛したすべてがどうにもならないほど遠くて、綺麗で。この手に収めておけないことを、今ほど悔やんだことはなかった。

……私はね、千弘くん。貴方が望んでくれたなら、この首を刎ねられることくらい、これっぽっちも怖いと思わなかったよ。千弘くんが苦しんでいる方が、辛かった。
幼い私が教えられるはずもなかっただろうけど、いつかまた逢えたら。ふん縛ってでも、愛されていい、求めていい、遠慮して話さず千弘くんひとりで傷ついて済ませようとするなら、その分私は自分で進んで同じだけの疵を作りに行ってやるんだって、伝えるから。
一緒に傷ついて、泣いて、そうして掴んでいく選択肢を、千弘くんが取ってもいいと思えるくらい強くなってみせるから。……だから、絶対に待っていてね。
私もきっと、この涙が枯れたら……また貴方が好きと言ってくれた笑顔で、しっかり立って生きていくから。今だけは、整理のつかない感情と寂しさに飲まれてしまうことを許してほしい。


◇◆◇

「ねえ、お母さんは幸せだった?」
「ふふ、|十《﹅》|分《﹅》幸せよ。愛する人の忘れ形見をずぅっと守りきったんだもの」

◇◆◇

ふと目を覚ますと、初めて見たはずなのによく知っている気がする光景、彼岸との境界線が目の前に広がっていた。思ったよりも荒れていない、穏やかな川面に視線を落とす。
「もう二度と、来れないんだと思ってたのにな。……いつの間に三途の川ってワンダーランドになったんですか、|女《﹅》|王《﹅》|様《﹅》?」
背後の気配に、そんな問いを投げる。困らせるのをわかっていて意地の悪い質問をしたのは、叶える気など最初からない優しすぎるウソへのほんの意趣返しだ。
「……今だけ、かな。アリスちゃんが逝くときに、俺も女王の仕事はおしまいって決めてたから」
バツの悪そうな声でそう言ってのけるヒトを、振り返ってようやく視界に入れた。けれど続くのは、再会を喜ぶ言葉ではない。
「……自分の首を、刎ねさせて?」
「…………うん」
気付いてたんだねとぽそりと溢された言葉に、黙って首肯する。ワンダーランドで女王直々に説明してくれたルールでは、『ワンダーランドに迷い込んだ者』のことしか触れていなかった。私のように|迷い込んだ《此岸》側の人間が〝ワンダーランドに縛り付けられる〟ならば。元々あの世界の住人であるはずの彼らはと考えれば、答えは自ずと絞られる。
久しぶりに見た彼の姿は、最後にワンダーランドで見送られた時と寸分違わずそこに在った。じゃり、と足元で不釣り合いな石が擦れる音が鳴る。老いた足腰には少々辛い不安定な足場を、立ち止まりもせず一心に進む。ジャッジャッと鳴る音と混ざって、隠しきれないほどの嗚咽が漏れるのも止められず。ぽかりと彼の鳩尾辺りを叩いた手には、まともに力を籠められなかった。
「ばか!千弘くんのばか!」
思った以上に自分の精神はあの頃のまま成長していなかったらしい。ようやく逢えたと言うのに、口を突いて出たのは寂寥でも歓喜でもなく、そんな幼稚な罵倒だった。
「……待ってた、ずっと待ってたんだよ!」
わあわあと、幼子のようにしゃくりあげる。後から後から頬を伝う熱が、凪いだはずの感情の湖面を波立たせた。ずっと見たかったはずの彼の顔も、滲んで見えない。何よりもこのぐしゃぐしゃの泣き顔も、皺だらけになった顔も見られたくはなくて……ただ、静かに私の慟哭を受け止める彼の胸元一点を朧な視界で捉えるしかなかった。
「……うん、ごめんね。約束、ただの一度も守れなかった」
ぽんぽんと宥めるように、呼吸を落ち着けさせるようにゆっくりやさしいリズムで頭を撫でる大きな手が、最後に触れた時の記憶よりも幾分か大きく感じて。記憶の曖昧さと、己の身がそれほど変わってしまったことをどこか冷静に思い知る。ぐずぐずと鼻を鳴らして、辿々しく言葉を紡いだ。
「ちがう……ちがうよ、約束は、守ってくれてるよ。確かに生きてる間じゃなかったかもしれないけど、いま、こうして会ってる。……それとも、千弘くんは迎えにきてくれたわけじゃ、なぁい?」
たしかに……すぐにじゃ、なかったけど。なんとかそこまで、途切れ途切れにではあるものの言葉にしてしまえば、もう後には戻れなくて。今こうして居てくれることが答えだと知りつつ、そんなわかりきったことを聞いた。居心地の悪さを誤魔化すように、彼の手を押しやる形で胸に頭を預ける。互いに鼓動の音はしない。互いに変わってしまったなと思う。
「ううん、そんなことないよ。……迎えに、来たんだ。遅くなっちゃったけど……約束、守れなくてごめん。正直、今もどうして会えてるのかわからない」
あの時俺は諦めて、生まれ変わったらまた会おう、その時はどんなことがあっても離さないって心に決めて見送ったんだ。困ったようにそう言った後、迷いながら伸ばした手を彼はそっと私の背中に回した。撫でているのか抱きしめているのかわからないような力加減で、数度背をなぞられる。自身でも答えを探すかのように、迷いを滲ませて。
「理屈は、なんだっていいよ。今こうして逢えたから、他はもうなんだっていい」
するりと零れた言葉に、自分の覚悟はとうに決まっていたことを今さらのように思い知る。手を伸ばして、その背中を抱きしめた。錯覚だろうか、最後に千弘くんと逢った頃に戻ったような気がするのは。言葉遣いも、心身ともに。あの日の覚悟が鮮明によみがえる。
「……離さないでいてくれるんでしょ?私は我儘だから、生まれ変わったらなんて待ってられない。この先が天国でも地獄でも、生まれ変わる前からこの先はずっと一緒にいてくれる?」
私だってもう二度と、離したりしないから。手を取って浅瀬に足を進める。なぜかはわからないけれど、この先も絶対に千弘くんと同じ場所で同じ道を一緒に歩いて行けるという自信が今はあるから。答えはもう、聞かなくてもいいかなとすら思えた。

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魔法にかけられて

2024/11/28


「ははっ、すっごい緩んだ顔で寝てんなー……ミユちゃん」
ついさっきまでは眠たげながらに一生懸命相槌を打っていた声が聞こえなくなって、ふと視線を下げると彼女はすっかり夢の中だった。すよすよと規則的な寝息を立てながら、緩んだ口元はむにゃむにゃと時折言葉になりきらない声を発して形を変える。
手を伸ばして、乱れて食んでしまいそうな髪を指先で摘まんで除ける。その動作の合間に思わず頬を撫でると、ミユちゃんは「うぅん」とちいさな声を上げて反応した。起こしてしまっただろうかと、僅かに息を詰めて身を固くしたものの……またすぐにミユちゃんはむにゃむにゃと夢の中で何事かを話し出した。それを見てふぅと詰めていた息を吐き出した。
「……あんだけはしゃいでたのに、夢の中でもまだプラニー回ってんのかな?かわいーなほんと。……夢の中でなにしてるんだろうな、俺たち。アトラクション乗ってんのかな?それともグリーティング?ミユちゃんのことだから、また俺にパレード見せたい!って思ってくれてんのもありそうだし……」
昼間のプラニーで頑としてでも荷物を持つことを譲らず、「これでも荷物減らしたんだよ!」となぜか誇らしげに胸を張って宣言していた彼女の言動を思い出して、ついくすくすと小さく笑みが零れる。あんな風に全力で誰かを、何かに熱中させる魅力があるというのはそれだけですげぇことだと思う。きらきらしたまっすぐな目で語られると、こんな風に夢中にさせるのはどんなものなんだろうと純粋に興味をそそられるし、同じ熱量とはいかなくても少しでも分かち合えたらいいなぁ……なんて思いもする。自分の好きなものを隠さず見せてくれようとするミユちゃんの想いは、なんとなく察しているつもりだ。
――それに、なによりも。そのまっすぐな目で見て、純粋で無垢で……ともすればお人好しがすぎるほど素直な彼女が。そんな風に入れあげるものを体感する、その瞬間その隣に俺にいてほしいと想ってくれたその事実に無性に胸の奥底がくすぐったい気持ちになるのだ。
「……そんな風に想わせてくれるの、ミユちゃんだけなんだぞ?」
自信がない、なんて落ち込むこともある彼女の不安に、正しく寄り添えてるかは正直わからない。でも、その分こうして恋しく思っている気持ちが伝わっていたらいいなと思う。彼女はあまりにも、一挙手一投足で好きだと伝えてくれるから。拙くてもいい、すぐには伝わらない不器用な伝え方かもしれねぇけど……まっすぐに俺を見てくれる、ミユちゃんにならきっと伝わるだろうと思えるから。
「こんな風に、胸の奥が燻ぶられるような想いを感じるの……あんたのことだけでなんだからな?」
すりすりと何度もその肌を撫で、目を細めて見つめながらそうちいさく独り言ちる。じわじわと気恥ずかしさから頬が、耳が、熱い気がするのからは目を逸らして。
彼女といると、いい大人でいてやりたいのに自分の中の子どものまま……幼い感情や欲求が、つい顔を出しそうになる。それを彼女は嫌がらず、むしろいいことだよと喜んで破顔してくれるけど。今までそうして取り繕ってきた〝朱防柚琉〟の仮面が全部剝がれてしまったら――そう考えたら、恐怖心もあるのは否定しようのない事実だった。
「……それでもミユちゃんは、今と変わらずキラキラした目で俺を見て……迷ったりせず、それが普通だってカオして隣に居てくれるんだろうな」
こんなにも、『俺』という人間を一人の人間としてただありのまままっすぐ見つめて愛してくれる人だから。愛されてる、なんて自信だけは強くなってしまった。
「ああもう、本当に。ミユちゃんのせいなんだからな?分かってんのかー……?」
起こしたくなくて、ずっとやんわりと肌に髪に触れるだけでいたけれど。うまく言葉にできない感情が胸いっぱいになって、そんな風に溢してぎゅうと抱き込めるように恋人の身体を掻き抱く。ふわりと漂ってきた、嗅ぎ慣れた彼女の香りがして……ああ、ここが俺の居場所だとそんなことを思いながら、艶やかな髪に頬擦りするようにして顔を寄せる。
「ふふ~……今日も楽しもうねぇ、ゆずるくん……♡」
寝惚けているのか、はたまた夢の中では起きてパークに入るところなのだろうか。ふと、腕の中からそんな声が聞こえてきた。予想外のことに、一瞬面食らって大きく目を見開いてぱちぱちと瞬いた。次の瞬間、堪えきれなかった笑みが空気と一緒に零れていく。
「ふく……っ、はは……すげー楽しみにしてくれてんじゃんミユちゃん♡はー、びっくりしすぎて笑っちまった。……起こしてねぇよな?」
顔を覗き込むように体勢を変えれば、そこには夢を見て満足そうな顔をしている恋人がいた。
閉じられた目蓋の奥、大きな瞳をきらきらと輝かせている様子がありありと浮かぶほどに――満足げで、楽しそうで……邪気のない笑みが浮かんだ表情の彼女だ。
「よかった、せっかく安心して眠ってくれてんのに起こしちまうとこだった」
ごめんな?と心の中でだけ唱えて、そっと額に唇を寄せる。眠っている間でも、きっとこのくらいは許してくれるだろう。あんまりやりすぎると、また起こしてしまいかねないから……ほんの僅か、一瞬だけ触れた肌から体温が感じられる程度の口づけ。ただそれだけで俺を魔法みたいに引き込んでくれる、大好きで大切な温もり。
「……ミユちゃん、ふたりで明日もめいっぱい楽しもうな♪」
張り切っているであろう彼女の前で、疲れたり心配させたりしたくはないから。俺ももうそろそろ寝顔を眺めてないで寝るか――そう思って、目を閉じようとしたときだった。
「……ゅずるく……今日も、まほう……」
ほとんど吐息だけで溢された彼女からのお願いは、毎朝俺が……俺だけがミユちゃんにかけていい魔法を強請るそれで。反射的に息を吸い込んで、その音で喉がひゅうと音を立てた。どくどくと、全身を駆け巡る血流の音がやけにうるさい。静かな部屋で、俺の潜めた息の音だけが反響している。
「……なあ、ミユちゃん?」
震える声でそう呼び掛けて、ゆっくりと手を伸ばす。触れたら起こしてしまうかもしれない。……けれど、今は無性にその輝く夜空のような瞳でまっすぐに俺を見上げてほしい気もして。
「あんたは、俺を〝魔法使い〟だって言ってくれるけど……」
すり、と。指先で、シャドウを塗るときのようにやさしく目蓋に触れて――撫ぜる。早く早くと急いてしまう気持ちを抑えて、努めて冷静に。
「俺からしたら、あんたが魔法使いだよ。……俺を、魔法使いにさせてくれる。たった一人の女の子なんだから」
その瞳に俺だけを映して、笑いかけていてほしい。世界一かわいくて、世界一愛おしいヒト。
知ってるか?魔法使いは、ただいるだけじゃ魔法使いになれないんだ。自分一人だけじゃ、魔法使いだなんて証明はできないから。魔法にかかって、それを受け止めて……魔法だね、って言ってくれるお姫様がいないと、さ。
童話でだってそうだろ?――物語は、そこから始まるんだから。

「だから。……俺を魔法使いで王子様にしてくれたミユちゃんも、俺にとっては大魔法使いなんだよ」

照れ臭くて言えないけど、いつか。いつか、そんな風に想ってるんだってことも起きてるときにちゃんと伝えられたらいいなと考えながら。高揚して熱くなった吐息を吐いて、俺もそっと目を閉じた。

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至上の幸福

2024/12/07


「だめだなぁ、落ち着かなくてそわそわしちゃう……」
面会時間を終えて戻ってきた自宅に着いて早々、苦笑いとともに思わずそう溢した。
いつか家族が増えたときのために、と選んだ広めのリビングのお部屋はひとりでいると伽藍堂としていてなんだか切なさを増してしまう。
「えぇっと、入院セットは今日持って行ったし……あとは赤ちゃんが落ち着いて来たらサイズ見ておむつとか買っておかなきゃいけないくらいかな?」
ふるふると小さく|頭《かぶり》を振って、思考を切り替える。事前におおよそ買い揃えておいたおかげで、新しく購入しなければいけないものはそう多くはなかった。きっちり整えて置いてある赤ちゃん用品の並んだリビングを見つめて、思わず目を細める。
「本当に、本当に……可愛かったなぁ、俺たちの子ども……」
あの子がくれた幸せは途方もなくて、本気で何度伝えても足りないけれど。それを彼女はなんて事のないように言って、いつも穏やかに笑んでは自分が千弘さんにもらってるのと同じものを、自分に返せるぜんぶで返したいと思ってるだけなんですよと言ってくれる。
……そんなわけ、ないのにね。男優の職だって、俺のやりたいことだった。天職だと今でも思っているし、自分の選んだそれを間違いだとは思っていない。けれど、結婚式の前に父さんが彼女に問うたように……やっぱり世間一般では受け入れがたいものではあるし、そんな相手と結婚したいと思ってくれる人なんて稀だなんてことは誰よりも俺がよく知っている。
だって、何度も言われて来たんだもの。この人とはいい作品が作れるかもしれないと、勝手に戦友のように思った同業者からですら——何度も。
『|そ《﹅》|ん《﹅》|な《﹅》|仕《﹅》|事《﹅》辞めて、私だけを見てよ』……って。
俺の夢は誰にも受け入れられずに踏み躙られ続けて、俺自身ですら自暴自棄になっていた。それを彼女は真正面から受け止めて、『|AV男優《チヒロ》』としてではなく、ただありのまま『|一人の人間《高嶺千弘》』として見てくれた。何度そこに感謝を告げても、困ったように笑って答える彼女の答えはいつも変わらない。「私が知り合った時から千弘さんはチヒロでもあって、それが普通で……だから、私が好きな〝|千弘さん《高嶺千弘》〟にはその両方を含んでた。ただ、それだけなんですよ?」と。キミがいとも簡単にそう言ってくれた、俺が見て欲しかった俺を見てくれたのは——ただキミひとりだって言うのにね。
俺が望んだ普通とあの子にとっての普通は、実際にはすごくすごく……思っても見ないほどの高さのハードルだったのに。事もなげにそう言って、それに私はその熱意に感銘して胸を撃たれたファンでもありますから♡と笑ってくれた彼女のおかげで、俺は俺らしく自信を持って笑っていられた。きっとこれは何度伝えたところであの子に伝わらない。俺にとっては奇跡を掴んだ幸福で……その先ずぅっと幸福で満たしてくれた彼女に何倍にして返そうと、俺の心の底からの喜びも幸せも感謝も、ただのひとつも足りやしないのに。今日もまた、あの子はずっと俺が諦めていたひとつの幸福を与えてくれて……それでいて何故か、俺に感謝を伝えて笑うのだ。その言葉に俺が何度救われて、彼女もまた幸せでいてくれているんだと安堵しているかも知らないまま。
「……っといけない、感慨に耽ってないで俺も家のことやっちゃわないとね」
急な陣痛で慌ただしく家を後にして、そのまま忙しない一日になってしまったせいでまだ食卓にはマグカップが置かれたままになっている。俺の大事な大事な家族が帰ってくる家が、ふたりが帰ってくる前に荒れるなんてあってはならないことだもの。
「俺もパパにならなきゃいけないんだもん、感慨にばっかり耽ってる余裕はないなぁ……」
小さく笑って、そうひとりごちた。


◇◆◇

家のことを済ませ、寝支度を終えてそれでも浮ついたままの心でぼんやりとコップを片手にソファに座り込んでいると携帯が小さく鳴った。
久遠ちゃんかな、と思い通知に急いで目を落とすと彼女ではなく岡持っちゃんからの連絡だった。会社で何かあっただろうかとメッセージを開くと、そこには「お時間大丈夫ですか?」と言う岡持っちゃんらしい内容だけが送られて来ている。平気だよと返すと、ものの数十秒もしない間に電話が鳴った。
「岡持っちゃん、どうかした?」
「……はぁ、何言ってるんですかあんた。ああいやすみません、小言を言うために電話掛けたんじゃないんで……。改めて、お子さんのご誕生……おめでとうございます、チヒロさん」
開口一番のため息の後に、やや区切るようにして間を置いた後で電話口の彼はそう言った。
「あ、そっちかぁ。ありがとう……岡持っちゃん。と言っても俺はずっと傍に居ただけで、なんにもしてないんだけどね」
また落ち着いて会えるようになったら、それは俺の奥さんに伝えてあげてと笑うと向こうから「またこれですか……」と言う声が聞こえてくる。
「うん?」
「あんたそのクセやめた方がいいですよ、本当に」
「えぇ、お小言は言うのやめたんじゃなかったの?岡持っちゃん」
「そのつもりでしたけど、自分で頑張ってないって言うなら平気でしょう別に」
「あはは、さすがうちの統括マネージャーは手厳しい」
笑ってそう答えると、岡持っちゃんからの返答が少し途切れる。彼のことだから眉間に皺を寄せたまま、やれやれと肩を竦めているんだろうなとその様子を思い浮かべて、俺も口の端に苦笑を浮かべながらコップの中のぬるくなったお茶を口に含んだ。
「……チヒロさん、前に里桜音さんに刺されたときのこと覚えてますよね?」
薮から棒の質問に、ほんの少し面食らう。なにしろそれは、俺が彼女と付き合い出して間もない頃の話だった。
「……覚えてるよ。でもなんで何年も前のことを今になって急に?」
めでたい日に聞きたい名前かと言われると、さすがの俺でも即答はできない相手だから。俺の事を好いて、俺に夢見て『こんな仕事』と言ってきたコのうちのひとり。まだ短期マネージャーだった久遠ちゃんにも怒られて、俺にも拒絶されて……逃げるように業界を辞めたまま、俺の前に現れて、刺して行ったり式にまで乗り込んできた子でもある。最終的には彼女のことも認めてくれたみたいだから、今でこそ嫌悪感を強く抱くような相手ではないけれど……思わず、刺された腹部をすりと服の上から手で撫でる。
「刺されたとき、久遠さんに手を握ってて欲しいって頼んだのあんたでしょう。それはなんででした?」
「…………発作が出て、刺された傷も痛くてパニックで。それでも彼女が、久遠ちゃんが手を握っててくれたら安心できたから……かな」
「久遠さんも同じなんですよ。出産なんて初めての経験で、不安がないわけないでしょう。確率が低いとは言え、今でも亡くなる方だっているんですから。……そんな時に手を握ってくれて安心できる相手が、久遠さんにとってはチヒロさんだからですよ。いい加減、似た者夫婦の自覚あるならその辺もわかってあげてください」
岡持っちゃんの口から出てきた思わぬ言葉に、頭を殴られたような感覚がした。いっそ、酩酊したような眩暈すら覚える。
「……っ、ああ……うん。そっかぁ、そう……なんだ……」
「……どうせ久遠さんからも謙遜してちょっと困られたんでしょう、チヒロさん」
ぐしゃぐしゃと下ろしたままの髪を掻き混ぜながら、思わず笑う。
「岡持っちゃんはよく見てるねぇ」
「何年あんたたちと一緒に居ると思ってるんですか。統括マネージャーを舐めてもらっちゃ困りますね」
「舐めたつもりはないんだけどなー、育休くれた辺りも俺のことよくわかってるなぁと思ってるし」
「普段は似た者夫婦の自覚あるのに、そういうところは自覚ないんですね。……何年も見てるこっちからすると、嫌になるくらい似てますよ。チヒロさんたち夫婦」
お人よしで自分以外にやさしいところまでそっくりですから、と小さく呆れるように嘆息しながら岡持っちゃんがそう言った。相手の力になんてなれてないのかもしれないと思いつつ、それでもできる精一杯をしたくて。どんな瞬間でも分け合っていたくて。
「……あーあ、岡持っちゃんのせいで俺今日寝られないかも」
笑って戯けるようにそう言いながら、空になったマグカップを手にソファから立ち上がる。
「……今日くらいは、まあどんな話だろうと付き合いますよ。俺も明日は休みですから」
うちの社長夫妻のめでたい日なんで、特別にと強気に電話口で笑って告げる声に目を丸くして瞬きを繰り返す。なんだかんだでこうして甘やかしてくれる辺り、岡持っちゃんも昔から全然変わってないよなぁと思う。ずっと俺の味方で居てくれた、稀有な存在。
「ほんとに?」
「いつも言ってるでしょう、久遠さんと俺くらいなんですよ。チヒロさんのこと支えてやれる相手なんて」
……まあ俺は未だに『何言ってるんだこの人』と思う機会も多いですけどねと、最後に変わらずほんの少しだけ手厳しいことを言い置いて、岡持っちゃんは言葉を切った。
「……チヒロさんが、誰よりも一番よく知ってるでしょう。あの人の言葉が全部本心で、他意なくそう想ってるんだってまっすぐなのは」
「うん……知ってる。その言葉にずっと救われ続けたんだもの、俺。今日だってずっと一番大変なのはあの子なのに、俺にありがとうって笑うんだもの」
言葉と一緒に吐いた息は、先ほどまでより僅かに熱い。
出産の時のことを思い起こすだけで、じんわりと胸の奥が熱くなって、涙腺が緩んでしまうのを感じた。額に汗を浮かべながら、苦しげに歪む彼女の背を必死にさすって声を掛ける間、今まで何度も繋いで握り締めたどの手よりも、よほど強く俺の手を握った彼女の手の感触も、小さな小さな手が——思った以上に強い力で、頬に触れた俺の指先を握ってくれたその感触もまだ、この手に色濃く残っていて。固唾を飲んで見守るしか出来ずにいた俺の前で、やっぱり強くてやさしいあの子はこんなにも大変で気高くて尊い、命を産むという一大事を終えた後ですら額に張り付いた髪をそのままに、ふにゃりと双眸を崩して「千弘さんがついて励ましてくれたから頑張りきれたんですよ」と笑っていた。
「本当に、敵わないなぁ……」
押し留めたはずの涙がじわりと滲んで、声も震える。ずっと無言でいた俺の発する言葉を、電話口で黙って聞いていてくれた大事な仲間は、声を緩めて笑っている。
「よかったですね、本当に」
恐怖も苦しみも孤独も飲み込んで、それでも頑張り続けたあなたを知ってるからこそ思います、と。彼は聞き取るのがやっとの声量でそう言って笑う。
「チヒロさんが幸せそうなの、ムカつきますけど従業員一同嬉しく想ってますよ。……心から」
うちの事務所であんたの女性恐怖症を知ってる人はみんな、彼女と付き合い出してからのあんたがずっと心の奥底から笑えてることに安堵してましたから。そう告げられて、いつだったかに馴染みの監督に言われた言葉を思い出した。
『チヒロちゃん、最近魅力に磨きがかかったんじゃない?また撮らせてよ、チヒロちゃんで撮りたい作品がいっぱいあるんだからさ!』
あれはいつだっただろうか。彼女と交際を始めて、同時にいつかは手放さなきゃいけない幸せかもしれないと覚悟もした。そのうち手放したくない存在だと自覚して……勇気を出して『永遠』なんて想いを言葉にしたら、本当に嬉しそうに破顔してあの子が事もなさげに『はい、ずっと!』って笑って返事をしてくれた後だったような気がする。
「ありがとね、岡持っちゃん。育休から戻ったら、俺も前まで以上に働いてみせるから」
「やる気は嬉しいですけどいいんですよ、あんたがいなくても|メイトプロ《うちの事務所》は潰させないんで。今はしっかり久遠さんのサポートして、我が子の成長をその目で見て楽しんでください。……復帰されたときは、その話を楽しみにしてますんで」
「なんだかその言い方されると、俺って結構事務所でも甘やかされてた?」
「自覚なかったんですか、チヒロさん?……あんたが現役の間、ずっと屋台骨でいた事務所ですよ。少なくとも、裏方の人間であんたのこと嫌いな人なんていませんし、みんなチヒロさんのためならって率先して動くようなお人好しばっかですよ、今の|会社《ウチ》は」
「……じゃあ、俺が明日寝不足の顔してあの子のとこに行ったら、怒るのは久遠ちゃんだけじゃなさそうだなぁ〜」
小さく笑って、そんな軽口を叩く。ふむと電話の向こうで頷いた彼は、そうですねと応じてからあっけらかんとこう言った。
「……というわけで前言撤回します、チヒロさんはこれ以上夜更かしせずにさっさと寝てください。では」
本当におめでとうございますと、最後にもう一度だけそう言い残して電話は切れた。
「あはは、岡持っちゃんらしいなぁ…!ありがとね、ほんとに」
そう呟いて、俺も後片付けを済ませようとキッチンへ向かった。そのまま手早く寝支度も終えて、夫婦の寝室へと向かう。
布団を剥いで潜り込んだベッドの上で、隣の空間の広さに改めて目を瞬く。
彼女がいない自室のベッドなんて、何年ぶりだろう。俺が仕事で家を空けることはあっても、彼女が家を空けることはなかった。それに結婚を機に引っ越してきたこの家では、本当に初めての経験かもしれない。いつもそこにある温もりがなくて、寂しいはずなのに——その寂しさよりもよほど大きな幸福感が、暖かく胸を占めている。
「ああ、そうだ……俺たちの子どもの名前」
この胸の暖かさが、喜びと祈りが赤ちゃんにも届くような名前にしたい。
ふたりで考えた候補の名前を思い浮かべては、字にもその願いを込められるようにと考える。名前は人生で最初の贈り物だから、慎重に。
そんなことを繰り返すうちに眠りについた日の夢は、とても暖かなものだった。

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やきもち

2023/07/29


「でな~、そン時にー……ってうお!?」
背後から抱き込むように話していると、突然ピリリとけたたましい音が鳴り響く。驚いて音のする方に視線をやると、ソファの座面に放り出されたままのしおんのスマホがアラームを鳴らしていた。
「ヤバ、もうそんな時間……!?」
焦ったような声を上げる彼女の様子に、思わず眉を寄せる。背後から抱き込むようにして座っていた姿勢から、顔を覗き込むようにして視線を合わせて口火を切るように尋ねた。
「なんや、なんのアラーム?」
この時間帯は俺の出演する番組があるでもない。特に予定があるとも聞いていなくて、自分でも思った以上に不満げな声が出た。
「ごめん煌雅くん、ちょっとタイム!今から十分くらいだけ集中さしてな」
「……え、いやまァ別にかめへんけど……なんで?」
恐らく、訝しんでいるように見えたのだろう。するりと猫のように身体を伸ばして鳴りっぱなしの携帯を手に取りながら、彼女がそんな風に言う。非常に申し訳なさそうな表情で。
構わないと返事をしつつも、突然のことに思考が追い付かずぱちくりと瞬きを数度繰り返す。
――しかし、返事は返ってこない。手にした携帯のアラームを止めた後、そのまましおんは携帯を操作して手慣れた様子でブラウザを開いてページを進んでいく。ついでに気合いを入れるためか、手近にあったワニクリップ型のヘアクリップで髪を纏める程の真剣さだ。
とりあえず元通りの位置に収まってくれたからヨシとするか……と思いつつも、動向が気になって頭上からちらりと次々と開かれていくページの行方を目で追った。互いに無言になった室内に、かけっぱなしのバラエティ番組のガヤだけが響く。
「は?ちょい待ち……その写真、こないだバズってえらい人気出たコンビの……!」
「あ、もう煌雅くん画面見たやろ!?そー、バズる前から決まってた単独やから箱のキャパ小さくて……。激戦必須なんよ今回……」
見たことのあるロゴを目にして思わず声が出てしまい、剣呑な表情をした彼女がこちらを振り仰ぐ。見間違いようのないそれは、先日ショート動画がバズって爆発的に人気の出たとあるコンビの単独ライブロゴだった。同じくらい……とは言わないが、ここ数週間でテレビ出演本数もめちゃくちゃに増えたばかりの若手芸人である。
「いやこの体勢やし嫌でも目に入ってまうねんから、しゃーないやろ!ちゅーかなんでや!|チゲコロ《俺ら》のこと捨てる気なん!?」
「アホ!そんなワケないやろ……ってああ、アカン待って……時間ないから詳しくはあとで話す!」
スヌーズが鳴ると〝待て〟を示すように掌をこちらにかざして見せたしおんは、すぐに顔をスマホに向けてしまった。ぐ……っ、と言葉に詰まるしかなくなった俺は手持ち無沙汰なまま彼女の肩にぼすりと顔を伏せた。一種の抗議である。
「ちょ、もう~煌雅くん……ええけどそのままじっとしててよ……?もうちょいで単独ライブのチケット販売開始なんやから」
「やっぱライブ行く気なんやん!浮気やろ浮気、おーちゃん悲しぃて泣いてまうけど!?」
唇を突き出して拗ねのポーズを作ってみるものの、しおんは「はいはい」と軽くあしらうだけでこちらに視線すら向けてくれなかった。その上、無感情に「後でよしよしして慰めたろ」と他人事だ。……いやなんでやねん!
「はー……ログインは終わってるしページも大丈夫やろ。一分前やしそろそろ時報チェックして、十秒前になったらページ戻ってリロらんと……」
そんなことを呟きながら、別タブで開いた時報ページに移ってひたすら時計と睨めっこを続けている。おもろないな……と肩に顎を乗せたまま、真剣な彼女の横でじとりと時報を睨み付ける。
時間まで残り十五秒を切った時間表示を眺めて、おもろないな……と内心でぶすくれつつぼんやりと『俺らの出てたライブに来た時もこないしてチケット取ってたんかな』などと考えた。まあかなりの前方席でライブ見てくれてたし?お笑いが好きなんも知ってはいる。
そこまで考えて、「いややっぱあかんやろ」とはたと我に返った。……俺がそうであったように。こんだけ目惹く容姿してんねんから、いらん虫が寄ってくんのとちゃう?
そう考え出したらむくむくと不満が膨れ上がって、完全に思考が嫉妬心で占領されていく。そもそも俺とおる時間に例え十分だろうと別のヤツらのこと考えてるんがもう納得いかんけど……!?
「よっし、リロるタイミングばっちり!これはイケ……ひゃあッ!?」
時間とほぼ同時、しおんがページをリロードするタイミングに合わせるようにして無防備に晒された首筋に舌を這わせると、上擦った声が聞こえてきた。れる、とわざとゆっくりと舐め上げてやるとびくっと大きく跳ねたその手からスマートフォンがごとりと床に落ちる。
「ッ、こらおーがくん……っ!ほんまに今はあかん、って……!」
「いーや、俺もう十分ちゃあんとガマンしたし?これ以上は待てって言われてへんはずやけどなー♡」
携帯を拾おうともがく恋人の腹部にぎゅうと手を回す。体格差のある以上、そう簡単に抜け出せないのをわかっていて敢えて拘束した。不満と拗ねと、俺らの力関係の再確認も兼ねて。
「だ、から……十分《《くらい》》ってちゃんと言ったやん……っ!」
「他の事やったらガマンできたんやけどなー、やっぱ目の前でそない真剣なカオして他のコンビのライブチケ取ろうとされたら……アカンかったわ」
抵抗を示す彼女の身体を片腕と両足で拘束して、もう一方の手で顎を掴む。
「堪忍な♡」
そう言って開いたままの唇に舌を捻じ込んで、逃げるちいさな舌を絡め取った。後はもう、ただいつも通りに咥内を撫で上げ混ざった唾液を嚥下させる。
「っふ……ン、んん〰〰ッ♡」
徐々に抵抗の力が弱まっていくのを確認しながら、二度三度と角度を変えてそれを繰り返す。完全に力が弱まったところで口を離すと、肩で息をしたしおんが真っ赤になった顔でこちらを睨んでいた。そうは言っても、すっかり潤んだ瞳で睨み付けられたところで怖くはない……というか、煽るだけなんをいい加減覚えてほしいもんやけど。
何かを言いたげではあったものの、大人しく床に落ちた携帯を拾い上げて諦め悪くリロードをした画面に表示されたのは〝SOLD OUT〟の文字。
「ああ゛ー!もうッ!」
その文字を見た途端、彼女が悲痛な声を上げる。……そんな悔しがるくらいあのコンビにお熱なん?と、じわりとまた不満の炎が燻り出したところに携帯を放り投げながら彼女がこちらを向いた。その目は先ほどまでとは違い、完全に怒っている。
「煌雅くんッ!私のことライブにおったん覚えてるんやったら、友達と見に行ってたんも覚えてるよね!?」
「……え?藪から棒になに……!?あー、友達?たしかになんや仲良さそうな子とおったな……?」
「今の!チケットは!その友達の分!!『元々割と見てたコンビやったんやけど、今回激戦そうやしチケ取り手伝って~』って言われたの!!」
「……は、え?ちゅーことはあれか、別にあれしおんが観に行くライブやなかった……ってことか!?」
「そういうこと!だから浮気とかちゃうって言うたやん、煌雅くんのアホ〰〰〰!!」
むぎゅうと思いきり鼻を摘ままれて、思わず目を瞑った。
「い、痛い痛い……!しおんごめんて……!それはさすがに俺が悪かったから謝るから、な……?!許して、ちょ……っ!しおん、しおんちゃーん!?」
言い募るごとにぎゅうぎゅうと強くなる力に思わず「いでで」と声を上げ、ついでに両手も上げて降伏を宣言する。
「なによりも普段からちゃんとずっと傍におる、って言うてるの信じてもらえへんかったのが傷つくねんけど……!」
「ごめ……っ、すまんしおん……!信じてへんかったワケちゃうねんて、ただの嫉妬やから許して……!?そろそろ息苦しい……」
言葉に反応してか、ぱっと突然離された鼻から流れ込んだ空気に反射的に噎せながら。ちら、としおんを一瞥するも案の定そこには頬を膨らませて全身で『不満です!』を表した彼女がいた。
普段はころころ変わる表情で、弾むような笑顔を浮かべていることの多い彼女の見せる久々の〝怒り〟の表情は。それはもう冷たく鋭く、不穏なものですらあった。
「……あー……今回はほんまにごめん……。しおんさん、あの……ちゃんと謝るからこっち向いて……?」
――その後しばらく、ご機嫌取りに奔走したのは言うまでもない。

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胸中

2023/06/04


座ったまま、昏い夜の帳を窓から見上げてひとつ息を吐くような仕草をする。〝仕草〟なのは、俺が死人で|僵尸《キョンシー》だからだ。呼吸もない……というより、生命活動の一切合切がないのだから『それらしいポーズ』を取ることができるというだけに過ぎない。
「……よぉ眠ってるわ、ホンマ。無防備やなぁ……」
寝台の上ですやすやと穏やかな寝息を立てて眠りこける契約主の顔をチラと一瞥して、吐息と変わらないほどの声でそう零す。じわりと身体の奥で感じられる、繋がったばかりの|法力の導線《パス》を意識するように、ふと息を吐いて目を細めた。
血の循環しない肉体は、すでに先ほどまでの熱を失い冷え始めている。けれど。僵尸になってからもそれなりの年数の経過した俺の第二の人生でも初めて、あんなにも血に熱が通う感覚を覚えたせいか、ふわふわと気持ちが浮ついたままになっているのを自分でも感じた。
から、と小さく窓を開けると新月の夜の冷たく冷えた風が体表を撫でていく。揺蕩うような心地から僅かに目が醒めるようで、眠れもしないのにその肌を刺す冷気の心地良さに、身を任せるように目を閉じた。さわさわと小さく擦れる梢の音だけが、暗がりから時折響く。道士様の代役として見初めた彼女は、今日の騒動のせいか先ほどから身動ぎもせず寝入り続けていた。寝入るまではと頭を撫でていた手を除けると、指先に髪が数本絡む。しばらく名残惜しむようにその残滓を指先で弄んで、ついと滑らせるように指を離した。
彼女の身体の中では今、目まぐるしく変化が起こっている最中だろう。俺との間に繋いだ法力の道を、身体に馴染ませるためだ。これまで法術とも縁遠く、自分に法力があることすら知らなかったしおんからすれば、それはあまりに大きな変化だろう。トラブルで帰国できなくなったかと思えば命を狙われ、自分の身を守るためとは言え僵尸に身体を捧げ……とくれば、自覚がなくとも疲労は色濃いだろうと言うのも想像に難くない。
(ま、不死者になるか性交渉するか……|実《﹅》|質《﹅》|一《﹅》|択《﹅》の問いを迫ったんも俺なんやけど……)
彼女といると、なぜかひどく懐かしい気持ちになるのだ。俺の創造主たるこの国至宝の法術師でもある道士様と、法力の波長が近いせいもあるのだろう。最初に目覚めた時、俺は道士様が目覚めて会いに来てくれたのだとまるで疑わなかった。それほどにふたりの波長は近い。防腐処理ほかをはじめ、この身体の隅々まで道士様の法術で処理が施された俺自身が言うのだから、間違いようがないほどに。
懐かしい気持ちと、寂しさが同時に込み上げる。しんと静寂に包まれた、夜半の動植物も眠るこの時間帯は、ひどくうら寂しい気分になるのだなと口端に自嘲気味の笑みを浮かべた。この場所が、道士様が生きていた頃使っていた屋敷だというせいもあるかもしれないが。長年、俺は彼女が年老いてその命を終えるまで、この肉体に固着化された魂がゆえに自我を持ち、一番近くでその生涯を見守ってきたのだ。彼女がその生涯を閉じる際、眠りにつくことを命じられてから実に三百年以上振りに目が覚めて、ようやく再会が叶うと思ったら……その夢は瞬く間に霧散してしまった。新たに身体に流れる法力は、もうすっかり馴染んで道士様の残した術のそれらと差異がない。
「よっと……」
腰を上げると、その辺に放ったままになっていた|長袍《チャンパオ》に袖を通す。もう一度振り返って彼女が寝ているのを確認すると、すと戸を閉めて外に出た。幾つかの回廊を移動して庭に出る。朝になって陽が登れば、また行動が制限されてしまう。その前に彼女が起きて食べるものを調達しておこうと思ったのだ。
夜半の外気は冷たいが、生きた人間ではない身体にはなんてことのない温度だった。ただ、離れていても繋がりを感じさせる道だけがじわりと身体の奥底で温かい。まだ数刻ほどしか共にしていない相手に対してこんなことを思うのもおかしいかもしれないが、ひとりでいるこの時間がこれほどまでに苦しくて、温度を感じられないことがこんなにも寂しくて、それだけで想いを自覚するには十分だった。俺が不死者になってからの時間は決して短くない。道士様にどこか寂しく、痛みを堪えるような目で俺を見られたときにも……こんな感情を抱いたことがある。けれど彼女は俺に対して何を語ることもなかったし、俺も僵尸になる前の記憶を持っていなかったから……必要以上の接触を避けていた。聞いておけばなにか変わったのだろうか、とも思うが今さらもう遅い。三百年以上経過して、道士様はまだ輪廻を終えていないのだろうか。あと何年、何十年……俺はひとりで師の帰りを待つのだろう。
「さっすがに劣化防止その他諸々の術が何重にも施されてるにしても、家の中にあるもんは食べる気にならんよなぁ……」
気持ちを入れ替えるように周囲をぐるりと見回して、そんなことを考える。そうなると自ずと彼女のために準備が出来そうなものは、庭に自生している桃だけになってしまった。年中何かしらの果実が実を結ぶように設計されてはいるのだが、しおんはこの国の人間ですらない。時代も大きく変わっているにしても、桃なら『不老長寿の実』として有名で縁起も良いだろう。邪気を祓う果実としても知られている。であれば、昨日の散々な状況もきっと好転するはずだ。偶然居合わせて助けただけの行きずりの関係ではなく、今の俺と彼女の関係は少なくとも契約上は『道士と専属僵尸』なのだから。

◇ ◆ ◇

微かな布擦れが聞こえて、音の方へ目をやる。のそのそと寝台の上で身体を起こしたしおんが、まだ眠たげな眼を擦っていた。ゆるゆるとした動きで、不思議そうな顔で周囲を見回っている。ゆっくりと部屋を一周見回したところで、ようやく俺に気が付いたらしい。その目が僅かに開かれて、光が灯る。
「……煌雅、くん」
寝起きでほんの少し、掠れて低くなった声で名を呼ばれる。「ん」と一言応じてそちらへ歩を進めると、彼女は緩みきった表情でひとつちいさく欠伸をした。すいと寝台の傍にしゃがみ込むと、まだ視点の定まり切らない朧な視線がこちらを向く。
「おはようさん、よう眠れたみたいやな」
「ん……おはよ、今何時……?」
「まだ九時ちょっと前やで、どうせ行動は夜やし気にせんとき」
頭を軽く撫でてやると、猫のように目を細める。掌の下でさらりと手触りの良い髪が揺れた。ほんまに素直な猫みたいやなぁと思うと、思わず笑いがこみ上げてくる。喉奥で笑いを噛み殺して、頭上に置いたその手をそのまま腹部へと滑らせた。すり、と肌の上をなぞると身体がぴくりと震える。
「……どや?まだ違和感あるか?」
「っ、ん……ううん、もう平気……」
「よしよし、ほな湯浴みでもしに行こか。昨日あのまんま寝たし、身体気持ち悪いやろ」
おいでと手を差し出すと、ちいさな手が俺の手を掴む。繋がれた手のひらから伝わる体温にじわりと身体の奥底が熱くなるような感覚がした。ただ人恋しいのとは違う、身体が渇望する想い。それが込み上がってはもう巡るはずのない血液に熱を通していく。死した身体にも関わらず、生前と変わりなく熱が燻っていくのが分かる。
膝裏に手を入れてひょいとその身体を抱え上げる。やはりその身体は昨晩と変わらず軽く、温かかった。
「ひゃっ、わ……っ!?ちょ、煌雅くん下ろして……!」
「下ろしたところで、しおんどこが風呂かも知らんやろ。三百年前のまんまやし、説明もなしに放り込まれて分かるって言えるか?」
「ぐっ……。うぅ、分かりません……」
「ふは、せやろ?ほな大人しくしとき♡」
すたすたと足早に浴室へ向かって歩いていく。庭に面した廊下へ出ると、彼女が素っ頓狂な声を上げて思いきりしがみついてきた。改築された道士様の屋敷は、俺たち僵尸でも自由に行動できるよう、日光が差し込まないように設計されているのだ。
「お、煌雅くん……!外!ここ外!!」
「ん~?俺昨日言わんかったっけ、ここ劣化防止だけやのうて隠匿魔除け認識阻害侵入防止その他もろもろの術が何重にもかけられてんねん。せやから道士様と同格かそれ以上の術師でもなかったらそもそも認識できんし、認識できたとしても許可されたモン以外は入られへんようになっとるんよ」
「えっ、なにそれ!?劣化せえへんようになっとるってことしか聞いてへん……!」
「ちゅーわけで誰も見とらんし安心してええで、今から風呂入るのにもっぺん服着るのも煩わしいやろ?」
「そ、それはそうやけど……!いやでも恥ずかしいもんは恥ずかしいねんけど……っ!?」
先ほどから俺で身体を隠すようにしている彼女の顔は、ほぼ見えない。けれど触れた箇所から感じる体温は、先ほどよりも余程高い。本気で恥ずかしがっているのだろうなというのが伝わって、思わずちいさく声を漏らした。途端に「煌雅くん!?」と抗議の声が上がる。
「いや悪い、めちゃくちゃ素直な子やなぁと思ったら思わずな〜」
「いや、言うほど自分私と歳変わらんやろ……!」
「おーん?言うたやろ、俺三百年以上昔の人間やで?見た目は確かに近いけど、普通にそのあと道士様が老衰で亡くなるまでずっと一緒におったんやし。自分より余程歳上やねんで?」
そんなことを話しているうちに、浴室に辿り着く。すとんと足を下ろしてやると、「ん、ありがとう」とちいさく応じて彼女はこちらを見上げた。なんかあったっけなと目を瞬かせると、ぐるりと浴室を一瞥する。もちろん屋敷全体に掛けられた劣化防止の術はここにも有効で、埃ひとつない。
「……思ったよりちゃんとお風呂や……?」
驚いたようにぽつりと呟いたその声に、思わず笑みを浮かべていた。確かに浴槽は木製できちんと栓もある。これを抜けば地中を通した管を伝って、外に排水される仕組みになっている。冷えないように浴室内に暖炉もついていて、当時のままとは言えそこまで困ることもないだろうとは思う。ただまあ、俺らの時代はそもそも湯水も貴重で毎日入るモンでもなかったから、その辺は多少違うだろうが。そもそも入浴ではなく『沐浴』と呼ぶのが常だった。
「ほんま?よかった〜、お湯も貼っといたし気にせんと入ってくれてええからな!」
「あっ、いやちょっと待って……!タオルとかどうしたらええん……?」
「ああそか、ほなら服と一緒に取って来て俺が外立ってるから終わったら呼んでくれたらええで」
それから、と言葉を続ける。シャワーはないから綺麗なうちに湯汲んで使ってな、身体洗うんは道士様用の|絺《ち》のやつ新しいの出しといたしそれ使って……と説明し浴室を出た。足早に歩いて部屋へ戻る。たった少しの距離も惜しむように。

◇ ◆ ◇

「だから!なんでまた抱き上げるん!?」
腕の中で顔を赤くして声を上げるしおんを見下ろした。そうは言いつつも暴れたりせずにしっかりしがみついている矛盾した行動に、勝手に頬が緩んでしまうのだ。何か言いたげにこちらを見上げて、結局何も言わずに口を噤んだ。頬を膨らませたまま、顔を隠すようにひっついて押し黙る。その耳朶がほんのりと赤いことに気がついて、声を漏らさないようにちいさく笑った。呼吸も何もない身体がゆえに、声さえ漏らさなければバレることはない。普通の人間なら身体の揺れでわかるのだろうが、それもないのだ。
「この方が移動も早いやろ?」
部屋に戻ろなーと言うと、敢えてゆっくりとした歩調で部屋へ向かう。異様なほどに身体に馴染む、そのほのかな熱の温度を手放したくなくて。わずかな時間でもいいから、この冷たい屍体を生きている頃と遜色のないほどに温めてくれるそれを感じていたかった。例え、今日の夜には手放してもう一生触れることのないものだとしても。彼女が生きている限り、肉体を通じるパスから淡くその存在と熱を感じることはできる。たった一日共にしただけで、手放しがたくなってしまった。数百年ひとりでいたから、ただ寂しいだけだと自分に言い聞かせる。彼女と別れれば、その日から俺は自由になるのだ。そうすれば第二の人生が始まる。僵尸だとバレさえしなければ、人に紛れて生活ができる。腐臭もしない、劣化もしない特殊な身体は自我が擦り切れることもない。こうして忌憚なく温度のない身体に触れ、物を言ってくれる存在はもう二度とないかもしれなくても……だ。彼女はまだ若いし、それなりの年数活動できるだろう。それだけの期間があればきっと、また寂しさも薄れる。道士様の寂しげな表情を見た時と同様、胸の奥にこびりつくような鈍い痛みを覚えることもあるだろうが……それは、年月が解決をしてくれる。
部屋までは互いに無言のまま、寄り添うように身を寄せた。

◇ ◆ ◇

「わっ、桃わざわざ取っといてくれたんや……?ありがとう、煌雅くん!」
夜の間に取っておいた桃を手渡すと、彼女は目を見開いて顔を綻ばせる。なんか久々に桃そのままで見るかも……と手にした桃を眺める表情は、昨日ほど暗くない。少しでも元気が出たならよかった……と安堵して一度目を閉じた。ふと表情をゆるめて視線を戻すと、しおんはこちらを不思議そうな顔で見上げている。
「煌雅くんは食べへんの?」
思いがけない言葉に、思わず目を瞬く。僵尸が死体だということは知っていると昨日話していたのと同じ口で、普通の人間と変わりない扱いをするのだから……ヘンな子やなぁとちいさく笑った。
「ああ、俺は別に食わんでも困らんからええねん」
ぽんと頭の上に手を置くと「そっかぁ……」とややトーンの落ちた声が返ってくる。ハの字型に下げられた眉とその表情に、少しの翳りを感じて。考えるより先に、思わず言葉が口をついていた。
「……って、なんでそこでションボリすんねん!」
「だって……煌雅くんと一緒に食べれんの、ちょっと寂しくて……」
……嗚呼、やっぱり。鎮めたはずの気持ちが、胸の奥でじわりと温度を持つのを感じる。
「……ふはっ、なんやそれ……♡ほんまに不思議な子やなぁ、自分」
別れが惜しくなるから、考えないようにしようと思っていたそれが柔らかに形を持ち始めた。

それはそれとして、俺が生前の記憶を取り戻してこの数奇な縁の由縁を知るのは……もう少し先の別の話なんやけど。

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to soak into

2023/05/24


ふん、ふんふふん……と愉快そうな鼻歌が石造りの城の中で木霊した。柄にもなく浮かれてるなぁ、と自分のことながら他人事のように考える。けれど仕方がない、ようやく焦がれた存在が手の届くところにまで近付いたのだから。
鼻歌を口遊みながら、手に取った真っ赤な林檎に視線を落とした。そのまま形を確認するようにくるりと手の中で回し見て、つるりと滑らかで艶やかな皮の上に指を這わせる。俺のあまり明るくない肌の色ですら、その赤は鮮やかで白を際立たせた。きっとあの子の真白い肌は、この赤に一際よく映えるだろう。そう考えたら、くつくつと胎の底から笑いが込み上げる。純真無垢なあの子を体現するかのような色。透き通る磁器のような、そんな穢れを知らない色の肌。その雪のような肌と対照的に、血色の良く赤く熟れた果実のように色づいた唇。形の良いそれがこの果実に触れるところを想像すると、ぶるりと背筋を淡い電流が駆け上る。
「あの子の口に入るものだもん、丹念に真心込めて作らなきゃね……♡」
ぐつぐつと煮えたぎる音を立てる音が眼下から響いて、肌が粟立つようなぞくぞくとした快感を感じながら俺はうっそりと目を細めた。
倒錯している。それは自分でも理解している。けれど今さら止まれないのだ。手に入れたいと欲して仕方のないものを、どうしたって渇望する心は理性とは裏腹に欲深くなっていく。否、理性が冷静であろうとすればするほどに……その欲も執着も、深くなっていくのだ。焦がれこの身を焼くほどの存在が素直に手中に堕ちてきてくれないのなら、答えは単純明快な話。彼女の方を俺のところに堕としてしまえばいい。手に入らないのなら誰のものにもならなければいいと考えた頃もあったけれど、遠回りをして今になってようやく俺が得た答えは、それよりもっとずっとシンプルなものだった。俺の下にいてくれさえすれば、あとはどうとだってできる。占星術、黒魔法、錬金術……|魔女術《ウィッチクラフト》、黒魔術、変装、妖術そして毒薬。そのどれをとっても素直なあの子は耐性がなく嘘を容易く信じてくれるし、俺はそれに精通しているのだから。素直で綺麗なあの子と反対に、妖しく絡め取る捕食者のような手法が、俺の武器。
「ふふっ、あともうちょっと待っててね……♡」
くすりと笑って、手の中の赤に口付ける。ちゅと軽い音を立てて、触れた感触を名残惜しむようにゆっくりと唇を離した。これからこの林檎を毒に浸して、あの子の元へ持っていくのだ。俺の眼前で彼女は口をつけてくれるだろうか。はてさて彼女の心の臓がその音を奏でるのを止めたとき、どうやって俺のところまで引き摺り下ろそうか。今からそれを考えては気が逸る。そこまでして、今日は日課の|問い《アレ》をしていなかったなと思い至って背後の壁を振り返った。そこに掛けられたのは鏡。それに向かって俺はいつもの調子で問いを投げた。
「鏡よ鏡、|白雪姫《あの子》はどこにいる?」

◇ ◆ ◇

「ふんふふんふーん……」
カチャカチャと音を立てて、そのままにしていた彼女の私室の配置を変えていく。部屋の中央には、彼女の身体に合わせて誂えさせた硝子の棺を安置した。もちろん、その棺の上には棺の主が収められている。仮死状態の彼女を収めた棺には時を止める|呪《まじな》いがかけてあった。これで大事な大事なあの子の身体は、綺麗なまま時を止めることができるのだ。……そう、世界で一番美しいまま。
ちらと一瞥するだけでもわかるほど、暗い城の照明でも輝くような白絹の肌。鼓動を止めてもなお色褪せることのない頬と唇の赤は、その白さを一層際立たせていた。
「よし、これでいいかな~♡」
くすくすとちいさく笑って、彼女に相応しくないものは取り払った部屋を完成させた。これでようやく、彼女に向き合える。待ちに待ったその瞬間に、胸が震えた。
目を細めて、横たえられた身体に視線を落とす。直接触れることを躊躇してしまうほど、きめ細やかな肌は月明かりを浴びていっそ神々しいほどだ。陶磁器のようだなと、こうして改めて間近で見るとそう思う。少しも動かないその肉体は、まるで|磁器人形《ビスクドール》のようだった。俺だけの、かわいい可愛い愛玩人形。他の誰の目にも触れずともいい。その美しさも清廉さも、外見に過たず澄んで穢れなく高潔ですらある魂も。誰も、知らなくていい。……俺以外の誰も。あの子の目に映るのも、あの子が知っているのも俺だけでいいのだ。俺だけを見て、俺だけを呼んで、俺にだけ笑いかけてほしい。
硝子の棺に|納《﹅》|め《﹅》|た《﹅》のは、彼女の良さは隠すのではなく曝け出し……鑑賞するべきものだと考えているからだった。けれど欲深く浅ましい俺の我欲は、その純真で朗らかな魅力と危うい均衡で成り立つ艶美さを、ただのひとりにも知らせるべきではないと叫ぶ。
落ちた一点の染みが広がって、その画布を染め切ってしまえばいいと胎の底で本音が叫ぶのだ。どこから見ても、頭の先から爪先……睫毛一本一本ですら真白い彼女を。熱で溶かして黒で穢して、俺の色にしたいと理性を食い破って仄暗い獣性が渦を巻く。きっとあどけなさを残したまま、芳醇すぎるほど濃厚な色香を放って彼女は咲き乱れてくれるだろう。俺の期待に過たず、もしくは期待以上に。そうしてそうなったら、彼女にはすぐに虫が湧いてしまうだろうと言うのも、容易に想像がついた。それこそ、蜜を湛えた花には蝶や蜂など様々な虫が群がるように。
「何がいいかなぁ、お薬?うーん……でも、あの子は幼少期からずうっと|情操《そういう》教育を受けてきてるし。それのおかげで絶対に拒絶されるだろうしなぁ……。初めてだもの、とびきり素敵でとびきり甘くて、それでいて脳髄から蕩けて虜になるような……そんな記憶に残るものにしたいよねぇ♡」
自然と湧き上がった笑みが止まらない。くすくすと衝動に任せたまま肩を振るわせて、笑んだ。
「あはっ、いいこと考えた……♡」
——どうせなら、彼女から求めてもらいたい。けれど未だ穢れを知らず気高い彼女に、いきなり求められるはずもない。であれば、錯覚させてしまえばいい。彼女にとっての俺が、そうするに値するほど大きなものだ、と。

◇ ◆ ◇

それからの俺の行動は早かった。彼女の仮死状態を解いて、催眠をかける。キミにとって俺は大事な存在で、俺に恋焦がれているのだ……と。そうして記憶を混濁させる術を同時に行使して、正常に記憶を取り戻すことを防ぐ。惚れ薬は敢えて特定個人へ作用するようにはせず、『彼女にとって好ましい相手』かつ、刷り込みのように効いてくる目にすることが多い相手へ惹かれるように調整した。一度好ましいと感じる相手ができたら、その相手を目にすると強制的に一日中発情するよう重ねて呪をかける。自身で止めることのできない情動は、やがて正常な思考を彼女から奪うから。
そうしてただ毎日、ひたすらに甲斐甲斐しく彼女に傅いた。この城にいるのは、俺とあの子のたったふたりきり。毎朝彼女を起こし、髪を梳き服を着替えさせ、入浴も俺が介助する。食事はもちろん、俺が準備してふたりで摂る。これまでの険悪な仲から想像できないほど容易く、彼女は俺に懐いた。
「鏡よ鏡、あの子の心はどこに在る?」
「……未だ、彷徨っている」
こうして毎日問い掛けては、間近で下女働きのようなことをして尽くすうち、彼女の様子が変化した。それまでも入浴の補助や着替えには難色と照れを滲ませ、白い肌を紅潮させて恥じらいを見せてはいたのだ。
「……ん、あれ?急にどうしたの、身体つらい?」
くたりと脱力して、俺の腕にその重みすべてが預けられる。すり、と泡を伸ばすようにして腹部へ優しく触れると、如実に身体が震えた。顔を覗き込む風を装って、吐息が触れるほど間近に顔を寄せる。
「い、えっ……なんでも、ないんです……。すこし、熱っぽく、て……」
もじもじと膝を擦り合わせ身を捩りながら、僅かに視線をこちらへ返して彼女がそう返答した。鼻先で弾けた吐息の熱っぽさと、手から伝わる熱さに間違いなくその肢体が情欲の火を灯したことに気がついて、歓喜に打ち震える。潤んだ瞳は一気に淫靡な熱を帯び、赤い舌が同じだけ赤い唇を、湿らせるようになぞった。陶磁器のような肌が身動ぎの合間、微かに掌に押しつけられる。ゾクゾクと肌が粟立って、喜びで脳髄を揺らすほどの痺れが齎される。
「本当だ、熱っぽいね……。今日はもう身体流して休もうか」
そう言葉をかければ、素直にこくんと頷く。
——それからは、今まで以上に増して時間を共にすることが増えた。寝台の上で横になり、耐える彼女の傍らにずうっと控える。そんな生活。ときおり一切の術を解き、揺さぶりをかけてもまだ……彼女は俺の存在を拒絶せず、受け入れる。そんな日が、三ヶ月ばかり続いた。

◇ ◆ ◇

ひゅうと息が吸い込まれ、細く甘い声が頭に抜けた。
「ァ、ぁ゛……ァアっ♡♡」
びくんと一際大きく身体が跳ね、綺麗な白い背が弓なりに逸らされる。ぶつりと何かが切れる感覚がして、俺の上に跨がる彼女の瞳に像が結ばれた。
「んっ……あーあ、破瓜の痛みと出血で全部いっぺんに解けちゃったねえ?」
かたかたと震えながら、その双眸が俺を射止める。
「ぉかあ……さま?チ、ヒロ……さん?」
自重で圧の加わっていく身体に鞭打ち、それでも尚、彼女は目尻に涙を浮かべて震えた声音で俺を呼ぶ。
その日もこれまでと変わらないと思っていた。まだ誰のものでもないその肢体を抱え、胎の底から泉のように湧き上がる情動を、今日も彼女は目を閉じ唇を薄く食んではやり過ごす。苦悩し寄せられた眉が、温和な顔立ちを歪めて歪な征服欲を刺激した。そのはずが、シュミーズを着せ寝台へ運んだあの子が、蹲るように頭を預けた——はずだった。そのはずが、今日は夢現のまま事が進んでいくのをどこかで俯瞰する俺が見ていた。
「……ッ、ぅ♡チヒロ、さ……なんで……」
息も絶え絶えに尋ねられた言葉に、俺は口角を吊り上げる。もう少しだ、もう少し。もう少しで、真っ白で純粋無垢なこの子が、手中に収まる。
「俺に聞くの?……キミが、したことなのに?」
ぽたり、と白の中にただ一点の黒が落ちる。白すぎる画布は、その色を瞬く間に吸収していった。ゆらゆら揺れる瞳が、所在なさげに大きく揺れて、俺を見上げる。
「ふふ、記憶あるでしょう?だからそんな風に困ってるんだもんね。可哀想な子、自分の手で決定的な梯子を外してしまって……もうどこにも戻れない」
添えられた華奢な手が、震えた。手を伸ばせば、びくりと肩をも震えさせて。どうしよう、取り返しがつかないことをしてしまったと……湖面のように穏やかな瞳が、今はゆらりゆらりと何度も波紋を描く。
「わたし、わ……たし……っ!」
伸ばした手が、肩に触れた。華奢な身体が跳ねた拍子に、寸前で留めていた手が浮いて、そのまま自重で腰を落とす。ごちゅんっ、と派手な音が響いて、ナカが耐えきれないというように震えた。腰までガクガクと揺らして、彼女は白い喉元を晒すように仰け反って。それでもまだ、白雪は気高く澄んでいる。
かちりとどこか遠くで音がして、今この瞬間を待っていたのだと思わず唇を舌でなぞった。熱に浮かされたように、口から溢れた言葉を引き金に……最後まで在ろうとした理性が、押し流されるのを感じる。ふたりともに。
「ほぉら、もっともーっと……最期まで俺の上で踊ってよ♡」
一瞬でも早く、深淵の闇の色で染まり切って。この享楽を貪るなら、俺の手で俺のところに堕ちてきて、けれどキミの意思で抗わないキミとがいい。そんな感情を胸の内で吐露しながら、細い腰をぐっと抱き寄せた。


「鏡よ鏡、あの子の心は今何を見てる?」
「……それは、ずっと貴方だけを」


ふたりきりの城の中、今日も同じ問答を繰り返す。

強欲と執着

2023/05/18


彼女をひと目見た瞬間、これは運命だと思った。どうしてもこの子を伴侶にしたいと、本能的な部分が告げて、目が離せなくなる。恋に落ちるとはよく言うものだが、こういうことかと妙に腑に落ちた。なるほどこれは確かに『落ちる』が正しいのだろう。月並みに言うならば、雷に打たれたような衝撃。まるで時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。ざわざわと喧騒の多いはずの病院の廊下で、途端に周囲の音が聞こえなくなって、隔絶された世界にいるような気さえした。
「高嶺先生?急に立ち止まられて、どうしました?」
突然立ち止まった俺を訝しんだ職員に声を掛けられて、我に返る。
「……ああ、ごめんなんでもないよ。ちょっとぼんやりしちゃっただけ。俺はそろそろ診察始まるから行くね」
そう返答して曖昧に笑う。わかりましたと応じる声を背中で受けながら、視線を素早く滑らせた。……けれど、彼女の姿はもうそこには見当たらなかった。

◇ ◆ ◇

この世界には、広く知られてはいないがふたつの種族が存在する。ひとつは人間、ひとつは怪人。
見た目には両者ともにほとんど差異はない。だから俺のようにこうしてカウンセラーとして一定の地位を得て、人間社会に溶け込んで働くことも容易なのだ。そして自分たちの生活圏で怪人が普通に生活していることも知らずに生きている。現に、近年怪人が現れて騒ぎを起こすようになるまで、その存在は知られていなかった。
ただ、怪人の中にはランクが存在する。このランクの差で知性が大幅に変わるし、下位の存在になればなるほど、言葉を操ること自体が困難になっていく。また怪人は人間にはなれないが、その逆……人間を怪人にすることは可能だ。怪人はその性質の都合もあって自分より上位のランクの存在に逆らうことが出来ない。今一般的にニュースなどで世間を騒がせている怪人は、多くがこの下位ランクの怪人たちだった。だから、彼らは|意思の疎通も行うことができない存在《災害》として扱われる。
他にも怪人を怪人たらしめる最も大きな特徴が、ひとつあった。それは『負の感情を感じない』というものだ。人間が感じる、辛さも不安も孤独も……そのすべてを怪人は感じない。
俺たちの組織が目論むのは、国家転覆などではない。……こうして毎日のように数えきれないほど多くの人間が、心を病み、傷つき、あまつさえ命を擲つことすらも視野に入れてしまうほど……辛さや不安、孤独に悩まされている――そこから、解放してあげること。それだけが目的だ。
「はぁ……」
診察の合間に、思わずため息が零れる。先ほど見かけたあの子は、多分人間だろう。人間と怪人では、子を成すことができない。せめて彼女の名前だけでもわかれば、あとはどうにでもなるんだけどなぁと感傷に浸る。院内で見かけたのだから、また逢えるだろうか。そんなことが、ぐるぐると頭の中を巡った。
「気持ちを切り替えなくちゃね。えぇと……予約分のカウンセリングは終わったから、次は初心の患者さんか……」
事前に受け取ったカウンセリングシートと、カルテに軽く目を通す。上司による理不尽なパワハラ、長時間のサービス残業による疲労、それに伴う不眠症状。負の連鎖に入ってしまっているのは瞭然だった。こういう子ほど、怪人になってしまえば楽なのに。どうして彼らはこんなにも思い悩んで、しんどい思いをして……それでも人間でいたいのだろう。
「次の方、どうぞー」
番号を読み上げて、入室を促す。初回のカウンセリングでは、威圧感を与えずに対等で良好な関係を築くのが一番だ。安定剤で安定を取り戻して、改善するならそれでもいい。けれど、多くの場合は本人の性格的な部分も大きく影響する。だから物腰は柔らかく、けれどこの人は頼っていいのだと思ってもらうことが何よりも優先。
「……失礼します……」
その声を初めて聴いたとき、耳障りの良い声だなと思った。手で目の前の椅子を示し、視線を落としたまま、名前を読み上げて本人確認をする。
「どうぞ、座って寛いでね。えーと、お名前は……神里久遠さん、だね?」
「……はい」
肯定の声に顔を上げて、患者に向き直った。そこにいたのは、先ほど運命だと感じた存在。嗚呼、と心の裡で感嘆の声を漏らす。やっぱり彼女と俺は運命なのだ。彼女を見つけたその日にこうして再会して、さらには俺の患者としてやってきてくれるなんて。歓喜に震えながら、それが顔に出てしまわないようにそっとひた隠した。……まだだ、まだ。患者として通ってくれるなら、いつかもっと好機が訪れる。焦らずにまずはいつも通り、関係構築から始めればいい。そう自分に言い聞かせる。
「ここで聞いた内容は、誰にも漏らしたりしないから安心して。事前に記載してもらったシートは読ませてもらったよ。……しんどかったね、久遠さん。一応、キミの言葉でもう一度話してくれると嬉しいんだけど……聞かせてもらってもいいかな?」
そうして聞いた彼女の状況は、惨憺たるものだった。不眠だけではなく、食事に対しての意欲も湧いていない。何が食べたい、こうしたいなんかの意欲が皆無で何を食べても同じ。典型的な鬱症状。性格的なものもあるのだろう、極力相手を否定したりしたくない彼女は、まず自分の側に悪いところがなかったかを探してしまう。整った顔立ちなのに、それを打ち消してしまうほど顔色が悪い。濃く残った隈は、随分長い間悩まされていたことを感じさせる。……助けてあげたい。早くそんな辛さから解放してあげたいと、切実に思ったことを、まるで昨日のことのように覚えている。

◇ ◆ ◇

「ねえ……千弘さん、怪人化計画がひと段落したらなにがしたい?」
ベッドの上で肌を寄せ合っていると、不意に彼女がそんな問いを投げてきた。俺の告白を受け入れ、自らの意志で『助けて』と怪人になることを受け入れた、あの日恋焦がれた存在は、今では俺の恋人兼優秀な秘書であり助手となっている。彼女が計画に加わってから、この計画は加速度的に進んですっかり街は怪人で溢れ返っていた。そろそろ、怪人化計画の終わりも見えてきている。彼女もすっかり手慣れて、今では怪人化に必要な注射や機械類のセットや操作まで自分でできるようになっていた。
「……そうだなぁ、やりたいこと……あるにはあるけど、今はまだヒミツ……かな。久遠ちゃんは?なにかしたいことあるの?」
計画の終わりも見えてるとはいえ、まだ終わってないから願掛けみたいなものだけど、と曖昧に濁してふわりと頭を撫でる。彼女はそっと幸せそうに目を細める。元々多幸感を得やすい怪人になってからというもの、彼女はすっかりあの暗かった表情が嘘みたいに、ずっと幸せそうに微笑んでくれる。けれど、その中でも俺と触れ合う瞬間に一等幸福そうな表情をしてくれるのが……なによりも嬉しい。
「……私?私もしたいことはあるけど、私ひとりの一存じゃ決められないな~って♡」
すりすりと自分から俺の手に頬を寄せて、くすくすとちいさく笑みを溢して彼女はそんな風に言いながら俺を見上げた。その悪戯っ子のような表情に、俺は「えー、どんなこと?」と鼻先をすり寄せて甘える。どんなことでも、俺にできることならしてあげたいから教えてよとじゃれつくと、彼女はそっと俺の耳に口を寄せた。
「あのね、千弘さんとの赤ちゃんが欲しい……♡」
甘やかに囁いて、蕩けた瞳で俺を見上げて蠱惑的に笑った彼女の目には、もう俺しか映っていなかった。俺だけのものにしたくて、俺のものだと見せびらかしたくてどうしようもない存在の、その瞳に唯一映るのが自分自身であるということに途方もない歓びが去来する。彼女と子を成せるようになりたくて、怪人にする前からその身体を開発したのだ。高揚して熱い吐息が零れ落ちる。
「……だって、千弘さんはそのために私のこと怪人にしたかったんだもんね?大事にしてくれてるの、わかってるけど……最初にシたときのこと、忘れられないのは千弘さんも同じ、でしょ♡」
「……うん。でも、いいの……?久遠ちゃん、俺の子ども……産んでくれる?」
「ふふっ、なに言ってるの千弘さん……♡前にも言ったよ、人間よりも怪人を――千弘さんを選んだんだよ、私」
自分の意思で、と真っ直ぐな瞳に射抜かれる。媚薬を盛られ、お薬で気持ちよくなってたとしても。最後の最後、千弘さんの『俺と同じになりたい?』の問いに是を返したのは私だよ、と。やさしくも、甘やかに囁かれた。
「その時に言ったでしょう?……いつか、千弘さんの赤ちゃん産める身体にしてください、って……♡」
千弘さんが欲しいならいつだっていいんだよと吐かれた甘言に、手に入れる前よりももっと、より深く彼女の存在が大きくなっていく。際限のない要求が生まれて、どんどん強欲になってしまう。
「ああもう、キミには敵わないなぁ……」
欲深くなっていいとキミが甘やかすから、どうしようもなくキミに執着している。きっと、これから先の未来でも、ずっと……ずーっと。

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三千世界の鴉を殺し

2023/04/26


しまった、と思ったときにはもう遅かった。目の前の彼女の表情が痛みを堪えて泣き出す幼子のようなそれになって、口を噤みそうになる。
「……いやいや、なんちゅー顔してんねん。俺まだなんも言うてへんやん?『起請文《きしょうもん》って知っとる?』って聞いただけやで?」
「……煌雅くんこそ、起請文が何に使われたモンかわかって言うてる?」
震える声でそう問われて、いよいよやってもーたなと内心で頭を抱えた。初来店の際に遊郭のコンセプトに惹かれて来たのだと言っていた通り、彼女はどうにもこのテのことに詳しいらしい。
「知っとるよ、人が契約交わすときに使われてた約束破らんことを神仏に誓うモンやろ?江戸の世では遊郭でもよー使われたっちゅー話やん?」
ぽんぽんと頭を撫でながらそう言えば、間違ってはないけどと歯切れの悪い返答が返ってくる。それもそうだろう。こと本来の遊郭で使われたそれは、贔屓してくれる客に『年季が明ければ結婚する』と誓うものが多かった。もちろん、贔屓客の多くに渡される言わばリップサービスのそれである。それすらもらえない客……主は、遊女にとってそれを渡すほどの相手にも満たないという証左でもあるのだから。
この辺の|廓《くるわ》事情を知らなければ、起請文自体は戦国大名も同盟締結や和睦の証として互いに交わすこともある由緒正しきものなのだが。
やってしまったと思ったのはこれが理由だ。深く知らなければ良い意味で取れても、遊郭という場所におけるそれを知っているとなると、俺は今自分で『リップサービスしますよ〜!』と宣言したようなものである。普通に考えてアウト。しかもここ最近足繁く通ってくれる常連客に言うなど、もってのほかの内容だ。正直なりふり構わず頭を抱えてしまいたい失態である。
「……あー、ほんまにすまん。しおんのこと、傷つけたかったわけやないねん。はぁ……慣れへんことはするもんちゃうなぁ……」
正直に謝って、頭を撫でていた手を止める。恐る恐る彼女の顔色を窺うと、いくらか悲痛な色は薄れていた。だからその時の俺は気付かなかったのだ、彼女がとうに本気で俺を見ていてくれたことに。
「付け焼き刃の知識で喜ばそうとしてもよーないな。ごめんな、ほら……前にこの店来たんも遊郭の雰囲気が好きで〜って言うてたやろ、自分?」
頬を掻いてそう問えば、腕の中の彼女はこくんとちいさく頷き返した。
「……うん、まあ……それで煌雅くんにめちゃくちゃ文句言うたもんね、私」
「ほんまになー、出会い頭にいきなりチェンジや〜!って言われたんはさすがに俺も初めてやったから、面食らったわぁ。……ってそうやなくて、それでまあ……普段の接客もこんな感じやん、俺。せやからここに来てる間くらいは仕事とか嫌なことみーんな忘れて、非日常を味わってほしいしさ。前も言うたけど、ちょっとでも生きる活力になったらええなぁ、って思ってるねん」
「……うん。続けて?」
じっと見上げてくる凪いだ湖面のような瞳に、しおんの真意が読み解けず、数度続く言葉を紡ぐことを逡巡する。無意味に口を開閉すること数度を経て、意を決して言葉を続けた。
「……んでさ、常連さんにはその分サービスしてるて言うたやん?もちろんご奉仕の方もやけど、ここのコンセプトとか雰囲気が好きやって言うてたしおんには、ちゃんとそういう雰囲気も味わわせてあげたら喜んでもらえるんとちゃうかな……と思って」
いっつも普通に横文字使っとるし、こういう店で働いとってなんやけど、そんな遊郭にも詳しないし。そう結んで口を閉ざす。彼女の表情を幼子のそれと言っておきながら、まるで幼子の言い訳のような内容を並べているのは自分の方だ。最低限のコンセプトと売りは理解していても、それ以上のものは知りもしない。だから色々と調べてみたのだ。純粋に、彼女を喜ばせたくて。全部裏目に出てもうたけど……と内心で自嘲し、しおんちゃんの顔が見られなくてそっと目を伏せる。
「なぁんや、煌雅くんわざわざ調べてくれたん?」
明るい声がそう紡いで、はたと視線を上げた。先ほどまでの沈痛な色はそこにはなく、彼女はただ明るく笑むばかり。
「ちょっとびっくりしたけど、そんな風に考えて頑張ろうとしてくれてたの聞いたら怒られへんって。別に気にせんでええよ、煌雅くんと普通に話してるだけで楽しいと思って来てるんやし」
だからいつも通りの煌雅くんでおって、と括られた言葉に苦笑を零す。客に気遣われることになるとはなぁと思いながらも、「ほんまに気にしとらへん?」と聞いて顔色を窺った。
「もー、気にしてへんってば!さっきも言うたけど、ほんまに納得してなかったら何回も指名して来んって!」
「はは、さよかぁ~。……ごめんな、急にこんなこと言うて。ほら、いらんこと話してもうたし……もうしばらくこうさせといて?」
笑みと同時に零れた安堵の息を誤魔化すように、その柔らかな肌に顔を埋めて俺はもう一度腕の中の彼女にそう告げた。

◇ ◆ ◇

「今日もおおきにな〜♡仕事に疲れたら、またいつでもオーガくんに癒されに来たって♡ほな気をつけて帰るんやで〜!」
ぶんぶんと手を振りながら見送れば、はにかみながらしおんは去っていく。その後ろ姿を眺めながら、薄ら明るくなってきた空の色に目を移す。眠気覚ましに煙管を燻らせ、ひとつくぁ……と欠伸をした。ぐぐっと首を伸ばし、纏わりつく眠気を払うようにゆるく頭を振る。
「……三千世界の鴉を殺し、主と共寝がしてみたい……ってなァ、ほんまによぉ言うたもんやなぁ……」
ぷか、と吸い込んだ煙を円の形にして吐き出しながらそんなことを呟いた。遊女から客に送られたという都々逸は、色んな説がある。ただただ静かに眠りたいからという説、まだ別れたくないという説。それから、もうひとつ。こうして花を売る身として働いてみた今では、こう思いもする。割と真剣にリップサービスなどではなく、そう捉えられても共に傷つかない建前を含んだ言い方だったのではないか……と。起請文には熊野神社の護符が用いられることが多く、その神社の使いは鴉だ。贔屓客の多くに渡されたそれを破れば、誓いを果たした相手以外へ渡された分の使いの八咫烏は死んでしまう――そういう意図を含んだそれは、別にリップサービスなんかじゃなくても言うことだってあるだろう。
もう一度、はぁと煙を燻らせる。
「あっかん、もう頭回らんし限界やな〜……。はよ吸うてもて風呂入って寝よ……」
からからと窓を閉じると、店の奥にある自室へ重い足を引き摺るようにして運んだ。

◇ ◆ ◇

「は……っ!?え、なんで煌雅くんここにおんの!?」
扉を開けた途端、鳩が豆鉄砲を喰らったように目をまんまるに見開いて、驚きの声をあげる|元《﹅》常連客に俺はけらけらと笑って応じる。
「……はは、めっちゃビックリした顔してんな〜♡なんでここにおるかってそらぁアレや、あの店辞めたからやけど。ていうかあんなコトまでして、両想いやってわかってんのにまーだ変わらずに店来る気にしてたん?」
「えっ、うそぉ!?お店辞めたん……!?いやだって、煌雅くん住んでんのもあそこやん!」
「わはは、凄い顔しとるなしおん〜。……花魁のこと好きになってもうたら、そいつのこと身請けするまでがワンセットやろ?せやし諦めて身請けしたって♡」
ほんで悪いねんけど、店辞めて住むとこなくなったしココ住んでもええ?と間髪を入れずに尋ねれば、彼女の表情は驚きのそれから諦観のものになる。その後、こめかみを揉むように支えたかと思えば、一瞬遅れてふはっと吹き出した。
「……ええよ、煌雅くんには狭い部屋かもしれんけど。とりあえず、ずっと玄関先のままやとアレやし上がる?」
そう言って半身を引いたしおんの開けたスペースに、そっと一歩踏み出す。ちいさな鞄と身ひとつだけで済んでしまった引越しとも言えないような引越しは、一瞬で終わった。すんと鼻腔をくすぐる嗅ぎ慣れた彼女から香るのと同じそれに、ひとりでに頬が緩んでいく。
「夢の同棲生活スタートやな♡これでようやくしおんとも共寝ができるっちゅーワケや♡」
「……んー?それあれ?三千世界の鴉を殺し〜、のやつ?」
「そうそ、ようわかったなぁ♡さすがやわ♡……俺らこれまで朝までずうっと一緒におったことはないやん?」
「それで都々逸?煌雅くんもなんやかんや好きやなぁ……」
笑ってそう言う彼女の後ろに続きながら、部屋を見回す。煌雅くん普通のベッドで身体収まんの?と難しい顔をするしおんに抱きつきながら、にかっと笑みを返す。
「……せやからほら、もしかしたら今日はぎょうさん鴉死なしてもうたかもな?」
冗談やけど、と肩を竦めてちいさく言い添えれば小柄な彼女がこちらを振り仰いだ。
「……はぁ、悪い花魁やなぁ。でーも、煌雅くん?今日から住むんは廓やないんやから、また禿から始める心積りでおってよ♡」
「うげっ……そう来る!?今後のふたりの生活のためにも精一杯頑張るさかい、これからあんじょうよろしゅうしたってや♡」

Forsaken kiss

2023/04/12


この日、この薄汚れた路地裏で――『高嶺千弘』は、一度死んだ。

ざあざあと耳障りな雨音が、ようやく鼓膜に伝わってくる。いつの間にか降り出した雨はすっかり本降りとなっていて、走り回るうち見知らぬ薄暗い路地裏にいた。人々の喧騒は遠く、ただ雨音と遠くに聞こえる雷鳴が微かにするばかり。アスファルトを打つ雨粒の音が、他の全ての音を打ち消していた。……対面する彼女の呼吸音も、鼓動さえ。濡れそぼった身体からはあの輝くような情熱と、夢と理想を抱いて親元を飛び出してまで叶えたいと強く焦がれた焦燥は消え失せていた。ずっとそこにあったはずの熱が、灯が消えて。残るのは大きな喪失感と虚脱感。抑えていた恐怖心が蓋をこじ開け、溢れ出る。ざあざあ、ごうごうと音を立ててこれまで築いた|高嶺千弘《俺自身》を呑み込み覆い隠していく。
俺が俺でいるために、最愛の人が背を押し笑顔で支え、俺の新作が出るたびに喜んでくれていた喜色満面の様すらも今は遠い。頬を伝う涙と、抱き締めた彼女の濡れていつもよりちいさく感じる身体だけが温かくて――ただ、この熱までも失いたくないと縋る気持ちが強くなる。腕の中の彼女は、傷ついた俺を傷つけないように恋人の存在が起因になってしまった今回の騒動に動揺し、同じように傷ついた心を必死に押し隠しているというのに、俺はそれすらも気付かないフリをして。ただ胎の底で燻るように大きくなっていく、身体の内側を灼く昏い感情の焔を、先までの情熱の代替品にしようとしている。まんじりともせずただ大人しく俺の意に従うのは、同意したばかりの『自分だけは裏切らない』『俺がどうなっても、変わらずにこの愛を受け入れる』『一緒に堕ちる』という約束を果たすため。もうここから、彼女の俺への恭順の意を示す意思表示は始まっていた。
……ああ、本当に可愛い子。独りぼっちになることを恐れ、欣然と努力してきた夢を二度らなずと《《俺のことが好きだ》》という子に打ち砕かれ、遂には恐怖症をも超えて唯一素で触れられる相手でも在った恋人を信じられなくなるかもしれない恐怖に呑まれ、夢も憧れも在ったはずの輝かしい未来も捨てて……ただ、亡霊や残滓にしかなれない男をそれでも支えたいというのだから。ほんとうに、キミはどこまでも俺に甘い。
「……帰ろっか、久遠ちゃん?……事務所の事はもういいの、俺とキミの家に帰りたい。……いいでしょ?」
「……はい。千弘さんと私……ふたりの家に帰りましょっか」
沈痛な表情を堪えながら薄く笑って、そう頷いた彼女のすっかり冷え切った手を取り、俺たちは帰路を歩く。歩調を合わせて、いつもみたいに隣に並んで。いつもと違うのは、互いにひと言も発さなかったこと。ただ、繋いだ手をときどき互いの存在を確かめるように強く握って、指を絡ませ何度も何度も確かめた。
本当にこの先、一生なにひとつの自由が許されないとしても、キミは俺を受け容れてただ俺の愛を受け止め包んでくれますか?静かにしずかに、壊れて狂っていく俺自身を――当の俺が受け容れられないとしても、久遠ちゃんは信じて愛してくれますか。
恐怖で張り付いて、声にならない問いを繋いだ指先に込めて。安心させるように、何度もぎゅうと込められ返す力にようやく俺は呼吸をすることを許されている。

◇ ◆ ◇

俺が家に着いてまず最初にやったのは、濡れた服を脱ぐことでも身体を拭くことでもなく、ファンからの贈り物を丹念に自らの手で捨て去ることだった。俺の仕事が、頑張りが認められたようで嬉しかったそれらの功績はつい今朝まではトロフィーとして家の中に飾られていた。でももう、俺には要らない。ファンの子にすら裏切られて盗聴され、彼女との生活音声を悪意を持った形で流布された今では、それを見ても冷ややかな気持ちになるだけだ。俺はもう、『チヒロ』の肩書を捨ててきたのだから。要らない、要らない。全部要らない。俺の手元にあるものは、彼女だけで良い。俺を裏切り傷つける他の何もかもは必要ない。
俺の何が悪かった?ただ受け容れてほしいだけ。俺は|自分の仕事《AV男優》を誇りにしてきたし、自分で選んでこの仕事に就いた。少しでも世間の見る目が変わりますように、素敵な仕事だと思ってくれますように、と。ただそれだけを願って何度も浴びせられる心無い言葉にも奮起して、笑顔でいなし続けてきた。例え一方的な好意を押し付けられて『お前がやっていることは〝普通〟じゃない』と何度共演した女優に言われても。それで女の子が苦手になって、触れれば体調を崩してしまうような恐怖心を植え付けられても。それでも俺にとってのこの仕事は夢であり希望であり憧れだったから、望んで無理をし続けた。天職だと信じて、笑顔で俺の仕事の成果を喜んでくれる彼女と一緒にいるのは、本当に心の底から嬉しかったんだ。
花も、手紙もなにもかもを乱雑にゴミ箱に放り捨てると、ようやく家の中でも怯えずに呼吸ができる。そう思って振り向いた視線の先、揺れる瞳を隠せずに無言で俺のその行動を凝視していた彼女の表情は、薄い笑顔を貼り付けて凍り付いていた。
「……ん?ああ、びっくりさせちゃったかな……でも、さっきみたいに何かあったらって思ったら落ち着かないじゃない?」
「……そうですね、あんな事があった後だと、不安……ですもんね……!」
俺のその言葉に我に返ったように、なんとか声を振り絞って彼女は俺を安心させるように笑う。戸惑いを笑顔で覆い隠して、これから先の変質した俺を受け容れるために。これが今日から先の俺なのだと、噛みしめて受け容れていく。
「ふふっ、うん♡これでようやく二人っきりだね……久遠ちゃん?」
言いながら手を引いて、彼女をまた腕の中に閉じ込めた。どこにも行かないで、もっともっと俺にキミを信じさせて。キミだけは裏切らない、変わらないって。この愛は変わらないって、気持ちが離れたりするわけないって……信じさせて。俺と一緒に雁字搦めになって、はやくその『善性』と『理性』を捨ててよ。
抱き締めるとより強く実感した。俺にはもう彼女しかいないんだと。だからこそこれまでも大きかった彼女の存在が、俺の中でより一層の存在感を増して強く感じられる。雨に濡れて時間の経過した身体は、冷たく冷え切っているはずなのにそれでも彼女の体温が僅かにでも感じられると心底安心した。ここにいる、俺の腕の中に……久遠ちゃんはいる。
「唯一信じられるキミがいてくれて、本当に幸せ……♡……キミは、俺といて幸せだって思ってくれてる……?」
ぜんぶぜんぶ、本心なんだよ。俺がキミに投げ掛ける言葉は全部が本当。だからキミも、嘘偽りのない言葉で教えて……?
「……もちろんです、千弘さんと一緒にいることが……私の幸せですから……♡本当にすごく幸せです……♡」
ふわり、と。いつもの優しい、随喜の滲んだ笑顔を向けられることに安堵して「キミを好きになって良かった♡」と胸の裡を吐露した。俺の本心を、言わずとも知ってくれているキミにならこの想いもぜんぶ本当だって伝わるよね。肌に張り付いた服をそのままに、何度も愛したベッドの上へと彼女の身体を押し倒す。
「ここまで来たらもうあとは……分かるよね?俺にはもうキミ以外に何もないの……だから、俺の想いを受け止められるのはキミしかいないんだよ。……ね、久遠ちゃん……俺の思うまま、キミを求めさせて……?」
「どうぞ、千弘さん。何度でも……遠慮なんていりませんから……♡全部、受け止めます……♡」
私だけ、とぽつりと呟かれた言葉に続いて彼女はまっすぐ俺の目を見て頷いた。了承の言葉を皮切りに、濡れた服の上から指を這わせる。それだけで、何度も快楽を教え叩き込んできたその身体は、淡く情欲の熱を灯して反応する。それはまるで……今まで俺たちが重ねてきた時間と愛の証左のようで、とてつもなく嬉しい。けれど、どれほど積み重ねてきても心が離れるのは一瞬なのだと今日俺は知ってしまった。だから心以外でも、しっかり彼女のことを繋ぎ止めてあげないと。キスしよう、と俺が言えば大人しく開かれる口も。何度貪るように口付けても、自分から離したりせずに応じて求めてくれるその舌も。上気して火照るその頬も、冷え切った身体にうっすらと滲む汗も、その汗の味すらも全部が愛しい。張り付いた服を、桃の薄皮を剥ぐようにして剥いてやれば微かに震えるその仕草のひとつまで、ぜんぶ……全部もう、俺のもの。そう思ったら祝着が止まらなくなって、思わずその肌に思いきり吸い付いた。白肌の上に散る紅い花に。うっそりと、目を細める。嗚呼、嗚呼……これでまたひとつ。
「……ふふっ、今までずうっとガマンしてきたけれど……もう気にする必要ないもんね?♡久遠ちゃん、俺だけのものになってくれるんだから……俺のって証、しっかりつけとかないと……♡」
「……は、ぁ……♡……ン、はい……なにも気にする必要、ありません……♡千弘さんだけのものなので…千弘さんの証、もらえてうれしい……♡」
嬉しそうなその声に、言葉に――陶然と蕩けていくその瞳に俺の心も弾んでいく。遠慮しないよ、と告げて肩に、首にと無数の痕を散らした。電気もつけないままの薄暗い部屋の中で、いつもより白さを増して見えるその肢体だけが、くっきりと像を結んで浮かび上がる。その白を穢すようにして散った、俺の徴。
「……はぁ……ふふっ、壮観だね……♡今まではお互い周りの目も気にしてはいたけれど……これからは何も気にすることないんだもん♡ほら……久遠ちゃんからもちょうだい、俺への愛のしるし……♡」
そう言ってせがめば、彼女は喜んで同じように俺の身体に愛の徴を刻んでくれた。撮影の際に隠しやすい位置などではなく、ただ……欲のままに。仕事もなにもしなくても、俺の貯金があればゆるゆるとふたりでただ愛し合いながら生きていくだけのゆとりはある。いつか彼女と夢見て得たいと思った、『俺の家族』やその他複数の夢を捨てればそんなことは容易に叶う程度には。彼女と出逢って改めた、刹那的快楽的な生き方に……今度はふたりで戻るだけだ。自らの服も脱ぎ捨てながら、その提案を彼女へ投げた。
「愛し合って眠って、目が覚めたらまた愛し合って……♡……はぁ……ふふっ、まるで天国みたいだって思わない?」
「……ふふ、はい……それはそれで、きっと天国みたいな心地でしょうね……♡」
「ふふっ、久遠ちゃんもそう思ってくれてる?……良かった、間違えてなくて……♡」
生まれたままの姿で向き合って、膝で、指で彼女の秘所をくすぐっていく。途端にくちゅくちゅとはしたない水音を上げて悦んでくれる彼女の膣内は、俺の指を嬉しそうに締め付けてまだ足りないと快感を強請る。こんな風に育った身体も、俺がたっぷり愛してあげたから。その事を忘れないでと口に出せば、その分ちゃんと責任取ってくださいと恍惚とした声が俺を呼んだ。
「ふふっ、いいよ……責任取ってあげる♡久遠ちゃんの身体の欲を埋めてあげられるのなんて、俺くらいしかいないもの……久遠ちゃんが俺を受け入れてくれてる限り、俺もたっぷりキミの求めに応えてあげる……♡」
応じて刺激を増やせば、もう収縮の仕方が変わる。きゅうきゅうと俺の指を絞って、熱を欲しがる動き。「もうイっちゃいそう?」と問えば、嬌声の合間に彼女は頷いて涙を浮かべながら声を振り絞り「も、イっちゃいそぉ……♡」と素直に答えた。素直に言えてえらいねと笑った俺は、親指を勃ち切った彼女の陰核に押し当て、与える刺激をさらに増やした。
「……おまんこの気持ちいトコたーっぷり責めて上げるから、お潮噴いてイっちゃおうねー……♡気にしなくていいんだよ…もうとうに濡れ切っちゃってるんだから、俺たち……♡ほーら……イっちゃえ、久遠ちゃん♡」
「ぁ……ッ♡ァ、も……イ、く……出ちゃう……ッ゛♡ァ゛、〰〰〰ッ♡♡゛♡゛♡」
俺の声に合わせるように、最愛の恋人は絶頂を迎えた。
「あは、すごいねぇ……背ぇ反っちゃってる♡やらしー声上げて、下品なカッコで腰揺らして潮まで噴いちゃって……ふふっ、そんなになりふり構ってられないくらい気持ち良かったんだ?いいよぉ、すっごくイイ……♡そんなキミの姿が見てみたかったの、俺……誰にも見せられないくらいみっともなく、快楽に耽るキミの姿が……♡」
背を反らして声を上げ、言われた通り……これまで恥ずかしがって嫌がることの多かった潮を思い切り噴き上げながら、それでもまだ快感を求めるように腰を揺らしてそれでもまだ快感を強請って自ら俺の指に擦り付ける、いやらしくてはしたない姿。俺が抑えて抑えて、彼女にすら言うことをせずずっと俺の胸の裡に抱えてきた最大の欲望。それに応え、変質した愛を受け容れて自らそんな姿を晒す恋人が愛おしくないわけがない。にゅちにゅちと強請られるままに果てたばかりのそこへ緩い刺激を与えて、俺は嗤った。
「もっと堕ちちゃおうよ、久遠ちゃん……♡誰の手も届かないほど深く、深く……俺とおんなじところまで、ね……?」
荒い息の合間に、涙の浮かんだ瞳で俺を見上げてすっかり融けた思考の中で、彼女は「……ちひろさんと、おんなじ……なら……堕ちても、いい……♡」と首肯する。その様子を見下ろして、満たされていくのを感じながら膣内から指を引き抜く。これよりも強い快感を教え込まれた彼女の身体は、物足りなさと寂しさからヒクついた。煽るように笑んで、大陰唇を撫でながら眉を下げて問いかける。
「……ね、久遠ちゃん……ここに何が欲しいの?久遠ちゃんはいい子だからちゃーんと言えるよね……♡」
「……っ、゛ぅ……ぅぁ……♡ン、はひ…ちゃんと言えます……♡……千弘さんの、おちんぽが欲しい……っ♡」
間髪入れずに答えた彼女は、もう俺の言葉に疑問を抱くことをやめていた。全部を受け容れて、おなじところまで本当に堕ちてきてくれる。
「ふふっ……いいよ、久遠ちゃんにあげる……♡……これからは、久遠ちゃんだけにあげる……♡俺のおちんぽ、俺の欲……ぜーんぶ、キミが受け止めてくれなきゃヤだよ……?」
もう仕事で他の女の子を抱くこともない。これから先の未来に、俺の腕の中にいるのは唯一信じられるキミだけ。手早くゴムをつけて、膣口に押し当てた。
「……今からこれが久遠ちゃんのお腹のナカに押し入って、めちゃくちゃにしちゃうんだよ……♡……覚悟、出来てる……?」
「はひ……覚悟、できてます……♡千弘さんの熱くて硬い……おちんぽで、めちゃくちゃにシて……っ♡」
「そっか……じゃあひとつになろ、久遠ちゃん……♡……身体の芯まで俺を味わって……俺なしじゃ生きられなくなって、久遠ちゃん♡」
ひとつキスを落としてそう言うと、無遠慮に彼女の身体のナカへ押し入る。何度も重ねた身体は、抵抗なしに俺の熱と欲を受け容れた。一度最奥まで埋めてから、ゆるく律動を始める。それだけで鼻から甘い声を漏らし、俺を甘く締め付けるその様子に、拒絶は見られない。
「……ふふっ、久遠ちゃんって俺のおちんぽホントに大好きだね……♡」
「……すき、千弘さんのおちんぽ大好き……千弘さんのことだけが、だぁいすき……ッ♡」
「ふふっ……俺も久遠ちゃんのこと、だーいすき……♡もっともっと蕩けて、気持ちい事以外考えらんなくなっちゃおうねー……♡」
緩やかに奥を突いてやれば、もどかしさから彼女の腰が揺れ始めた。もどかしいのかと問えば、甘えた声でもどかしい、もっと気持ちいいのがほしいと鼻を鳴らして答える。もっと強く、依存性の強い快感に慣らされ切った身体は――もうこの程度では満足できないのだ。
「もっと強い快感欲しいんだ?いいよ、俺もそう思ってたとこ……♡快感だけじゃなく、もっと確かに……もっと隙間なくキミと繋がりたいの……♡微かな隔てすらもどかしいくらいに、ね……♡」
言いながら膣内から熱を引き抜いて、つけたばかりのゴムを外した。それは、これまで彼女を愛する上で絶対に欠かすことのなかった配慮。恋人の身体を大事に想い、負担をかけたくなかったからこそ守ってきた絶対のセーフティ。神様を名乗る人物にゴムを消されたときですら、繋がることを躊躇し、一度はドッペルゲンガーをも生むことになった俺の剥きだしの欲望。はやくいれて、さみしいのと言葉と身体で示すようにぐずる彼女を言葉であやし、指先でぱくぱくと震える膣口をついと突いて。
「でも心の奥で思ってない?もっと欲しいって……♡そうだなぁ、例えば……ゴムを付けないままの、ありのままの俺と繋がりたい……ってさ?♡」
――俺は、最後の箍を捨て去って『人間』ではなく『獣』になる選択を彼女に科した。
「……心の奥、で……?ぁ……♡赤ちゃん、できちゃう……。でも……ほしい、もっとほしい……♡そのままの千弘さんと、繋がりたい♡」
「思った通り♡……いいじゃない、細かいこと考えるのやめちゃお……♡気持ちいことに関係ないコト、余分な事……俺以外の事、全部考えるのやめちゃお?思考を単純化して、お互いの事だけ考えて……♡……そうした時、あらゆるしがらみから解放されることが出来るんだから……♡」
最後のひと欠片の良心を覗かせて、踏み止まろうとする彼女に甘言を弄しながら。ナマのまま、最奥まで侵入する。快感から身を捩り、腰を引いて逃げようとした細い身体を抱き締めて耳元で「だぁめ、逃がさないよ?」と低い声で囁いた。逃げないと、一緒に堕ちてくれると言ったのはキミなんだから、受け容れて。そうしていつもより乱れる彼女に抽挿を繰り返し、最奥で熱を放つ。一滴も零さないで、と言った俺の言いつけを守るようにぎゅうぎゅうに締め付けてちゅうちゅうと飲み干すように収縮する子宮口に、最後の最後まで昂りを擦り付けて。
「久遠ちゃんに求められていること、久遠ちゃんに愛されてること……それが今の俺の価値だから。……お願い、ずっと離さないで……離れないでいて?」

◇ ◆ ◇

あの日から俺たちは愛し合っては眠り、目が覚めては愛し合って、毎朝毎夜ただひたすらに絶え間なく愛し合うだけの日々を繰り返した。そのうち俺にだけ特段素直な身体は、俺の宣言通りナマのおちんぽでしかイけないように躾けられてしまった。俺の快楽ですっかり脳髄まで浸して、おかしくなってしまった彼女は突かれるだけでイってしまう。とろとろに蕩けた声で、イき癖を揶揄すれば「千弘さんのナマおちんぽ、きもちぃから……♡」と甘えた声を上げるほど。無遠慮に加減もなく、ごちゅごちゅと奥を穿ってやると意識をトバしても尚――彼女の子宮は絶頂後も甘イキを繰り返し、ザーメンを注がれるたびに身体をひくひくと震わせる。
意識を失った彼女を見下ろして、俺はそっと自責と後悔で涙を流す。本当に可愛くてやさしくて、可哀想な俺の恋人。俺の傍にいて、俺と一緒に堕ちる覚悟をしたばっかりに……もう一生、離してあげられやしない。互いに正気に戻ったら狂って叫び出してしまいそうな環境に身を置いたまま、俺の慟哭のような衝動任せの愛をこれからもずうっと、ずーっと一生一緒にいて、受け容れ続けて。
俺をひとり、この苦しい現実から夢の狭間につれていく縁として――これからも俺を愛し続けて。そんな滂沱の如き白濁の欲望から、ふたり逃げる術を持たないまま。真綿のようなやさしい愛で包んで、このままふたりで溺れよう。

桃よりも甘い人

2023/04/11


合わせた額を離して、まじまじと目を見つめる。またも簡単に染まってしまった彼女の頬の赤さに、ちいさく笑いが溢れる。
「……さて、そろそろ移動しよっか。と言っても、どこだろう……ここ」
ぽんぽんとひとつ彼女の頭を撫でてから周囲を見回して、俺の口から漏れたのは困惑の色を如実に孕んだ声だった。そもそも、|こちらの世界《現世》ではほとんど病院暮らしだった俺には、あの桃源の里での生活の方が長くなってしまっている。当時は幼かったこともあって、今の自分たちがどこにいるのか皆目見当もつかなかった。
「ううん……ビルは見えてるので、それなりに歩けば現在地は分かりそうなんですけど……」
同じように眉を下げた彼女も、遠目に見えるビルを眺めて困ったように声を上げた。それに、と口籠もるようにして俺の方をちらりと見やった彼女の視線に、ちいさく首を傾げる。
「……千弘さん、その格好だとそんなに長距離歩くのは難しい……ですよね。草履ですし……でも今携帯もお財布も持ってないので、電車に乗ったりタクシーに乗るって言うのも難しそうで……」
ほんの少し言い淀んだ後、しょんぼりと肩を落としてそう言った彼女の言葉に、そういえばそっかと俺は目を丸くした。あの里では農耕が主だったし、里の中には川もなかった。里自体もそこまで大きくなく、数日かければ歩いて里中を回れるくらいの大きさだったのだ。だから、俺には移動手段という考えがなかった。いろんな視点が必要なんだな、と自分の不慣れさが浮き彫りになって歯痒い。
「千弘さん、なんて顔してるんですか。もうほら、眉間に皺が寄っちゃってますよ!……こっちの世界のこと、たくさん教えてほしいって言ったのは千弘さんですもん。大丈夫です、私がついてますから……ね?」
俺の顔を覗き込むようにして、眉間の皺をぐいぐいと伸ばしながら彼女は笑ってそう言った。自分だって不安だろうに、底抜けに明るく掛けられた声音と久遠ちゃんの体温に無性に安心する。情けないような気持ちもあるけれど、それよりもこうして彼女が気遣ってくれたことが嬉しくて、思わず破顔した。
「うん……そうだね、今の俺はひとりじゃない。キミがついてる」
そう言ってちいさな手に顔を寄せると、すりと肌で指先を撫でる。そこから伝わる体温が、今の俺たちふたりがこの現世に生きていることを実感させてくれて……とてつもなく安心した。

◇ ◆ ◇

「……な、なんとか……帰ってこれました、ね……」
部屋にたどり着くと、彼女はへたりと座り込んで疲れた声でそう言う。それもそのはずで、出発した頃まだ高かった陽は、すっかり沈んでしまっていた。鍵も持たない状態でなんとか彼女の住む家まで戻って来て、大家さんに開けてもらってようやく家に入れたのが今である。俺も疲れがないわけじゃなかったけど、それよりも初めて目にする彼女の部屋への興味の方が強かった。きょろきょろと、不躾だろうなぁとは思いながらも部屋の様子を眺める。
その様子を見留めた久遠ちゃんが、少しばかり居心地の悪そうな……気恥ずかしそうな顔で俺のことを仰ぎ見て「そんなに面白いですか?」とちいさな声でそう尋ねてきた。
「面白いっていうか……なんだろう、ほら……里で俺が住んでた家――あんまり生活感がなかったでしょう?元々は俺の家じゃないし、あちらは娯楽もなかったし……。こっちにいたときも病院暮らしだったから、私物とかあんまり持ってなくて。なんだかね、ああここは君が今まで生活してた場所なんだ……って思うと、すごく嬉しくて……」
あったかい、って言うのかな……とまとまらない考えを、そのまま口にし続ける。キミはこんな風に生きてきた人なんだ、こういうものが好きなんだ、いろんな情報が部屋を見るだけでわかる。よく整理整頓された部屋。綺麗に整えられた寝具。シンプルで、けれどどこか温かみのある置かれた家具たち。飾られた写真に、写る笑顔の彼女。友人たちと楽しそうに笑う姿――驚いて目を丸くした写真。どれもすべてが、ころころと良く変わる……でもそれが愛らしいと思わせる彼女の一瞬一瞬を、切り取っていた。
「……なんだかね、この部屋に……他でもないキミの部屋にこうして俺を招き入れてくれたことが、久遠ちゃんが俺を本当に信頼して……心を許してくれているんだなって伝わって、嬉しくって」
疲労感よりも、幸福の方が大きい。充足感と言えばいいのだろうか、空虚だった俺の内側を満たしてくれる感覚がする。初めて訪れたはずなのに、妙に落ち着きを覚えさえした。落ち着くなぁと思った瞬間、身体から力が抜けていく。さすがに死ぬかもしれないと覚悟をするほどの出来事から、ずっと気を張りつめっぱなしだった反動か……安堵を覚えた瞬間にどっと疲れが襲ってきた。かくんと膝を折って、壁に手を着く。
「千弘さん、大丈夫ですか……!?」
慌てた声を上げた久遠ちゃんが、腰を浮かせる。そっと伸ばされた手に支えられて、部屋の中央まで歩を進めた。
「とりあえず、座ってください……!」
心配そうに下げられた眉。自分だって疲れているだろうに、そんな様子を感じさせないほど真剣に俺の心配だけをしてくれる真摯な瞳。部屋に置かれたベッドに腰掛けるよう諭されて、恐る恐る腰を下ろす。彼女の身体に合わせたサイズのベッドは、俺の身体には小さくて壊してしまうのではないかと不安になった。
「今お水持ってきますから、ちょっと待っててくださいね……!」
「あ、うん……。ありがとう」
俺も比較的彼女に対してはお節介を焼いた気がするけれど、彼女も俺と似た者なのかもしれないとわずかに気を緩める。キッチンへ向かって手際よく準備をしていくその後ろ姿を目で追って、ちいさく息を吐いた。あの里では俺が『助ける側』だったけど、ここでは彼女に『助けられる』側が俺なんだなぁといきなり実感させられる。けれど、なぜだろう。そんなに悪い気はしない。
「……どうぞ千弘さん、お水です」
両手を添えて、手渡された水に口をつけた。こくんとちいさく嚥下をすると、冷たい水が染み渡って身体の渇きを嫌でも自覚する。
「ありがとう久遠ちゃん、ちょっと落ち着いたよ」
ちいさく笑ってそう言うと、彼女は俺の前にすとんと腰を下ろす。先の慌てた表情ではなく、少しだけ気を緩めた柔らかな表情。コップを俺の手から受け取って、テーブルに置く。ことんと鳴った音が、部屋の中で響いた。
「もっと寛いでくれていいですからね……って言っても、振袖だとあんまり寛げないですよね……」
千弘さんが着られるようなサイズの洋服あったかなぁ、と彼女は顎に手を当てた。むむ、と思案に耽るその表情は、あの里で見た色んな表情ともまた違っている。これが彼女の素なのだろうと思うと、隣に座って何気なくその素を見せられる相手として信用してくれていることが、こんなにも嬉しい。里にいる間、長らく俺は誰にも心を許せず緊張を強いられてきた。だからこそ、彼女の傍は落ち着いて呼吸ができる。こんなにも気を緩めていられること……ただ、それだけで胸が熱くなった。俺にとっての彼女は、なによりも暖かくて大きな存在だ。
「んんっと……多分上は前に買ったおっきいパーカーで行けると思うんですけど……スウェットあったかなぁ……」
明日千弘さん用のお洋服買いに行きましょうね!と言い残して、彼女はぱたぱたと服を探しに行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、これからの毎日も楽しくなりそうだなぁとちいさく笑った。

◇ ◆ ◇

「さて、遅くなっちゃいましたがご飯も済ませましたし……なんとか今日千弘さんが着るお洋服も見繕えたところで、お風呂にしましょう!」
夕飯の片付けを終えて、ひと息ついたところでぱんと手を叩いて久遠ちゃんがそう宣言する。まだ旅行のために取ってたお休みの間でよかったです、と笑った彼女に続いてお風呂場に案内される。そこでこちらを振り返った彼女が、少しばかり不安そうに俺を見上げた。
「……里の千弘さんのお家のお風呂とは比べ物にならないサイズなので、疲れが取れるかわからないんですけど……」
広い日本家屋はやっぱり良かったですねぇ……と零しながら、手早く準備をしてくれる。ずっと着ていたシラガミ様が用意してくれていた振袖は、傷まないようにひとまず虫干しにしておきましょうねとハンガーを出してくれた。振袖を脱いで襦袢になると、彼女が「あ」と声を上げる。
「……そういえば千弘さん、こっちのお風呂の使い方……わかりますか……?」
「うーん、自信ないかも……。本当に小さい頃しかこっちにいなかったし、それも身体弱くて介助してもらってたから……」
暮らした年数としては、完全にあちらの生活の方が長い。こちらにいる頃の記憶は、ほとんど病室の窓から見た景色で埋め尽くされているほどに俺の身体は弱かった。大の男が何を言ってるんだろうと、恥ずかしい気持ちがなくもないけれど、きっと彼女は笑ったりしないだろうから。くい、と袖を引いて彼女に問う。
「……あの、ね……久遠ちゃん。今日だけでいいから、一緒に入ってもらってもいい……かな?」
じわりと顔が熱くなる。けれど、彼女は一度目を瞬いた後にこりとやわらかく笑んで「もちろんです♡」と了承してくれた。

◇ ◆ ◇

ふたり並んでベッドに横になると、スプリングが軋む音がしてほんの少し身を固くする。シングルベッドにふたりで寝るのは窮屈ではあるけれど、意図せずとも密着する形になれるのは嬉しくもあった。
「一緒にお風呂っていうのも、結構楽しかったなぁ……」
ぽそりと呟くと胸元に顔を寄せていた久遠ちゃんがそっと顔を上げて、「気に入りました?」と微かに笑う。うん、と小さく頷いて顔を寄せるとふわりと揃いのシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。偶然にも、彼女が普段から好んで使っているシャンプーは桃の香りのものだった。あの里では常に溢れていて、生活の一部になっていた匂いがして、ひどく安堵する。
「それじゃ、時々また一緒に入りましょっか。ベッドももうちょっと大きいの買おうかなぁ……」
今のベッドじゃ千弘さん、足伸ばせないですもんねとまた思案顔に逆戻りしてしまった彼女の身体をぎゅうと抱きしめてくすくすと笑う。
「……俺、こうやって密着してられるのも好きだよ?」
「むぅ……そう言われちゃうと私だって引っ付いてたいですもん……」
「あは、でしょう?こうしてくっついてると、あったかくって幸せな気持ちでいっぱいになるもんね……♡」
互いの体温を分け合うようにして寄り添っていると、本当に満たされていく。俺のこれまでの人生には、自由があんまりなかったから。病弱だった幼少の頃はもちろん、あの里で非情にも行われていた矛先が自分に向いてからというもの……姿も見えず、声も聞こえないシラガミ様だけを頼りに生きていくしかなかった。死の苦痛が遠かった割に、あの里から出ようと思ったこともなければ、生活を壊してしまうのも怖くて改革も出来ないまま。ただ、こうして耐えることだけが俺にできることだと言い聞かせていた。
だからこそ、感情をこんな風に発露することも……誰かひとりにそれを向けることができたことも、自分自身が一番驚いている。でも、その変化が嫌じゃない。比喩などではなく、彼女と一緒ならどんな変化でも受け入れて乗り越えられる気がするんだ。
「はい、幸せいっぱいで……でも、死ぬかもしれないような体験を一緒に超えられたんですから……千弘さんと一緒なら、この先も何とかなると思えるんです」
言いながら、彼女の目蓋は徐々に落ちていく。うとうとと微睡みに誘われる久遠ちゃんの体温で、俺もつられるように「ふぁ……」と欠伸をした。こつんと額を合わせて、軽く触れるだけのキスをする。
「うん、俺もそう思う……♡今日、死にそうな思いをしたなんて思えないくらい。新しい生活の不安とかなによりも……踏み出してよかった、って思ってるんだ」
「ふふ、こっちでの生活のことはたくさん私に頼ってくださいね。なにしろ、シラガミ様にも千弘さんのこと頼まれたんですから♡」
そう言って眠たげな表情で笑った彼女の言葉は力強くて、お道化てあげてみせた細腕はなによりも愛おしい。桃源の里の桃よりも遥かにあまい、俺だけの果実を腕に抱いてこれからもそっと、ふたりで同じ未来を歩んで行くことがどうか叶いますように。

望んでいいなら偶には

2023/04/10


へたりと力なく横になったまま、焦点の合わない視線をぼんやりと彷徨わせている彼女を見下ろして、ベッドへ膝を乗せながらちいさく笑った。
「ふふ、ぼんやりしちゃって……。大丈夫……って、聞くまでもないよねぇ♡」
ちいさく軋んだスプリングの音と同時、さらりとその丁子茶の髪をかき混ぜると、緩慢な動作で目線がこちらに向けられる。
「……大丈夫では……ない、です……。後半、もう……記憶曖昧、で……」
掠れた声で返された声は、ほんの少しばかり拗ねていた。わずかに眉を下げて薄く笑みを浮かべると、数度形の良い頭を宥めるように撫でる。微かに目を細めた表情から察するに、怒ってはいないようだ。
自分も相当温和な方だと思うのだが、彼女も相当だなぁと改めて噛み締める。相当な無茶と負担を強いた自覚は、俺にもある。ただでさえ昼過ぎから|俺《﹅》が帰ってくるまでの間、それこそ際限ない『俺』の欲求不満の相手をしていたのだ。普通ならそれだけで音を上げていてもおかしくない状態だったろう。帰宅したときの彼女の呂律の回らなさから言っても、『俺』がご丁寧に目に入るところに残していった避妊具の空箱からも、それは想像に難くない。
無意識のうちにそのまま何度も頭の上を往復していたようで、ふと気付けば久遠ちゃんの意識はうつらうつらと微睡の淵にあるようだった。
元々、随分呼吸は落ち着いてきていたものの、意識は曖昧な状態だったのだろう。蒸しタオルで身体を拭きながら、もう一枚のタオルを目元を覆うようにしてかけてやると、すぐに呼吸音が穏やかな寝息に変わった。
「あらら、寝ちゃったかぁ……」
それもそうだろうなと思いながらも、そっと前髪を掻き分けて額へ触れるだけの口付けを落とす。
「無理させてごめんね、いつもありがとう」
それからもう一度、慈しむように彼女の頭をそっと撫でた。

◇ ◆ ◇

「ん、んん……」
吐息とも声ともつかないような音が漏れたのと同時に微かに目蓋が震えて、わずかに持ち上がる。ぱしぱし、と何度か瞬きを繰り返しようやくその瞳が像を結んだ。
「……あれ、私……寝ちゃってました……?」
「ふふ、おはよう♡ 疲れたところに温めたタオルをかけたから、そのまま眠っちゃったみたい……♡」
眠っていたと言ってもせいぜい三十分程度だ。後処理をして服を着せ、布団の中に彼女を再度運んでからそれほど時間は経っていない。「まだ眠っててよかったのに」と言いながら手を伸ばす。すりと触れた彼女の頬は、まだ眠気が覚めきっていないのか温かかった。平時でも高めの体温をしているけれど、眠いときにもぽかぽかと子どものように温かくなる体温が、愛しくて。くすくすとちいさく笑みを溢すと、察したのかバツの悪い表情を浮かべてまた、ほんの少しばかり久遠ちゃんの頬が火照る。
「……千弘さん〰〰〰!」
不満げに上がった咎めるような響きを含んだ声に、「ごめんごめん」と笑って応じてぱっと手を離した。
ここで彼女の機嫌を損ねるのはいただけない。ころころと変わる表情どれもが好きだけれど、やっぱり一番好きなのは幸せを噛み締めるようにして笑ってくれる表情だから。
「どうする?もういい夜分だけど、このまま眠る?それとも温かい飲み物でも飲んで、ひと息つく?」
目を細めて恋人を見遣ると、思案するように視線をついと左下へ下げて「んー」とちいさく声を溢した。
「……目、覚めちゃったのでひと息入れます!」
そうと決まればと身体を起こした彼女の行動の早さに、もう一度ちいさく笑って俺は「大丈夫だよ」と頭をぽんと撫でる。
「ふふ、元気でよろしい♡ まだ身体しんどいでしょ、俺が淹れてくるからゆっくりしてて♡ ホットミルクでいいかな?」
「ん……、じゃあお言葉に甘えてゆっくりさせてもらいます♡ お砂糖なしでブランデー入りがいいです〜!」
「……もう、ちゃっかりしてるんだから。時間も時間だし……寝つきが良くなるようにお酒はほんのちょっとだけだよ?」
「はぁ〜い」
「ふふ、いいお返事♡ それじゃ、ちょっと待っててね♡」
ひらひらと手を振って、足早に台所へと向かった。

◇ ◆ ◇

マグカップを片手に戻ってみると、彼女はベッドの上に身体を起こして、何とも言えない微妙な表情を浮かべもぞもぞと身動ぎをしていた。顔を覗き込むようにしてみれば、彼女は気まずげな表情でこちらを見上げる。
「どうかした?久遠ちゃん」
「ぇ、ぅ……それはその……ですね……」
問いかけに反応するように、勢いよく顔が真っ赤に染まり、言葉もしどろもどろになった。途端に視線が泳いで、俺の目から逸れていく。わかりやすいなぁ、と喉奥で笑って「はい」とマグカップを手渡した。口の中でもごもごと「ありがとうございます……」と返答をして、久遠ちゃんは大人しくそれを受け取る。こくりとひと口飲み込んだ。俺が隣に腰掛けると、気まずげに視線を逸らしたまま、彼女は立て続けに何口かホットミルクを口にしてほうと息を吐いた。俺も微笑を浮かべたまま、同じようにマグカップに口をつける。
「……あの、ですね……。その、まだ身体……違和感あって……」
「ふふっ、だよね♡今日結局、一日中俺と『俺』とシてたんだもんね?」
「お尻まで違和感あるんですよ……!なんかむずむずして落ち着かないです……っ!」
紅潮や赤面という言葉ではやさしいほど赤く染まった顔で、唇を尖らせて彼女はそう言った。むう、と突き出された唇と、膨らませた頬で全力で不満を表してふいと顔を背けられてしまう。確かに無茶をさせてしまったのは俺だから、今回ばかりは反論できまい。既に致した回数が十数回を超えているのをわかっていながら、意識をトバしかけるほど満身創痍の彼女の返答を待たずにリハビリと称して挿入したのも事実ではある。
「えー、でもお尻はほら……久遠ちゃん自身が『俺』のを欲しがったんでしょ♡」
「うぅ〰〰、それはそう……なんですけど……!」
千弘さんだってしれっと3Pしてみたかったとか言ったじゃないですか、と涙目でこちらを見上げた彼女は消え入りそうな声で何事かを呟いた。耳を寄せると、しばし逡巡した様子を見せたあと「初めてだったのに……」と溢される。それに思わず俺はぱちくりと目を見開いて、じっとりんご顔のままの彼女を見下ろした。
「あれ、久遠ちゃん気にしてるのそこだったの?」
「えっ、イヤだったとかじゃないんですよ……!でもその、どんどん千弘さんじゃないとダメになってる気がして……ですね……」
その声は徐々にか細く、弱くなっていく。つられるようにこちらを見上げていた顔も、どんどん俯き加減になってしまう。伏せた彼女の顔を隠すように、絹糸のような髪が流れた。さらりと流れた髪の合間から顔と同じくらい赤く染まった耳が見える。首筋もほんのり赤く染まるほど、ただこれだけのことに照れてしまう、いつまで経っても初心な部分の消えない、可愛い恋人。
「あは、今さら気付いたの?これだけ毎日毎夜、俺が愛してるんだもん……♡俺以外の人で満足できると思ってた?」
「……っ!? そんなこと思ってませんけど……っ!」
慌てて顔を上げて、そんな戯れのような言葉を否定する彼女の頭をぽんとやさしく撫でた。
「ふふ、別にいいでしょ♡ 俺とずーっと一緒なんだもん、知ってると思うけど……俺、これでもまだ遠慮してるからね?」
「ま、まだ遠慮してるんですか……!?」
「言ったでしょ、俺結構底なしだよ……って♡ 今日みたいに遠慮なく求めさせてもらうの、割と遠慮してるんだから♡だからこそ俺がふたりっていうのもいいかもなぁ……って思ったんだけどね?」
交代で仕事ができるなら、彼女と一緒にいられる時間が増やせる。それにこうして触れ合える時間も増えるなら、俺の仕事が忙しくて彼女に寂しい思いをさせることもなければ、今回みたいに欲を我慢しすぎてドッペルゲンガーを産むこともなかっただろう。
「ふふっ、でも久遠ちゃんの負担を増やしちゃうことになっちゃうんだけどね……♡」
でも俺ふたりに思いっきり愛されてなんだかんだ平気なんだもん、やっぱり色んな意味で相性いいと思うなぁと笑う。快楽に弱くて、すぐに蕩けて融けてしまう彼女を見下ろすのは俺にとっての幸福だ。仕事でいくら女性を抱いたって、彼女相手であればいくらでも欲求が湧いてくる。求めても求めても足りなくて、一度求めるともっともっとと欲が湧いて止まらなくなってしまう。俺にとっての最大の甘露がキミだから。今日はあんなに求めた後だというのに、また熱が燻る感覚がする。
「ね……久遠ちゃん、またこうして思いっきりキミのこと求めてもいい……?」
中身の少なくなったマグカップをベッドサイドに置くと、彼女の眉間にキスを落として囁いた。すりすりと頬を寄せれば、きめ細かく滑らかな肌触りが伝わる。戯れに耳を食めば、びくりとその身体が震える。手に包まれたままのマグカップをそっと持つと、彼女は大人しくその手を離した。それは無言の肯定。
「……本当に俺に甘いんだから♡ 今日はいっぱいシちゃったから、もうちょっとだけイチャイチャして寝よーね♡」

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慶くんHBD小噺

2023/03/06


少し前までは、毎週末通っていた見慣れた部屋。今ではほとんど毎日通い詰めている部屋で、のんびりと彼女と休日を過ごすためにテレビをつける。
ワイドショーなんかでやってるちいさな物事でも、彼女と話題にするのはなんだか楽しくて……ついつい、いつの間にかそれが習慣づいてしまった。
「……あ、そっか。もうすぐひな祭りなんだ。……けーくん、元気かなぁ~」
壁に掛けられたカレンダーと、そんな話題を今まさに放送中の番組。交互に目をやって、ぽつりと呟く。
「ケイさんがどうかしましたか、千弘さん?」
ひょこりと横から顔を出した彼女の問いかけに、「そっか久遠ちゃんは知らないんだっけ?」と返事を返す。小首を傾げながらこちらを見やり、身支度を終えて隣に腰を下ろす彼女を向き直ると、えっとねと言葉を続けた。
「けーくんね、ひな祭りの日がお誕生日なんだ。うちの店舗デリバリー形式だし、基本キャストの誕生日も特にイベントやったりするわけじゃないから……久遠ちゃんも知らなかったよね?」
「そうだったんですね、全然知りませんでした……。店舗にも結局あの日限りしか行けませんでしたし……うーん、でもお礼も兼ねてお祝いはしたいですね……」
彼女はずっと俺指名だったし、けーくんの誕生日を知らなくても無理はない。俺たちの仲を取り持ってくれたけーくんは、ほぼ同時期にずっと慕っていた常連のおねーさんと晴れて付き合うことになって、店を辞めていた。そのせいで俺も、けーくんとはそれ以来あまり会えていない。
「俺もお礼にご飯奢ってあげよー、って言ってたのも果たせてないんだよねぇ……。んー、でも誕生日当日は彼女さんのために開けときたいだろうしなぁ~……」
「ケイさんも辞めちゃって、あの時期お店もバタバタでしたもんね……。千弘さん、ケイさんと連絡はときどき取ってるんでしたっけ?」
テーブルの上に置かれたティーカップに手を伸ばしながら、彼女がそう尋ねる。俺は頷いて「うん」と応じながら、バツの悪い表情を浮かべた。
「……ホントにときどき、だけどね。お店では仲良かったけど、お互いプライベートの話とかあんまりしなかったし……」
お客さんのこととか、ちょっとした世間話なんかは良くしてたんだけどね、と言うと久遠ちゃんは「なるほど」とちいさく頷く。一応、あのお店での二大人気キャストとしてけーくんと絡むことは多かったけれど、わざわざ「どうしてこんなところで働いているのか」などの類いの話は、店の中では暗黙の了解的にタブー扱いになってしまっている。俺のように〝やりたくてやってる〟タイプなら別に忌憚はないのだろうけど、みんながみんなそうではないのだから――わざわざそこに突っ込む必要もない、というワケだ。
「今のけーくんからの連絡、ほとんどお勉強関係とかだからなぁ。俺がお店続けてるのは知ってるから、ときどき近くに寄ったときに顔出してくれたりしてるけど……なかなか、ね」
会えれば一番なのだが、俺の方も店にずっと詰めてるわけではない。なにより一番のお得意様だった彼女が恋人になった今、素直に店長に報告した結果「今のちーちゃんならやらないとは思うけど、お客として呼んじゃダメよ」とキツ~く釘を刺されてしまったので|あちこち移動《デリバリー》で、俺も忙しい日が続いていた。
「たしかケイさんの彼女さんって、私と同じくらいの年齢……なんですよね?」
しばらく考え込んでいた彼女が不意にそう口を開いて、藪から棒にそんなことを聞く。ぱちぱち、と数度瞬きを繰り返してから俺は「うん」とその質問に応じた。
「……で、確かほとんど毎日ケイさんのこと呼ばれてたんですっけ?」
「あはは、久遠ちゃんよく覚えてるねぇ。そーそ、店長曰くけーくんの彼女さんが〝いつものカノジョ〟でキミが〝週末のカノジョ〟だって♡」
「……な、なんかお店でのあだ名を聞いちゃうと、ちょっと居心地が悪いですけど……っ!うーん……多分彼女さんも、私と同じ理由で指名してたんでしょうし……」
サッと顔を赤らめながらも真剣に眉を寄せ、彼女は神妙に呟く。
「ん……そうだろうね、きっと。久遠ちゃんは〝週明けからのお仕事を頑張るため〟に週末に俺に癒しを求めたけど、彼女は〝明日の仕事を頑張るため〟にけーくんに毎日癒しを求めてたんだろうと思うよ」
あの頃の俺とけーくんは、店の規約も緩かったから……それなりに自由にやっていた。というより、俺もけーくんも指名客のほとんどが『|本番行為《そういうこと》』を求める人たちだったと言っていいはずだ。店長にもこっぴどく叱られ、いい歳をしてふたり揃ってお尻を叩かれたことも――……まだ、記憶に新しい。いくら自分のお気に入りのスタッフでも、今後はそういうことをしたら許さないからと店長に宣言されて、俺たちは接客姿勢を強制的に改めることになった。その件以降、俺は一時的にほとんどの指名客を失ったし……けーくんも詳しくは聞かなかったけれど、それなりに変化があったと思う。
俺はこの仕事をやりたくてやってるタイプだったこともあって、どうしてもお客さんにもそういったことを求めてくる人が多かったし、なにより俺自身もお客さんの求めには応えたい気持ちが強かった。そうすることでお客さんが喜んでくれるなら、なるべく応じてあげたいと思っていた。それで、自分の中の何かがすり減っていくことがあるなんて……考えもしなかった。一気に指名のお客さんが減って、暇な日を過ごす。あんなに忙しかったのが嘘みたいに、誰からも指名がかからない。求めに応じて、彼女たちの癒しになればいいと、本当に純粋にそう思っていただけだったのに。俺の価値はそこにしかなかったのかな……と、じわじわと削られていく。店長が俺たちにああして注意してくれたのは、自分を安売りするなと言う意味だったんだろうとそこで初めて気が付いた。多分、けーくんの方も彼女が初めて指名をくれて来店したのは、久遠ちゃんが俺を指名してくれたのと同じく……そういう変化があった頃なんだろう。
「……けーくんもきっと、俺と同じで彼女の存在に救われたんだろうね」
翌日に新しい宣材写真の撮影を控えたその日も、けーくんは「明日おねーサンがお店に来てくれるんだって♡」とはしゃいでいたのを思い出す。彼女は売上トップのけーくんのお客さんの中でも一番の太客のVIP会員だったし、俺の一番の上客は久遠ちゃんだったから……お互い、よく話題に上ったしおおよその人となりは聞いている。俺がそのおねーさんに会ったのはチェキを撮りに来た日一度きりだ。
「千弘さん、彼女さんに一度お店で会われてるんですよね?どんな感じの方だったか詳しく聞きたいので、思い出してくれたら嬉しいんですけど……!」
「え?うん、この子がけーくんのお気に入りのお客さんなんだ~♡って思ったから、ある程度は覚えてるけど……」
「あとできたら、ケイさんとこんな話で盛り上がった……みたいなことないですか?お店関連のことなら何でもいいので……話せる範囲で……!」
「……うーん、なんかプレゼントの参考になりそうな話あったっけなぁ……」
あまりの熱心さに、やや面食らいながら必死に会話を思い出す。ほとんどお互いの現恋人である彼女の、こういうところがかわいいだとかを話していたような記憶ばかりで……彼女に話せそうな内容ってあったかなぁと思いながら、けーくんとのメッセージのやりとりを見返してみた。少し遡ったところで、お店の制服でもあるカウボーイ服の返却についての話をしているのが目に入る。
「……あ!思い出した!キミとおんなじで、そのおねーさんも確かうちのお店の制服すーっごく気に入ってるみたい♡ あとそうだ、けーくんとアメリカ行ってみたいよね~って盛り上がったこともあるよ♡」
なんたって俺今、向こうに別荘買うっておっきな夢のために頑張ってるんだもんね~♡と言ってみせると、彼女は途端に何かひらめいたような顔をした。思慮深いわりにどこか猪突猛進で、ほんわかとして見えて意志が強い――……その瞳が、楽しそうに輝く。
「千弘さん、それですそれ!私はケイさんへのお礼の品、見繕うので……千弘さんは誕生日前後の日程でケイさんをご飯に誘ってお祝いとお礼してあげてください!」

◇ ◆ ◇

「へ~、それでこれ久遠さんから彼女にって?あはは、もー別に気にしなくていいのに律儀だなぁ~」
軽快に笑って、けーくんは「相変わらずちーくんとこも仲良さそうだね」と楽しげだ。けーくんも元気そうでよかった、と応じると「ありがとね、俺もおねーサンも元気だよ♡」とにこりと人好きのする笑みが向けられる。いつも彼女のことを語るときに見せていた、愛おしげで心が弾んで仕方ないという
「うん、俺がけーくんにお礼とお祝いを兼ねてご飯奢るから、自分はおねーサン宛に……って張り切っちゃって♡」
「俺の誕生日なのにおねーサン宛のプレゼントとか……なんだろ?」
がさがさと袋を手にしながらけーくんは興味深げに首を傾げた。そんなけーくんを見ながら、根掘り葉掘りと聞かれたことを思い出して苦笑いを浮かべて歯切れ悪く答える。
「んー……彼女の身長とかいろいろ聞かれたから、俺なーんとなく予想ついちゃってるんだよねぇ……」
「えー、ちーくんがそう言うってことはお洋服系だよね……?んー、俺にもわかるやつ?」
「あはは、聞いたら絶対けーくんも分かるよ♡ 俺たち全員出逢いの場と、前も話したけどほら……彼女たちふたりともあのお店のなにが気に入ってたでしょーか」
「えーなにそれ、ちーくん大ヒントじゃん。俺たち専用衣装でしょー?休憩時間に盛り上がったことあったもんね」
くすくすとちいさく身体を揺らして笑うけーくんが、そこまで言ってから「ああなるほど、でもって久遠さんがちーくんに聞いたのはおねーサンのことだもんね?」といたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「あは、俺も正解分かっちゃったかも♡ ……ねーね、ちーくんこれ今ここで開けてみてもいい?」
「けーくんが大丈夫なら俺はへーきだよ、どーぞ♡」
「ありがと♡」
袋を開けたけーくんの手の上に、見慣れた装束にとてもよく似通った服が現れる。――やや露出多めの、ウエスタン衣装。
「わっ、ほんとに俺たちの衣装にそっくりじゃん♡ へー、これおねーサン着たら似合うだろうなぁ……♡」
「多分彼女さんもサイズ合うと思うんだけど、ダメそうだったら遠慮なく言ってね」
「ちーくんも久遠さんも、ありがとね♡ じゃ、今日は俺も久々にあのコスチューム出しちゃお~っと♡」
以前の会話で、彼女たちふたりともこの衣装が大好きで……けーくんがお揃いで着てみたいなぁと話していたことを思い出したのだ。ふふーんと満足げなけーくんの口角は上がりっぱなしで、本当に楽しそうだった。
「ふふっ……ほんとにこれ着てアメリカ行く機会、頑張ってつくんなきゃね……お互い♡」
そう言ってみせると、けーくんは力強く頷く。
「ちーくんこそ!お互い、夢叶えたらちゃんと報告しあおーね♡」
これからもまたちょこちょこ会えたらいいねと、新しい約束を交わして。俺たちは笑顔で顔を見合わせた。

2023年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

思慕の感情

2023/02/25


「しおん〜、おーちゃんのお帰りやで〜♡ は〜、やっぱここが一番落ち着くわ〜♡」
そう言いながら、ソファの背から首を突き出してうりうりと頬ずりをする。ソファの上でくつろいでいた恋人は「煌雅くん、勢い強い……!」と苦い声を上げた。そうは言いつつ、動きを止めようとしたりはせんとされるがままになっている辺り、拒む気がないのは瞭然なのだが。ひとしきり頬ずりを終えると、しおんは頬をさすってひとつ大きく息を吐き出して、こちらを見上げた。
「……ていうか、煌雅くんなんかめっちゃご機嫌やない?なんかええことでもあった?」
「ンお?あー、なんやしおん……ま〜た今日の生放送見いひんかったな?」
彼女は元々、劇場にも足を運ぶ筋金入りのお笑い好きだ。今でこそライブへ足を運ぶ頻度も下がっているものの、お笑い番組も好んで見るし動画も見る。もちろん、俺の出る番組もチェックしてくれている……の、だが。どうにも『生放送』の番組だけは、出演時間に在宅であってもリアルタイムで見ようとしない。そんなわけで、はしゃいで帰宅すると毎回のように俺としおんはこのやりとりを重ねている。
まあかめへんけどやな〜とぼやいてから、ソファの前方に回った。すいと反対側に少し寄った彼女の隣、空いたスペースに腰を下ろす。ほんのわずかに落胆した気持ちがないと言えばウソになるが、あまり凹んでみせるのも強要しているようでいただけない。
「……ごめん、煌雅くん。応援してへんわけやないねんけど……」
ごにょごにょと口の中で気まずげに謝ると、しおんはふいと視線を逸らした。反射的にその視線を追いかける。なんでもないときに俺に対してしおんの物言いがここまで歯切れが悪いのも珍しい。っちゅーか、見た目に反してしおんは切り捨てるときはばっさり切り捨てる物言いをする。何度さっむいギャグを言っては白けた目で見られ、「それはナイやろ」とぴしゃりと容赦ない言葉を聞いたことか。
「……ええよ別に、言いたないこと無理に聞く気はあらへんし。それよりほら、いつも通りさっそく俺の勇姿見たってや〜」
ふと息を吐いて表情を緩めてから努めて明るくそう言い、リモコンに手を伸ばす。レコーダーを操作して、録画番組のトップにある出終えたばかりの番組を再生した。
「今日も頭からでええ?」
「ん……」
ちいさく頷いて了承した彼女は、ぽすっと頭を二の腕に預けてくる。言わずとも、甘えて心を許してくれているのはそれだけで伝わった。自分自身で自分のことを不器用だなと思う反面、普段は余程俺よりしっかりして見えるしおんもなかなかに不器用なところがあるなと……こうした瞬間にふと感じる。割合心を許した相手には、ぽろっと言葉を溢せる俺と対照的に彼女はこういうところで照れが勝つ。……というよりは、俺の『執着のなさ』を知っているがゆえにどこまでその想いをぶつけていいか測りかねている——と言ったところだろうか。
「どうせ甘えてくれるなら、俺の膝おいでぇや♡ な?」
悪戯っぽく笑って、つんと弾力の良い頬を指先で軽く突く。ぽんぽんと膝の上を叩いて示すと、戸惑い気味の視線がこちらを見上げる。ややあって、うっすらと耳朶を染めた彼女がわずかに腰を浮かせたのを見留めて、ぐいと身体を抱き寄せた。

◇ ◆ ◇

再生をはじめてしばらく。しおんはいつものようにすっかり俺に身体を預けて、番組に観入っている。ときおりくすくすとちいさく漏れる笑いに呼応するように、さらさらと腕の中で癖のある髪が揺れる。
他の誰かの取った笑いで楽しげにしているところを見るたび、絶対にしみちゃんともっと売れて、誰よりもこの子を笑わせてやれるようになったらんと……と、決意が強くなる。元々|相方《しみちゃん》と売れるのは目標ではあったものの、そんな風に子どもじみた感情を向けていることは相方にも彼女にも内緒だが。
……いや、しみちゃん辺りはすでに気付いていそうな気もすんなぁ。しみちゃんとは付き合いも長ければ、他人の変化に聡い男でもあるワケやし。
「ね、煌雅くん」
湧いた考えに眉を寄せて、渋い顔をして思案しているとふと彼女が俺を呼んだ。その声に我に返って、「どうしたん?」と問いかける。
こちらを見ないまま、進んでいく番組に視線を注いで、一挙手一投足をつぶさに目で追いながら。微かに甘えるような響きを帯びた声音で、彼女は続けた。
「……収録番組なら平気やねんけどなぁ。こうやって、あとで見るんも平気」
「……ん、おう?」
薮から棒に告げられた言葉の真意が飲み込めずに、曖昧に相槌を打つ。
「ライブや舞台の中継は平気なんやで。……でも、煌雅くんピン仕事の生放送だけがあかんの」
じわり、と。互いに触れた箇所から伝わる、高くなった体温は――果たして、俺としおん、どちらのものだろうか。
「生放送は『今、この瞬間』のことやろ?煌雅くんがおらんって言うのを実感して、なんか……」
そこで言葉を切った彼女が、ほんの少し。本当にわずかに、こちらを向いた。ほんのりと赤く染まった目元を、落ちた前髪が覆い隠していく。
「…………おーちゃんに会いたいなぁ、って。……寂しなるから、生放送だけは、ひとりじゃ見られへんの……」
ぽそりと、半ば吐息で消え入りそうな声でそう告げられる。口を開いて何かを言う前に、「以上!」と真っ赤な顔をしたちいさな恋人が、勢いよくテレビの方へと視線を戻して元通りの位置に収まった。その様子に、思わず毒気を抜かれる。
「ふは、そんなかわえー理由やったんか♡ そんならこれからも……こうやって帰ってきてから、ふたりで観ような♡」
クッションを握る彼女の手をそっと取って、にかりと笑ってそう言った。

狂おしいほどの〝愛〟

2023/02/01


自宅のドアの閉まるガチャンという音を遠くで聞いて、ほうとひとつ息を吐いた。
ただ吐いたその吐息だけでも、熱く……昂っているのがわかるほど。ぞくぞくと身体の底から湧き上がる興奮と歓喜に、思わずぶるりと身を震わせる。
「はぁっ……やっと、や〰〰っと俺のモノになってくれた……っ♡」
喜びから震える手に顔をぎゅうと押しつけて、声を漏らす。
彼女の前では言えなかった本音、格好悪いところは見せたくないと隠し続けた醜い感情。学生時代から抱え続けた、俺の大事な大事な〝初恋〟。――それらがやっと今日、八年の時を経て実を結んだ瞬間の……俺の歓びと言ったら。この感情を正しく形容できる言葉なんてないほどの歓びに、頭が蕩けてしまいそうなほどに打ち震えた。かわいい、かわいい、かわいい。そればかりで思考が埋め尽くされる。もっともっと、と焦ってはいけないことをわかっていながら……感情の制御が効かなくなるほどの熱情が身を焦がす。
ほかならぬ彼女自身の意志で、高校時代から学内で噂になるほどのアツアツカップルだった|夫《﹅》である後輩くんではなく。背信行為だとわかっていながら、自らの手で俺のモノを手に取り宛がって――自身のナカに受け容れてくれた。悲しみに涙して潤んだ瞳なんかじゃなく、もたらされる快感から潤んで蕩けた瞳で俺を映して。『千弘先輩』ではなく、『千弘さん』と甘く蕩けた声と表情で、何度も俺を呼んで求めてくれるそのサマと言ったら。
「ああ……ほんっとうに、かわいい……♡ もっと、もっと俺に溺れてほしい……♡ もっと俺だけを見て、名実ともに俺だけの|久遠ちゃん《モノ》にしたい……♡」
その昂った熱が鎮まるまで、初めて身体を重ねるというのに、歯止めが効かないほどの興奮から何度も何度も彼女を貪った。狂おしいほどに見たかった、俺だけに微笑む彼女の姿。快楽に溺れて、本能で俺を求める姿も、あられもない声を隠しもせず大音量で上げては、何度も名前を呼んで果てて――それでもなお俺を食い締めてくる、乱れた姿も。
嬌声の合間に俺の言葉に応じて、この行為のことを忘れないと言ってくれたことも。世界でいちばん彼女を愛しているのが、俺だというのを覚えていてくれると頷いてくれたことも。裏切られていた絶望や悲しみ、自分の行なっている浅ましくも恐ろしい裏切りである不貞への後悔や苦しみも含めたその他の全部の思考を捨てて、俺のことだけ考えてくれたことも……全部ぜーんぶ。あの時間のすべてが、俺にとっての宝物。俺が夢見た時間そのものだった。
「嬉しいなぁ、本当に……♡ キミとのえっち、ずっと忘れないって言ったけど……忘れられるはずがないよねぇ……♡」
――だって、これは他ならぬ俺の悲願へ向けた第一歩なのだから。「ふふ」と手の間から笑いが零れる。彼女の知らない、知らなくていい……どろどろとして醜く、胎の底に纏わりつくようなどす黒い感情。後から後から溢れて止まらない、八年間練り上げて凝り固まった、俺の劣情と欲望。
ピコンと軽快な音がポケットに入れたスマフォからして、手を外すと俺はそっとそれを引っ張り出した。通知欄に見える彼女の名前に、また自然と笑みが深まっていくのを感じる。
罪悪感からかぎこちない、『今日はありがとうございました。千弘さんのおかげで助かりました』という文字とお辞儀をするスタンプだけのシンプルな文面にぞくぞくと背筋を駆ける背徳を感じながら、彼女の家を辞すときに伝えたのと同じ言葉を……俺はもう一度なぞった。
『気にしないで、いつまでも俺が久遠ちゃんの力になるから。久遠ちゃんに呼ばれれば、いつだって駆けつけるよ♡』
送信してすぐについた既読通知に、蕩けて惚け切った彼女の表情と声音が……脳裏をよぎる。
『寂しくなったら、俺のこといつでも呼んで……?寂しくなくても……♡ これからもいっぱいしよう……♡』
『呼んだら、いつでも来てくれるの?寂しくなくても、千弘さんのこと呼んでいい……?……う、ん……これからも、いっぱいして……♡』
今日のじゃまだまだ足りない。俺の八年も募らせた想いはたった一度の行為だけじゃ伝えきれない。……嗚呼、可哀想な久遠ちゃん。これから俺の手で、あっという間に身体を作り替えられるなんてことも知らずに、下心しかない俺に心を許して、取り入られて『俺専用の久遠ちゃん』に塗り替えられちゃうなんて知らないままに、キミは快楽と背徳に溺れていくの。
「俺は|男優《プロ》だもん……♡ 技術もクソもない後輩くんなんかと違って、えっちのプロだから♡ キミのいいところも、これから感じられるようになるような微かな快感の種だろうと……ぜんぶ、手に取るように分かっちゃうのにね……♡」
大人しくて、控えめで。でも真っ直ぐ一生懸命で、ひたむきで明るい〝いい子〟のキミを深くて昏い穴の底で……雁字搦めにするために、今この瞬間の俺は生きてるんだから。
「……んっ♡ 思い出しただけで、また興奮してきちゃった……っ♡」
これまでは想像でしかなかった乱れる彼女の姿。今日からはもう、想像じゃない。表情を、声を、感触を……そのすべてを思い出すように目を閉じて、隠しきれないほどに昂った自身に手を伸ばす。
「久遠ちゃん……っ♡」
欲に溺れて、罪に塗れる俺に――もっと、もっと堕ちて来て。離れられないくらい、俺のこの裏切りを知っても――俺を、愛していると応えられるほど。どうしようもなく、俺に溺れて。キミの世界にいる男を、俺だけにしてほしい。

◇ ◆ ◇

燻って仕方のない熱を幾度となく発散して、すこしばかり落ち着いた頃、電話のコール音が鳴り響く。画面に表示される名前を見て、ちいさく笑いを零してから手に取った。
「もしもし、今日はありがとうね♡ おかげさまでバッチリあの子に目撃させられたよ♡」
電話口の声が、どうでしたかと尋ねてくる。この三年間、密に連絡を取り続けた俺の手の内でもある|共《﹅》|犯《﹅》|者《﹅》。
「ふふっ、それ聞いたら電話長くなっちゃうよ?裏切られて悲しんで絶望して泣いてる顔を見るのはちょっと心が痛んだけど、今さらだもんね♡ それにあの子って、そんな泣き顔まで可愛くって♡ ひとまず俺の提案には乗ってくれたから、ようやく第一歩……ってところかなぁ♡」
じゃあしばらくこちらから『旦那様』へのモーションも増やしましょうか、という提案の言葉にくすくす笑う。
「いいの?じゃあお願いしようかな♡ 相性良かった上に、思ったより|そ《﹅》|う《﹅》|い《﹅》|う《﹅》|コ《﹅》|ト《﹅》が好きな子だったみたいだから……ここからは俺の腕の見せどころ、だもんね♡ あ、そろそろ彼らに突きつけるための三年前からの素行調査資料、作成頼めるかな?近いうちに出番が来そうだから♡」
承知しましたと告げる電話の相手に、「今日は本当にありがとうね♡」と謝辞を告げて電話を切った。
ふんふふん、と気分の良さからつい鼻歌を口ずさんで、緩む頬もそのままに……そっと、机の引き出しから丁寧にファイリングされた資料を取り出す。ラベリングも何もされていない、無機質なファイル。慈しむようにその背を撫でて、ゆっくりと開く。高校を卒業してからの、彼女の動向がまとめられた一冊。
彼女の結婚式の招待状が俺のところに届いたとき、俺の中にあった善悪の均衡はふつりと音を立てて切れてしまった。なんで、彼より先に俺の方がキミのことを好きだったのに……結婚式で隣に立つのが、俺じゃないの。惨めで悔しくて、高校時代に目撃してしまった彼らのキスシーンがフラッシュバックする。あまりにも、鮮やかすぎる映像で。
……ねえ、久遠ちゃん。キミはずっと、俺がキミのことを好いていることに気付いていたでしょう。委員でもわざわざペアを組んで、少しでも長くキミといられることに固執して。そこまでしたのに、キミはたった一度ハプニングが起きたときに助けてくれたという理由だけで後輩くんのことを好きになって、たった一週間で学内でも知らない人がいないくらいのカップルになってしまった。
それでも俺と一緒にいるときのキミの態度は変わらなくて、〝誰かのものになってしまった〟実感が湧かなくて。ずうっとずうっと、淡い恋心を持ち続けたまま横恋慕を続ける。そんなある日に目にしてしまった、キミの愛しい人にしか見せない表情を思いがけず目にしたときの、俺の心に訪れた痛みを、苦しみを、今のキミなら理解してくれるかなぁ。
招待状の返送先の住所から、住まいを知って。名前と写真と住所があれば、簡単にその『依頼』はできた。
「……ああ、別れさせ屋さん?依頼したいことがあるんだけど……」
気付けば黒い衝動に突き動かされるまま、そんな電話をかけていた。特殊な仕事である以上、彼らは興信所のようなこともしてくれる。そこから三年もの月日をかけて、後輩くんにはハニートラップを仕組んで……言い逃れができないほど継続的な関係にさせて、彼女がその事実に気付いて思い悩んで、けれど誰にも相談できない状況を作り上げた。最初はなかなか食いついてくれなくて、キミが愛されていることを実感して安堵する気持ちと、相反してさっさと堕ちてしまってよと、昏い感情が毒を吐く。綯い交ぜになった感情で、ぐちゃぐちゃに壊れてしまいそうになるほどに。
同時にここしばらくは彼女の我慢が限界に来るまで、可能な限りエージェントには会う頻度をあげてもらった。何日も帰ってこない旦那、帰ってきてもずうっとずうっと朝帰りが続いて……暖かだったはずの家に、寂しくひとりきり。苦しいよね、辛いよね。でも俺が救ってあげるからね、と。毎日報告を聞いては、心の内でそう囁く。
同じだけの年数、丹念に調べ上げた彼女の行動パターンを利用して、昨日俺は偶然を装って八年ぶりの再会を果たした。彼女は本当に偶然だと信じて疑わなかったけれど、そうじゃない。イレギュラーの多い仕事もなるべく時間通りに片付けて、調整に調整を重ねた、俺にとっては念願の再会だった。
飲みに誘って、キミの好きそうな雰囲気のいいバーで、わざわざ強めの度数のお酒を『おすすめ』として挙げる。性格上、そうすればキミはおすすめされたお酒を頼むだろうということまで見越して。同時に頼む注文は、軽くてお酒の周りを阻害しすぎないものにした。
演じることは慣れたもののはずなのに、久々にキミに声をかけるときは震えたし、「結婚おめでとう」を声に乗せるときには抑えていた感情が溢れてしまいそうだった。
まだ俺がキミのことを好きだって気付いてもらえるように、あくまで『やさしくて気の利く先輩』の顔を保ったまま。……けれど、鬱屈としていたキミのお酒がハイペースで進むのは、気付いていても止めてあげない。彼女にとって俺が『ナシ』でないことを、雰囲気で誤魔化したあーんを受けてくれるかどうかで見定める。寂しさと人恋しさを誘発するために出られなかった結婚式の写真が見たいなぁ、と言うつもりでいた俺の目の前に置かれた携帯の待受が、ドレスを着た写真だったのを見たときは、あまりに出来すぎた出来事に、くらりと眩暈を覚えるほどで。天すらも俺に味方している、と嬉しくなった。
けれど同時に、当時の自分が危惧した通り……幸せそうに満面の笑みを浮かべるキミの表情に、胃の腑がずぐりと焼けるようにヒリついた。この表情を、俺以外の誰かの隣で浮かべないでと、心が叫ぶ。寂しげな横顔で酒を煽るキミを見ていると、ただの『やさしい先輩』でいようとした仮面が剥がれ落ちてしまいそうになる。酔いが回って赤く上気した頬も、とろんと落ちた瞼も。上がった体温で切なく吐かれる吐息も、なにもかも。このまま手篭めにしてしまいたい欲求を喉元で堪えて、動揺を見せないように細心の注意を払って声を絞り出した。
「いったいどれだけ飲んだの?呂律も怪しいし……もう飲むの禁止だからね」
「そんな酔ってないれす〜!え〜、千弘せんぱいもっと飲みましょ〜?」
「ダメったらダーメ。ほら、久遠ちゃんお水飲んで」
足元のおぼつかない彼女の腕を取り、歩けるかどうかをそっと顔を覗き込んで尋ねて。背に触れる体温とキミの重みに、胸が張り裂けそうになった。軽い、温かい。柔らかでキメの細かな肌に触れて、また燻る熱が身の内で焦れる。今日のために取った部屋にキミを連れ込んで、ベッドへ下ろした。苦しそうなのは、お酒が回っているから?それとも、誰にも言えない悩みを抱え続けることに疲れたから?
ふわふわと鈍くなった思考のキミに、ジャケットを脱ぐことを促して手を貸す間。真っ赤な顔でふう、と溢される吐息の熱さと酒と桃とキミの香りに、俺まで酔いそうになる。
「ねえ、久遠ちゃん……もしかして、身体疲れてる?」
そう聞いてマッサージと称して身体に触れた。上がった体温が、布越しにも手のひらへと伝わる。腰から肩まで満遍なく、次に足の爪先から徐々に上へと……意識せざるを得ない部位へ近付くように触れていく。やさしく、壊れモノを扱うように。俺の手の中で微かに身じろぎをして、時折ちいさく声を漏らすキミを見下ろしながら「毎日頑張ってえらい♡」と褒めては、キミにとっての俺が一緒にいて心地良い存在だと、意識へ刷り込む。身体の心配をして、あくまで下心がないことをアピールするためにお尻の下のギリギリ、足の付け根に触れる前に自ら際どいところであることに触れながら、身体のためだと言い聞かせた。
再会して数時間あまりで、こんな風に触れることを許してくれるほど俺のことを信用してくれているのなら、このまま俺のモノになっちゃえ……と、黒い願いを唱えながら。最後の仕上げに手を握る。俺が触れて、一番相手のことを理解できる箇所。恋人繋ぎの要領で触れたそこからは、身体の具合が良くわかる。これまでの呼吸と息の詰め方、身じろぎの間合いに声を溢す頻度――どれもが俺にとってはどこで感じられて、どの程度慣れていて、敏感なのかそうでないのか、そのすべてを推し量るための材料だった。
拒絶はない。少なくともキミにとって今の俺は『ナシ』じゃない。寂しくて鬱屈して愛されないと渇いた心に、長くキミを好いていた俺が今も向ける柔らかな好意は、身体と心に飢えを自覚させるに十分なそれだった。
そうして良い人を演じて眉を下げて、俺はこう口にする。
「久遠ちゃん、少しは反省してね。相手が俺だったからいいけど、こんなになるまで飲むなんて無防備すぎるよ?部屋に連れて来たのも俺だけど、うかつに部屋に入って……」
信用してくれたのは嬉しいよ、と心配を添えて。でも、俺だって男なんだからさと、燻る熱にスパイスをあげる。
そうして心にするりと滑り込んで、俺は信用できる人、やさしくて気の利く先輩、自分を真っ直ぐ見てくれる人のラベルを手に入れ、翌日浮気現場を押さえるための〝仕組まれた尾行〟に同行する権利を手に入れた。
そこからはとんとん拍子に進んだ。当然と言えば当然だ。後輩くんが裏切るのは最初からわかっていたし、裏切りを知って茫然自失としたあの子を言いくるめてしまうのも容易だった。抑えていた好意を顕著に示した上で、彼女の痛みに寄り添ってあげればいいだけだったから。
昨日の今日で身体を許してくれたあの子は、きっと明日も寂しさと飢えを満たすように俺に連絡をしてくるだろう。
「ひとりぼっちの暗い部屋は、寂しいもんね♡」
愛にも、満たされる行為にも飢えた身体に、何度も連続して絶頂する快楽を叩き込んだのだから。

◇ ◆ ◇

翌日、なかなか来ない連絡を焦ったく思いながらその日の仕事を終えると、帰りの移動車の中で通知音が鳴った。
『また今日も仕事が忙しくて帰れない、って』
そんな言葉が並んだメッセージ画面を、そっと撫でる。『寂しいの?』と問いかける返信を即座に返して、画面から目を上げた。
「チヒロさん、何かいいことでもあったんですか?」
運転席からちらりとミラー越しにこちらを一瞥した岡持っちゃんからかけられた言葉に、自分の口角が上向いていることを自覚させられる。
「ふふっ、ちょっと……ね♡」
「まあなんでもいいですけど……面倒事だけは御免ですからね」
「わかってるよ、だいじょーぶ♡」
なんたって俺自身、自分の中にこんな風に何かに執着する激情があったことに、驚いているくらいだもの。
『ひとりでいるの、寂しい』
そう返ってきた返信に、にこりと笑みを深めて。俺は岡持っちゃんに、そう応じた。

◇ ◆ ◇

「こんばんは、久遠ちゃん♡」
呼び鈴を鳴らしてそう声をかけると、ややあって扉が開かれ「どうぞ」と家の中に招かれる。
「ふふ、お邪魔しまぁす♡」
部屋でそっと俺を見上げてきた彼女は、どこか不安げに瞳を揺らしていた。
「……忙しいのに、ごめんなさい」
視線も合わせずにちいさな声でそう言われる。ああ、これは時間が経過してどんどん罪悪感が増してきたんだろうなと、彼女の顔を見下ろしてほんのわずかに眉を寄せる。そもそも彼女はいい子の部類の性格で、こういう時に容易に箍を外してしまえるタイプではない。だから時間が空けば空くほどに、良心の呵責に苛まれてしまうのだろう。もっともっと、頭のネジを馬鹿にしてしまわないと。
「もう、言ったでしょう?キミが呼ぶならいつだって駆けつけるよ、って。それに俺はこうして今日も会えて嬉しいよ♡」
俺のこと、頼ってもいい相手だと思って信頼してくれてるだけで嬉しいなぁとふわりと微笑んで言いながら、頭に手を置いた。おずおずとこちらを視線が見上げる。
「……それとも、久遠ちゃんは俺じゃ嫌だったかな?」
しょんぼりとした表情を浮かべてそう問い掛けておきながら、「そうだよね、本当は一緒にいてほしいのは旦那さんだよね」と心にもない言葉を吐いて目を伏せた。その言葉を耳にした瞬間、微かに息を吸い込む音が聞こえてくる。慌てた彼女の手が伸びてきて、はしと手を掴まれた。
「千弘さ……んっ!そ、ういう意味で言ったんじゃ……っ」
「……ほんと?それじゃあ久遠ちゃんは今、少しでも嬉しいと思ってくれてる……?」
じぃ、とまっすぐに目を見てそう聞けば、彼女はこくんとちいさく頷きを返してくれる。かわいい子。俺の掌中で転がされているとも知らずに、俺にしか頼れず……心を開けない。すり、と空いた手で彼女の頬をひち撫でして、掴まれたままの手を強く引くとその肢体を抱きしめた。ぐっと近付いた距離で、昨日のそれを想起させるような甘えた声音でそっと囁く。
「ねえ、久遠ちゃん。今の、ちゃんと言葉で聞きたい。……だめ、かな?」

◇ ◆ ◇

強い快楽には依存性がある。だから、これは麻薬と同じ。
「ふふっ、今日もいっぱい愛し合えて嬉しい……♡」
涙と涎でぐずぐずになった顔を晒して、身体を横たえすっかり惚けた彼女の髪を撫でる。散々された後で敏感になっている身体は、それだけでも微かに震えるほど。
「ごめんね、今日もキミに求めてもらえたのが嬉しくて……ちょっと無茶させすぎちゃった、よね?」
殊勝にそう聞けば、ゆるゆると視線がこちらに注がれた。
「……へーき、千弘さんがそれだけ私のこと好きでいてくれたって伝わるから……うれしい」
そっと伸びてきた手が、甘えるように数本だけ俺の指を掴む。きゅ、とすがるように握りしめられて、愛おしさで胸がいっぱいになった。
「久遠ちゃんを少しでも幸せにできてるなら、俺もすっごく幸せ♡」
そう言って頭を撫でれば、ふにゃりと蕩けた瞳が細められる。もっと、もっとずっと、俺のところまで堕ちてきて。
「これは意趣返しだもの。気に病むことはないんだよ、先に裏切ったのは旦那さんなんだから。今だってその前だって、俺たちがこうしてる間……旦那さんだって同じことしてるんだよ」
「ん……。でも、ね……不安なの」
揺れた瞳が、弱音を零す。俺に助けを求めて、後押しをしてもらいたいと期待の色が滲んだ瞳。舌舐めずりをしたいほど、早々に転げ落ちていってくれている彼女に、どんどん欲望が膨らんでいく。待ち侘びていたことを悟らせぬよう、細心の注意を払って顔と声をつくって――意外そうな様子を装いなにが、と問う。
「なにが不安なの、久遠ちゃん……?俺に教えて」
力になるよ、キミの力になりたいの。身を寄せて囁いて、その間も視線は少しも離さない。
「あの、ね……このままじゃ、千弘さんのことほんとに……すきに、なっちゃいそうで」
嗚呼ほら、もう一歩。坂道を転げてくれた。くつりとバレないように喉奥だけで笑みを吐いて、一層満たされていく想いを自覚しながら、俺は微笑む。
「……だめなの?久遠ちゃんのこと裏切っちゃう旦那さんのことなんか忘れちゃえばいいよ。ずうっとキミを好きでいた俺のこと、このまま好きになってくれたら俺はすっごく、すーっごく幸せだなぁ……♡」
今は身体だけの関係だっていいから、久遠ちゃんに必要とされて頼ってもらえて途方もなく嬉しくて、キミが望むなら望むだけ、俺がぜんぶ満たしてあげたい。
嘘を重ねた俺だけど――この言葉だって、まるきりの嘘ではない。

◇ ◆ ◇

そんな言葉から数日、彼女の身体はすっかり快楽で染められて、素直に俺を求めるようになった。……ううん、正しく言うなら『生半可な刺激でイけないように』俺が身体に学習させて倫理観の箍を壊した。キミの世界を俺だけにするために。
そこからは、元々素養の強かった彼女の身体をどんどんと開発していく。色んなえっちで気持ちいいことをして、俺だけはそれを受け容れられる、俺だけがキミをめちゃくちゃにできるとより強い依存状態へ陥れる。
……最初に後輩くんの浮気を知って、身体を重ねてから数週間。やさしくじわじわ蝕んでいく毒のような快楽にすっかり溺れたかわいい彼女は、毎日俺を呼んでは快楽を強請っている。
キスをすればすっかり自分から舌を絡めてもっともっとと強請るようになったし、ただそれだけでとろとろに蕩けたカオをしてくれるようになった。
「……そんなに俺とのえっちを好きになってくれたの?」
毎日来てくれて嬉しいと言いながら、今日も積極的に俺を求めてくれる愛しい愛しい想い人に「俺も久遠ちゃんと毎日会えて嬉しいよ♡」と応じて、意地悪くそんな問いを投げた。
「うん……千弘さんとのえっち、だぁいすきになっちゃった……♡」
情欲に塗れた瞳で俺を見上げて、久遠ちゃんが微笑う。その顔からはもう、大人しく控えめでいい子ちゃんだった片鱗はすっかり消し飛んでいた。俺の前でだけ、晒される彼女の表情。
「俺とのえっちの虜になっちゃったんだぁ♡ 今日も色んな気持ちいいことして楽しもうね……♡」
「ン、いっぱい楽しも……♡」
腰を抱いて深くキスを交わしながら、そんな会話をする。すっかり乗り気の彼女も、俺にしなだれかかるように身体を預け首に腕を回して舌を食む。
互いの吐息とリップ音の合間、微かにガチャンと戸の開閉音がして心が踊った。
……もうすぐだ、もうすぐ。もうすぐ久遠ちゃんに選んでもらえるかどうかが決まる。いつの日の情事からか、俺の名を呼ぶことも好きと言うことも躊躇わなくなった彼女はきっと、俺を選んでくれるから。勝ち誇るな、格好悪いところは見せず、男に対する蔑視は別として、あくまで彼女の気持ちに寄り添えと己に言い聞かせる。
微かな物音がして、扉が開いた。
「……なにしてんだ!それに、誰だその男っ!」
後輩くんの目が驚きに見開かれて、大声が響く。びくりと身体を震わせた彼女の背を、安心させるようにやさしく撫でる。
「ナニって……見てわからない?」
そう言いつつ、わざと音を立ててその男を睨め付けるように久遠ちゃんにキスを落とす。
「こういうことしてたの。それに、先輩に向かってその言い草はないと思うなぁ……後輩くん」
じとり、と。最大限の侮蔑を込めた視線を投げ、嘲弄しながらゆっくりとそう告げた。
「ッ……!おまえっ……!」
激昂した男が拳を振り上げた瞬間、「やめて!」と声を上げ眼前に彼女が立ち塞がる。それを見とめた瞬間に、胎の底から湧き上がる感情。ああほら、きっと彼女は俺を選んでくれる。そう思ったら、あとはするすると言葉が出てきた。久遠ちゃんの浮気を糾弾する言葉に、自分でも思った以上の冷たい声が響く。
「キミがそれを言う資格、ないでしょ?」
そう言ってあらかじめ用意していた、浮気の証拠の写真を彼の足元に向けてばら撒いた。ホテルへ入っていく仲睦まじい姿、入り口前で抱き合いキスを交わす姿。それらが写った、数週間前に彼女と押さえた浮気現場の写真。……そして、作成させた三年前からの浮気を裏付ける調査資料。
全部を突きつけて、「出来心で……」と言い淀む男に向けて、言い逃れができないことをもう一度言葉にする。
「三年が出来心なわけないじゃん。この期に及んでまだ久遠ちゃんの心が自分にあるって思ってるんだね。……でも……、久遠ちゃんはどうしたい?この男とやり直す……?それとも俺を選んでくれる……?」
静かに静かに、最後だけは身を寄せた彼女の顔を見つめて――甘えるように問い掛けた。

「……私は、私のことだけ……ずうっと見てくれてた千弘先輩がいい、千弘さんと一緒にいたい」

意志の強い声が、かつては愛した男を否定して……俺の名を呼ぶ。きっぱりとした断言、その男に注がれた視線はもう涙に濡れたそれではなく。はっきりとした拒絶を示すものだった。
「久遠ちゃんにずっと選ばれたかったんだ♡」
歓喜を隠さず、鼻先をすり寄せてそう囁く。彼女は俺を選んだのだから、金輪際キミは久遠ちゃんに近付かないでと言い含めて、〝ふたりの家〟だったはずの場所から彼を追い出す。
「離婚については、後々話し合いで円満に解決しようね」
じゃあばいばい、と。動揺する男の眼前で、扉を閉ざした。意思表示のようにガチャンとひと際大きく鍵をかける音が響いて、静寂が部屋を包む。
これでいい。このまま何事もなく調停を終えて、彼女を完全に俺の手中に収めるまで……あと少し。
「これでもう俺たちは何の隔たりもなくずっと一緒に居られるんだね……♡ これからも……どんなときも一緒だよ♡」
千弘さんと俺の名を呼ぶ久遠ちゃんを掻き抱いて、そう告げてそっと廊下を進む。証拠写真をばら撒いたままの彼らの寝室で、俺たちはまた貪るようにして互いを求め合った。
俺も彼女も、もう壊れてしまっているのだろう。どこか冷静な頭の片隅で、そんな風に俯瞰しながら……壊れた者同士、隙間を埋めるように身を寄せる。このまま一緒に壊れていてねと、呪いのような愛を胸中で唱えつつ同じ数だけの「愛してる」を声にして。

◇ ◆ ◇

「ほぉら、目ぇ逸らしてないでちゃんと見て?」
離婚調停を終え、久遠ちゃんと結婚式を挙げて……初夜に彼女を騙していた事実が露呈して早数週間。
今日も俺は愛する奥さんを抱きながら「夫婦で隠し事は良くないもんね?」と、ぐずぐずの彼女の身体を後ろから抱え起こして、画面に映した調査資料の一部を見せていく。
どれだけ俺の執着と愛が深いのか、俺がキミに何をしたのか、決して忘れられないように。
荒い呼吸と嬌声の合間にぽやぽやとすっかり溶けた思考で、彼女はか細く返事をする。
「……っ、は……はひ、ちひろさ……♡」
「んー、お返事できたのは偉いし……俺を見つめてくれるのは嬉しいけど……今は俺じゃなくて、ちゃあんと画面見て?ほらほら、この時の久遠ちゃんよく撮れてると思わない?」
ごりゅごりゅと、挿れたままの自身で奥を刺激しながらそう笑みを乗せた声でそう言えば、腕の中でガクガクと彼女の身体が震える。「ぁぁ゛……♡♡」と掠れた声を上げる声を傍で聞きながらぎゅうぎゅうと収縮を繰り返す肉の動きを感じて、俺も熱い息を吐き出す。
「ふふ、またイっちゃったの?どんどん俺のおちんぽ好きになっていくね、久遠ちゃんかわいい……♡ でも自分だけ気持ちよくなるのはだーめ、ほら腰あげて♡ この写真で終わりなんだから……今日の分の資料見終わったら、俺と一緒にいーっぱい気持ちよくなろうね♡」
噛み付くようにして耳を食みながら言い聞かせると、彼女は無言で首を縦に振った。その間も甘イキを繰り返して震えるナカの動きは止まらない。
元々初夜の頃にはとうに俺の手で作り替えられていた身体は、この数週間でさらに性感帯の開発を進められ、俺が触れて感じられない場所の方が少なくなってしまっている。もちろん、久遠ちゃんをもう二度と手放す気のない俺は、それを彼女に自覚させるべく普通なら開発してしまうと日常生活にすら支障が出る場所もぜんぶ、開発を続けた。
……だって、これも彼女の選んだ結末だ。
愛したはずの|元《﹅》旦那を捨てて、俺を選んで。初夜に実はキミをこうして隅々まで俺のモノにしてしまいたいと仕組んで嵌めたのだと聞いても、自分の選択を『後悔してない』と語ったのだから。
「そうそう、ちゃんと顔あげて見られて偉いね♡ ほら、ね?すっごくよく撮れてるでしょ、この日の写真♡ まあ、直接この目で見る姿が一番なんだけどね♡」
この日のお出かけでアイツとも行った場所、今度俺と一緒に行こうね♡と語りかけ、握っていた手を滑らせるように組み替えると、左手だけ指を絡めて繋ぎ直す。するり、と互いの薬指に嵌められた指輪を触れ合わせるように指をすり合わせると、「ン……」と彼女の口からちいさく声が漏れた。日ごとに募っていく愛しさに、まだまだ際限なくキミが欲しくなっていく。
「……ね、久遠ちゃんこっち向いて?キスしたくなっちゃった♡」
そう言えば、翡翠の瞳は素直にこちらを見上げる。涙を浮かべ上気した頬、嬉しそうに細められた顔が寄せられ、柔らかな唇が触れた。すっかり熱くなった舌が唇を割って、腔内に侵入する。時折荒い吐息を吐きつつも、歯列を撫で貪欲に貪っていく。絡められた舌を吸って、合間に唾液を送ればすっかり覚えた彼女はおとなしくそれを嚥下した。酸素を求めてわずかに離れた瞬間、次は俺が口内を犯す番。上顎を撫で、舌の裏の神経にまで這わせていく。ぶる、とちいさく震える振動と先より熱く蕩けた口内の温度が、彼女がまた軽く果てたことを如実に伝えていた。
「ぁ♡ っ、ふ……♡」
喘鳴のような吐息を漏らし涎を飲み込む余力もなく、明滅する思考と襲う快感の波を逃す術も持てず……俺が言うまま腰を上げていた彼女の肢体から、くたりと力が抜ける。そのまま予想通り自分の身体を支えきれずに腰が落ちると、彼女の膣奥がごちゅんっと派手な音を立てた。
「……〰〰〰〰、ァ♡゛」
彼女が息を詰める音とともに、ぱたぱたと愛液がシーツに飛び散る。ばちばちと爆ぜる快感に背を反らして、ナカの圧が一層増した。食い締められるその圧と、ひくひくと痙攣を繰り返す腹部の動きに、俺も思わず声を漏らす。
「っ、ん……♡ もう、ひとりで気持ちよくなっちゃダメってさっき言ったよ?俺」
「……ッ、♡゛♡♡ ち、ひろさ……っ……ごえ、んなしゃ……♡♡♡」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、すっかり呂律の回らなくなった彼女が必死にそう謝る。
「今日は悪い子だね?全然言うこと聞けないんだもん。今のだってイくなら顔が見たかったなぁ……」
拗ねた口調で言いながら頬を擦り寄せると、整わない呼吸で必死に息を吸って、彼女が「ひぅ」と怯えた鳴き声を上げる。
「抜かずにそのまま俺の方向いて、勝手に深イキしてきもちよぉくなっちゃった久遠ちゃんのぐずぐずになったお顔見せて?」
「ぇ、ぁ……♡ は、はぃ……♡」
腕を引いて起こしていた身体を解放してやれば、がくがくと震えた膝を叱咤して、彼女はゆるゆるとこちらを向く。涙も、汗も、涎も拭えないまま強すぎる快感に苛まれて、どろどろに蕩けて焦点の定まりきらない視線がぼんやりと俺を見上げた。
「あは、かぁわいー♡ 誰にも見せられない顔、俺だけに見せてくれてほんっとに嬉しい♡」
ちいさく微笑んでちゅ、と額に口付けを落とす。幾分か彼女の呼吸が整うのを待つ間、とんとんと背を撫でてやる。俺の手に誘われるようにして、預けられた身体は体温が上がりきってすっかり火照っていた。白い肌に朱が透けるのではなく、真っ赤に染まってしまっている。
「身体、ちょっと落ち着いたみたいだね。それじゃ、今日も頑張って最後まで俺に付き合って♡ 落ちちゃヤだからね?」
笑ってそう言ってから腰を引くと、「ぁ、ァ……っ♡」と上擦った声を上げた彼女が慌てて俺の首に腕を回してしがみつく。これから何をされるのか、すっかり覚えさせられた身体は否応なしに期待するし、焦点すら合わない瞳も同じ色に濡れている。
「ふふっ、期待してくれてるんだぁ♡ じゃあ、久遠ちゃんの期待には応えなきゃ……だよね♡」
遠慮せずにぜーんぶ受け取って、と言いながら無遠慮に昂りで最奥を穿つ。ずちゅんッ、とひと際大きな音がして「あ゛ッ♡♡」と声を漏らした彼女が崩れ落ちかける。腰を掴んで身体を抑えると、「ひぅぅ゛……」とベソをかいたような愚図った声がした。
「ぁぅ゛♡……ッ、ァ゛……♡千弘しゃ、そえ……き、もちぃ♡♡」
「ふふ、素直ないい子♡ ……ね、教えて。俺のしたことは覚えてるよね?恨んでる?」
配慮なんて欠片もない、ただ一方的に蹂躙して暴くだけの抽挿を繰り返す。彼女が果てようが果てまいがお構いなし。彼女は俺の欲をひたすら子宮にガンガン叩き込まれて、逃げることもできずに目の前を飛び散る星をそのままに縋って耐えるしかない。宣言通り、この問答が終わるまでに意識をトバそうものなら、もっとひどいことになるのを知っているから。
「ッふ、ぅ゛♡ひぉ゛♡゛へぁ、ア゛〰〰〰〰……♡♡ お、覚えて……るッ♡ ふ、〜ッ♡忘れられる、ワケにゃ……いっ♡ ァ、ん゛っ♡ 一生、恨むよ……っちひろさ、がシた……こと」
「いいよ、覚えてて。忘れずに一生恨んでね……♡」
ただの〝先輩〟として忘れられてしまうより、憎悪だろうと覚えていてくれる方がよっぽど嬉しい。はくはくと酸素を求めて喘ぐ彼女に、キスを降らせる。触れるだけのそれじゃ我慢できない。……もっと、隅々まで全部、キミがほしい。
「……キミを気持ちよくしてるのは誰?久遠ちゃんが愛してるのは誰かな?ほら、言って♡ ちゃあんと言葉で教えて♡」
ばちゅばちゅと肉のぶつかる音を立てて、うっそりと恍惚に蕩けた顔を見下ろしながら責め立てる。彼女の嬌声はもう、BGMと同様にひっきりなしに口から零れ落ちていた。
「ち、ひろさ……♡ ア゛♡ ぁ、愛……してるのも、きもちくして……っ、くれてるのも、ぜんぶッ♡ ん゛♡゛ 千弘さ……ん、ひとり……だけ……♡」
「あは、嬉しい……♡ そう、俺だよね。他の誰でもない、俺だけ……♡ 久遠ちゃんはもう、俺なしじゃダメになっちゃったもんね?」
「〰〰〰……ッ♡゛♡゛♡゛ ぅ、ん……も、千弘さん……ナシじゃ、だめっ♡♡ ダメに、なっちゃったぁ♡」
ひぅひぅと肩で息をしながらも、必死で俺の目を見てそう返事をしてくれる彼女が、狂おしいほどに愛おしい。
「素直ないい子♡ ね、そろそろ一緒にイこっか……♡」
そう言えば、返事より先にぎゅうと首に回された腕に込められた力が強くなった。より強く密着する肌から、上がりきった心拍も興奮で熱く火照った体温も、僅かな身体の震えのひとつすらも余さずに伝わる。
「……ン、ちひろさ……いっしょに、イこっ……♡」
〝最高の快感〟を求めてどろどろになった顔で、俺の大好きな奥さんはそう返事をした。その言葉に微笑みを返す。
「うん、ふたりで一緒♡」
どちらからともなく顔を寄せ、キスを交わして……高みに昇りつめていく快感の波を追う。呼吸の合間に〝だいすき〟と〝愛してる〟を囁いて、互いの名前を何度も呼んでは身体に触れる手に込める力を強くして。
――そうして、俺たちはふたり同時に果てた。

喘鳴を漏らし、俺の身体にその細くて手折れそうな肢体を預けて頭をふわふわさせる花嫁に、心が満たされていくのを感じる。
「今日もいーっぱい、俺しか見られない久遠ちゃんを見せてくれてありがと♡」
なでなでと頭を撫でてやれば、その手の動きに彼女は嬉しそうに目を細めた。すりすりと、自ら俺の手に頭を擦り付けるように擦り寄ってくれる。
「……ふふ、ねえ……久遠ちゃん?いつか恨んでる俺に、許せない俺に……同じように騙してハメたりしてやりたい?」
はらはらと流れる涙に舌を這わせながら、そんな意地の悪い質問を投げかけた。ややあって、彼女はまだ痙攣と収縮の終わりきらない身体を叱咤して、喘ぎすぎて掠れた声で返事をする。
「……しないよ、恨んでるし一生許せないと思うけど……そんなことがしたいわけじゃない、もん……」
ふるりと首を横に振った久遠ちゃんは、考えを必死に言葉にして伝えてくれた。まっすぐに、自分の言葉で。
「……そもそも千弘さん、罠に嵌めようにも私以外の人に興味ない……でしょ」
「あはは、うん正解♡ 俺が興味あるのは〝俺だけの〟久遠ちゃんだけだもの……♡」
する、と彼女の顎を撫でて上向かせる。そこにあるのは諦観でも憎悪でもない、きちんと俺に向けられた感情。
「仕事で誰を抱いたって構わない。千弘さんが本当の意味で好きでいてくれるのは、私だってよく知ってるから。……そう、考えたらね。ここまでして私のことが欲しかった千弘さん、す〰っごく……かわいい♡」
そう言って、彼女は笑う。満足げに、愛しさでいっぱいの視線を俺に注いで。蠱惑的なほどの笑みで、ふわり……と。俺の与えるそれらを噛み締めて。後戻りができないほど、壊れてしまった自覚を持ちながらなお、俺にだけ微笑んでくれる。
やっと、ここまで堕ちてきてくれた。ようやく本当の意味で手に入れたキミのことを、これからもずっと……ずうっと。
「一生変わらずにこうして愛してあげるから、死ぬまでずうっと……一緒に居ようね♡」

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手が掛かるほどなんとやら

2023/01/23


ぶるっと身震いするような寒さを覚えて、途端に意識が浮上する。ぱちりと目を開いて、ぼやける視界を何度か瞬きをして床の上に座り込んだまま整えた。
煌々とついたままの部屋の電気に、やや散らかったままの部屋。すん、と鼻を鳴らせばたこ焼きの匂いがまだうっすらと残っている。
「さむ……って、それもそうか……。服脱ぎ散らかしたままや……」
その辺に散らばったままの衣服を集めてから、そっと隣で寝息を立てている家主兼恋人を振り返ると、大変に満足そうな寝顔がそこにあった。たこ焼きで大盛り上がりした後、盛り上がりのまま一戦交えて早々に寝落ちしたことを思い出す。じわじわと熱くなってきた熱を振り払うように、ぶんぶんと大きく一度頭を振った。
「そりゃあ煌雅くんも疲れてるよなぁ、仕事忙しそうやし……」
あとでベッドに運んでくれると言っていた張本人も服も着ないまま床で寝ているところを見ると、自分のすぐ後に寝落ちしたのだろう。彼の分の服もさっさと回収すると、洗濯機に入れるついでに自分の着替えを済ませて煌雅くんの部屋着を取ってくる。このまま床に転がしておいては、風邪を引きかねないしどうしたものか……と、ぐうすか寝息を立てる彼の傍にしゃがみこんだ。
「おーちゃーん、おーちゃん……一回起きて〜。……アカンなぁ、もう完全に死んでるわコレ……」
名を呼びながらぺちぺちと頬を叩いてみるが、なにやらむにゃむにゃ言うだけで一向に起きる気配がない。ごろん、と寝返りを打つだけである。
「んー、どうしよこれ……。煌雅くんの方が身体おっきいんやし、冷えるん早いやろうに……」
お腹冷えるでー、と呼びかけてみるが変わりはない。困ったことに、こういうとき身長差と体格差の大きな煌雅くんと自分ではろくすっぽ彼を動かすことすらままならないのだ。
「あんまり起こしたくないんやけどなぁ、起きたら起きたときか……」
はぁ、とひとつ嘆息すると彼の下着を手に移動する。とりあえず裸のまま放逐しておくわけには行くまい、という思いではあるのだが、これはこれで今のタイミングで目を覚ましたら確実にニヤニヤとした表情で楽しげに「きゃー、しおんのえっち♡」などと言ってくるサマが目に浮かぶ。ちょっと面倒なので、その流れは遠慮したいところである。
「……くっ、こんなときちょっとこンのなっがい脚、腹立つな……!?」
両脚を通すのがまずひと苦労で、起こさないよう細心の注意を払っていることもあり、余計に時間がかかる。格闘すること数分——、なんとか下着とスウェットを履かせ終わった頃には、ぜえはあと肩で息をする羽目になっていた。
「えぇ……、もう上裸で転がしといたらアカンかな……。アカンよなぁ……」
脱力しきった人間の身体というものは、思った以上に重いんだなぁなどといらぬことを考えつつ、すっかり夢の中の彼を見下ろした。パーカーを着せようにも、腕を入れては寝返りを打つ間にすっぽ抜け、再度挑戦しようにも頭を上げつつ服を着せる—――という工程の難易度に、心が折れかかっていた。この上ベッドまで運ぶのは確実に無理なので、いい加減鼻でも摘んで起こすしかないだろうか。
……そんなことを考えていると、ごろりと寝返りを打った煌雅くんがようやく、仰向けの姿勢になった。
「助かった〜!」
小さな声でそう言って起こさないよう、体重をかけないように彼の上体を跨いで床に膝を着く。にじり寄るようにして頭の方へ近付きながら、そっと両腕を胸元まで引き上げて……後頭部に手を添えた、瞬間だった。
「んぉ……?」
寝ぼけ眼の淡い黄色の瞳と、真正面から思いきり目が合った。
一瞬の静寂が部屋を包んで、気まずい空気が流れる。いっそこのまま「なんや夢かァ」とでも言ってもう一度寝てくれへんかなぁ、などと祈る気持ちで身じろぎもせずに待ってみたのだが——現実はそう甘くはなかった。
にーっ、とゆっくり眼前で口角がつり上がっていく。目視した瞬間に、なんとか彼の上から退こうと腰を浮かせたのも……遅かった。腰を浮かせた瞬間に、がしっと思いきり大きな手で掴まれて、「うわっ」と気の抜けた声が漏れた。
こうなってしまったら、静寂を破ってしまった私の負け。
「なんや、ごっつええ目覚めやな〜♡ しおん、俺の上跨って手ぇ取って、なにしてたん?寝込み襲うとかやらしーなァ?」
楽しげな猫目にじぃ、と見上げられて「ああもう〜っ!」と悲鳴じみた声を上げた。わかっていてこう言っているときの煌雅くんは、タチが悪い。
「ぜっっったい、わかってるやろ!そもそも襲ってへんし……ッ!」
「えー、そんな言い方されたらおーちゃん寂しいなぁ……。ほんで、否定しながらも顔真っ赤やでーしおん♡」
よよよ、と泣き真似をした直後ににっこり満面の笑みで追撃を放たれる。今現在の体勢が恥ずかしい、という常識的な羞恥は今この瞬間捨て去るべきやったなぁ……と天を仰いだ。もちろん、言葉にしきれない綯い交ぜの感情から……である。
数度呼吸を整えてから、極力平坦な声を絞り出す。
「そりゃバツは悪いわ!上裸で寝転んでる煌雅くんの上にのしかかってる図、自分の状況俯瞰したら普通に恥ずかしいし……っ!」
「んはは、まあそうやろな〜♡ 俺はめっちゃ最高の目覚めやけど♡」
「二回も言わんでええから」
ぴしゃりとそう言うと、煌雅くんは人懐っこい相貌を崩してわずかに眉を下げ「ハイ」と頷いた。
「……ていうかそろそろ放してよ煌雅くん、腰浮かしてんの地味にしんどい」
もぞりと体勢を整えてそう言えば、腰を掴む手からほんの少しばかり力が抜ける。そういうとこ優しいし甘いんよなぁ、とつられるように眉を下げた。
「えー、せっかく服着さしてくれてたんやし、このまま最後までちゃあんと着せてえや♡ な?ええやろ〜?」
「わざわざ一番しんどい着せ方で続きさす!?……ええけど、ほんまに無理やから頭は自分で上げてな?」
「よっしゃ、着せてくれるんやったら任しとき〜♡ タイミングばっちし合わして頭上げたるわ♡」
楽しげに応じてにこにこと破顔されてしまうと、どうにも断れない。我ながら弱いなぁ、とひとつ嘆息してから離していた手を再度パーカーにかける。
「ん、じゃあ行くで。はい煌雅くん、ばんざーい」
「おう、あんじょう頼むわぁ♡」
着せやすいようになのか、小さくばんざいをした彼を見ていると先ほどまでの茶番が馬鹿らしくなってきて、ちいさく笑いが溢れる。ちゃんと宣言通りにタイミングを合わせて頭を上げるところもまた、可愛らしいところだなぁと思うと、なんだか妙にくすぐったい。
「……ん、これでちゃんと着られた?」
「あー、待って待って。起き上がるから背中の方、裾下ろしたってぇな」
ちゅーわけでちょおっと下の方までズレたってー、と言う声に合わせて太腿の上あたりまで移動する。動作に合わせるように起き上がった煌雅くんが、ささっと手早く裾を引き下ろしているとにへらと笑ってこちらを見上げた。
「ふは、寝落ちかましてもうて反省しててんけど……これはこれでごっつ幸せやなぁ♡」
またやってもらおかな〜、とふんふん嬉しそうに話す煌雅くんの様子に、すっかり毒気も抜けていく。
「……はずかしいから、頻繁にするんは嫌やねんけど……」
ぼそりと視線を合わさず抗議の言葉を返すと、すぐ傍で明らかに気落ちした声が響く。
「つれないこと言わんといてや〜!……いやでも待って、今しおん〝頻繁にすんのは〟って言うたよな?……ほーん?てことは頻繁やなかったらええ、っちゅうことやんな〜?」
によによとしたり顔の浮ついた声がそう尋ねてきて、言葉に含めた意味と意図ごと拾い上げて、やんわりと退路を断っていく。
「……今はええやろ、そんなん!ほらもー、身体ガッチガチに固まってまう前にベッド行こ!」
目覚めてもたら寝られへんなるやろ、と未だに固定されたままの身体を捩ってじたばたと手の中で踠いた。
「ベッドには行くけどやな……ちゃんとどういう意味で言うたんか言うてくれへんのやったら、このまましばらく解放したられへんなァ?」
にやりと意地の悪い笑みをひとつ溢して。すくっと立ち上がった煌雅くんの胸にしがみつく形で、すぅ……と手を離すような仕草をされる。いや、落とす気もなんにもないポーズでしかないのは明白な位置で、そっと支えられてはいるのだけれど。突然のことに必死でしがみつくしかなかった。
「ちょ、高い高い!しかもなんでこの抱っこの仕方!?」
「そりゃまあちょっとしたイタズラやし、いつも通りやったら反省せえへんやろ〜」
「最初荷物みたいに人のこと小脇に抱えとったのに……ズルない!?」
「そない言うけど……ベッド行ってもうたらしおん、秒で寝るやん。この状態ではさすがに寝られへんやろからな〜」
くつくつと愉快そうに喉奥で笑われて、返す言葉のなさにぐっと詰まる。もうちょっと起きとって、と言われた言葉を聞きつつも数え切れないほど寝落ちしてきた前科があるのは認めよう。「のび太並みやん」と言われたら反論できるワケもない。ぐぬぬとちいさく声を上げた後、諦めて口を開いた。
「〰〰ッ、たまにならいい……から!下ろしておーちゃんっ!」
「ん、素直に言えてえらいなぁ♡ おっしゃ、ちゃんとベッドの上に下ろしたるわ〜♡」
からからと笑いながらそう言った煌雅くんにベッドまで運ばれながら、こういうところが可愛いんよなぁ……と思っていることはそっと胸の内に秘めて。こんな風に馬鹿みたいなやり取りが出来るほど、気が置けない存在として認めてもらえていることが――じんわりと温かさをもたらしてくれる。
「……あのね、煌雅くん。ほんまに大好きやで」
胸に顔を埋めるようにして小声でそう告げれば、ほんのわずかに嬉しげに弾む心音すらも愛しくて。くすくすと笑って、その鼓動に耳を傾ける。
「……ほんっま俺のこと喜ばすん上手いなぁ、自分」
はーあ、と大きく吐いた息と同時、降ってきた声音に満足して目を閉じた。

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南天の空と星

2022/12/15


「はー、寒ぅ……凍え死ぬわ、こんなん!……しおん、ただいま〜」
家の扉を開けてそう言うと、ぱたぱたと小さな足音がしてひょこりと同居人――恋人が顔を出した。
「煌雅くんおかえり!めっちゃええタイミングで帰ってきた♡ 疲れてるとこ急かして悪いけど、ちょっと着替えて早めにこっち来てくれん?」
「んぉ?なんやなんや、しおん……ごっつはしゃいどらんか?」
「いーいーかーらー!戻ってきたらちゃんと話すから、ね?」
手を引かれて部屋の中まで連れて行かれたと思えば、ぐいぐいと背を押さえて着替えてくるように促される。要領を得ないまま「お、おう?」と、とりあえず応じると彼女はリビングの方へ戻って行ってしまった。まだ今日はおかえりのハグもしてないねんけどな〜……と、若干残った疲れを思いながらほんの少し肩を落とす。あれほんまに疲れ吹き飛ぶから楽しみにしてんのになぁ、とややぶすくれる気持ちがないでもない。
「……んまあでも、あないに楽しそうなカオされたらなぁ……」
断れへんっちゅーねん、と薄く笑って背広を脱ぐ。いそいそと部屋着のパーカーに袖を通すと、しおんのいる部屋へ戻った。
「……ん?この匂い……」
部屋の中に充満した甘い香りに鼻孔を刺激されて、ちいさく鼻をすんと鳴らす。その匂いは、間違いなくここしばらくで生活の中にすっかり根差した匂いだった。
「ん……なんやこの匂い、ミルクティー作っとんの?」
着替えてきたで、と言いながら小柄な彼女の背に控えめにひっついて横から顔を覗かせる。火にかけられた小鍋の中では、牛乳と一緒に先日買い込んできた茶葉が入れられていた。沸騰させないようにしながら、焦げ付かないようにやさしく鍋をかき混ぜる動作のたび、ふわりとその甘い香りが部屋中に広がる。
「おつかれさま〜、ごめんね手離せんくて……。そ、これできたら一緒にベランダ出よ思て♡」
「ベランダぁ?俺今さっき、さっぶいお外から帰ってきたとこやのに……自分えらい張り切っとるし、今日外でなんかあんの?」
「流星群!しかも今日これからがピークなん……!煌雅くんと一緒に見れたらな〜、て♡」
意見聞かんと勝手にはしゃいでもうてごめん、としょんぼりと肩を落としたかと思えば、不安げな菫色の瞳が伺うような視線でこちらを見上げた。と言いつつもその手元は止まることなく、煮終えたミルクティーの小鍋から茶葉を漉して|い《﹅》|つ《﹅》|も《﹅》|の《﹅》揃いのマグに注ぎ分けている真っ最中だった。あべこべに乖離した言動に、思わず笑う。
「ふは……っ、ええよ気にせんで。元からやめる気毛頭ないんやろ?もうブランケットも出してあるし、これも外が冷えるから作っとったんやろ。準備万端やん♡ ここまでされてかわいい彼女のお願い断るほど、鬼ちゃうわ!」
んでも寂しいから外でもこうしてくっついてよな♡と言い添えると、彼女の目元にじわじわと滲ませたように朱が差していく。
「あーあー、一瞬でこんな赤なってもうて……。ほんまにかわえーなぁ……♡」
「〰〰っ、え……ええから!ほらミルクティー冷める前に出よ!」
そう言ってずいと眼前に赤いマグを突き出されて、降参の意を示すために一度軽く両手を上げた。

◇ ◆ ◇

ここ数日でぐっと冷え込んだせいか、吐く息が白い。みるみるうちに悴んだ指先が、マグカップの熱のおかげでほんのり温まる。
「しおん、寒ない?」
大判のブランケットを被っているとはいえ、自分の背に掛けたそれを前に回す形で一緒に被ったそれは、どうしたってぐるりと一周できるほどの大きさはなく。――つまり、彼女の前面はほぼ覆えていないのだ。
先日購入したミルクティー色のもこもこのルームウェアを身に纏った彼女は、夜空へ向けていた視線をこちらへ寄越して苦笑いしてみせる。
「いやさっむい!下ショーパンやもん、脚冷える〜っ!」
やからはよ見れたらええんやけど……と言葉を続けたあと、手にした紫のマグカップに口をつけた。
「……あかん、もううっすらあったかいかな〜くらいになってるわ……」
「はは、しゃーないわこの寒さやもん。戻ったらあっためて飲みなおそ」
「う〰〰、そうする……」
ぽんぽんと頭に手を置いて薄く笑うと、じっとこちらを見上げた彼女がぼそりと呟く。
「煌雅くんのこと風除けにすればよかったな〜」
「お?別にええで、その方がもっとくっつけるやろ♡ 今からでもこっち来るか?」
俺しゃがんだらしおんも見えんことはないやろと言えば「冗談やってんけど……」と言いつつも、逡巡する様子を見せる。むむ、と眉を寄せて百面相を始めた彼女をしばし眺めて、寒さを我慢して出てきた以上、見逃したらもったいないかと空に視線を向けた。
都心の空は周囲の光のせいで普段はあまり星も見えないが、今日ばかりは風が強くて空気が澄んでいるおかげか……いつもよりも星が綺麗に見える気がする。――そんなことを考えていると、夜空を星が横切った。
「おっ、流れた!」
思わず声に出していた言葉に、しおんが「うそぉ!?」と声を上げて空を振り仰ぐ。
「待って待って、見れへんかった!」
「わはは、残念やったな〜♡ ほら、諦めてこっちおいでーや♡」
手からマグをさっさと取り上げて、気持ち腕を広げて「ん」と促すと、彼女は諦めたように腕の中に収まる。ブランケットを摘んで前で掻き抱くようにしたその耳が、暗い外でもわかるほど赤く染まっていることに気付いて、喉奥で声を殺して笑った。
「……もー、煌雅くん笑わんといて……」
雰囲気で察したのか、不満げに呟かれたそれに「すまんすまん」と笑って応じると、諦めたのかぽすんとちいさな背を預けられる。
「おー、ほんまに身体冷えとるやん。もうちょっと見れたらさっさと戻ろか」
「……ん。よう考えたら煌雅くん、お風呂もご飯もまだやもんね」
「明日も仕事やからな〜。ま、明日は劇場立てるし……しみちゃんと一緒やから楽しみやねんけど!」
じわりと滲んだ温かさが、幸福感から来るものなのか……はたまた触れる体温から来るものなのかはわからないが。確実に言えるのは、少なくとも彼女と出逢う前の自分ならこんな風に家に帰ってひとりだった時間に笑うことはなかっただろうということだった。
「あー……ほんま幸せやなぁ……」
しみじみと感慨を込めて呟くと、空を見上げたままそっと彼女の頭頂部に顎を乗せる。ぽつぽつと溢した言葉は、ほとんど独白に近かった。
「俺ひとりじゃ、もし流星群見れるてわかってても見んかったやろうし……こんなことしてなんになんねんー、って思ってたからなぁ。でも、なんやろ……やっぱやってみんとわからんことってあるねんなーって今めちゃくちゃ実感しとる」
気恥ずかしさを誤魔化すかのように「また初めての経験さしてもらったなぁ」とからからと笑う。ほんまに俺でええんかなとか、未だに心配になることも多いけど……でも、大事にしたいと思っていることや冗談ではなく本心で彼女のことが好きだと想っている気持ちはちゃんと伝わっているだろうから。
「……ちゃんと、ずっと隣におってや?」
聞こえるか聞こえないか程度の小声で吐息混じりに問いかけた言葉は、あっという間に夜の喧騒に溶け込んでいってしまった。聞こえんかったならまぁそれでええかと、口を開こうとした瞬間――。
「……一生隣におるって、約束した」
ちゃんと守りますよとそのまま潜めたやさしい声が言葉を続ける。
別の、当たり障りのない言葉を紡ごうと開いていた口が……紡ぐべき言葉を見失って、一瞬押し黙って。
「……絶対やからな、絶対!」
色んな感情が綯い交ぜになった息を深々と吐きながら、俯いて顔を押し付けてそう念を押した。

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葬斂

2022/10/22


「……そっか、報告ありがとう。オカモっちゃん、車回せる?あの地区に今いるファミリーで信頼できる人間を根回しに動かすよ」
部屋先で報告を聞いて、身体の芯が冷えていく感覚がした。……血の気が引いていくのが、自分でもよくわかる。
私室へ報告にやってきた|側近《オカモっちゃん》にそう言うと、彼は無言で頷いて踵を返した。後ろ姿を見送って、部屋へと戻る前にひとつ息を吐く。さすがに他のファミリーの前で、こんな顔は晒せない。今だけは堪えろと自分に言い聞かせて、扉を開いた。
「お……っと、クオンちゃん。……今の話、聞いてたの?」
扉を開くとすぐそこに険しい顔をした彼女がいて、思わず声を漏らしそうになる。すんでのところで耐えて、なんとかそう声を掛けると彼女は押し黙ったまま頷いた。
「……あの地区ですぐに動けそうな人員で、こういった頼みがしやすそうなのは彼かと。この時間なら連絡はこちらに。……それとチヒロさん、警察へは?」
「ああ、それはこっちに報告に来る前に奏くんがやってくれたみたいだから大丈夫。リストありがとう、ちょっと連絡してくるね」
監視や素行調査に向いていると思った彼女の適性は、ファミリー内の人員の精査にも役に立った。自主的に調べてまとめてくれた資料は、俺からしてもよく纏まっていると思う。こんなときまで頑張らなくていいのにと思うけれど、彼女のこれはきっと俺への配慮なのだろう。何も言わなくても、俺を支えてくれようとしているのはよくわかった。
ぽんと彼女の頭に手を置くと、何とも言えない表情で見上げられる。……それもそうか。彼女は数ヶ月前に俺が自ら元ファミリーの男を手にかけ、体調を崩しているのを目の前で目撃してよく知っているのだから。ほんの少しだけ苦笑を口端へ乗せると……どうしても彼女の前だと緩みそうになる心を、今は鞭打って前を向いた。
――今の俺が、できることをするために。

◇ ◆ ◇

「チヒロさん、車の準備出来ました」
階下へ降りると、ちょうど階段を上ってこようとしていたオカモっちゃんがそう言った。薄く頷くと、一緒に来ようとしていた彼女に制止をかける。
「現場へは俺とオカモっちゃんで行くから……クオンちゃんは、奏くんの手当てを手伝ってあげてくれないかな?」
……正直に言えば、俺の不始末で|こ《﹅》|う《﹅》|な《﹅》|っ《﹅》|て《﹅》|し《﹅》|ま《﹅》|っ《﹅》|た《﹅》|結《﹅》|末《﹅》を――……彼女には見せたくなかった。考えられる事態ではあったのだ。だからわざわざ、血の掟を重んじる向こうのファミリーを欺くために『|仮死状態にする薬《強い毒薬》』まで用意させたのだから。
……けれど。俺が信頼しているより、トーゴくんにとっての|俺《﹅》は――信頼できる相手ではなかったらしい。何年も付き合いのあった彼を、理解した気になっていた己が……今は一番憎かった。
「いいえ、私も行きます」
普段は俺の言うことに反論などしない彼女が、この時ばかりは強い口調でそうきっぱりと拒絶の言葉を口にする。断られると思っていなかったせいで、すぐにろくな返事も継げずに……俺はぱちくりと目を瞬いた。
「……クオンちゃん、死体に慣れてないでしょう」
一瞬の後、言葉を探してなんとか口を開く。思ったよりも幼子に言い含めるような口調になってしまって、彼女の眉が寄せられた。
「ボスと比べたらそうでしょうけど……だからと言って遠ざけるんですか?」
二の句が継げずに押し黙った俺に、芯の強い……揺るがない声音がそっと続く。「私は|リベラーレ《ここ》で生きていくと決めたんです。……私だけ現実から目を逸らすなんてこと、できません」と。静かに――けれど、明確な意思を持った言葉。捜査官としても新人だった彼女は、血腥い世界から遠いところで生きてきたはずなのに。〝俺と生きる〟と決めたから、その覚悟も出来ている……なんて言われたら。断れる言葉を、俺は持っていなかった。
「……わかった。けれど、無理はしないで」
逡巡の末――わずかに目を伏せてそう言うと、彼女はそっと呼吸を整えて「はい」と応じる。そして俺の手を取ると、静かに言葉を続けた。
「……行きましょう、チヒロさん」
その表情は強くしなやかで、そっと指先だけ繋がれた手から伝わる温度が……なんとか折れそうになった俺の心を、繋ぎ止めてくれている。ほんのすこし、躊躇った後……指先にだけ力を込めて握り返した俺の指先は――微かに震えていて、弱ったなぁと人知れず眉を下げた。

◇ ◆ ◇

微かな揺れを感じる車内で、三人とも押し黙る。普段は沈黙があっても気になりなどしないのに、今日だけはその静かさが重く――突き刺さる。息苦しい。ちいさく嘆息して、車外を流れていく景色をぼんやりと見つめた。夜の街は、そこかしこに闇が広がっている。……この街と同じ。
ぱらぱらとまばらな明かりが過ぎていくのを、無感動に見送った。いつもは気がかりな街の様子も、今は頭に入ってこない。ふぅ……と、聞こえない程度に息を吐いてそっと目を瞑った。ごうごうと流れる風を受ける音だけに耳を傾けて、頭を空っぽにする。
……頭を冷やすことを優先しろ、今は弱っている場合じゃない。これから行く現場では、それこそなにがあるかはわからない。屋敷を出る前はまだファミリーの|外《﹅》の人間には見つかってはいなかったけれど、トーゴくんに依頼した仕事は〝人攫い〟だ。掃除屋に依頼するそれの意味を、俺も彼も……彼女も、正確に把握している。もちろん向こうのファミリーだって、今も血眼で愛娘の行方を捜している。対応を間違えればファミリーを巻き込んでの抗争になりかねない。なるべく迅速に……そしてなるべく目立たないように、事を運ぶ必要があった。だからこそ、今は頭を切り替えなくてはいけない。いつまでも自分の過失に凹んでいる場合ではないのだ。ファミリーを背負って立つ身として、俺には俺の仕事がある。
しばらく振動を感じていると、腕にとんと軽い振動を感じた。無言で寄り添ってくれる体温に……息苦しさがわずかばかり緩和された気がした。じわりと溶けるように伝わるその温度が、平静を取り戻させてくれる。俺がすべきこと、俺が背負って立つもの。押し潰されそうになったけど――それでも、手放さないと改めて決めた大事な、大事な|家族たち《ファミリー》。彼らの顔をそれぞれ思い浮かべて、呼吸を整える。
「……ありがとう」
吐息でだけそう呟いてから。……ぽす、と。すこしだけ、ぴたりと寄り添う彼女の身体に体重を預けた。

◇ ◆ ◇

車を降りて扉を閉じると、外気はかなり冷え込んでいた。じゃり、と踏みしめた土が音を立てる。
「それじゃ、俺は車を置きに行ってきますね」
「ん、よろしくねオカモっちゃん」
静かに走り去る車の後ろ姿をすこしの間見送って、数本先の通りへと顔を向けると夜の帳がとっぷりと包んだ暗闇の狭間に、いくつかの灯りが浮かんでいた。
「……行こうか、クオンちゃん」
こくりとちいさく頷いた彼女と、並んで歩く。押し黙ったままの彼女の表情はやはり、どこか強張っていた。……よく見知った相手が死ぬのは、初めてなのだろう。少なくともファミリーに来てから、そう言った経験はないはずだ。以前俺がルオーゴ・スィクーロの名を騙った元構成員を処分したときも、わずかに眉を寄せていたことには気が付いている。それでも糾弾したりせず、掟に従った辺り――組織での身の振り方、というものについてはよく理解しているのだろう。
しばらく進んでいくと気付いた構成員がひとり、こちらへばたばたと走ってきた。彼が手にしたオイルランプがじじ、と鈍い音を立てる。近くに寄るとオイルの匂いが強く臭った。
「……首尾は?」
「……人払いは済んでいます。警察への手配は奏さんが済ませてくれていたので、向こうのファミリーにはまだ見つかっていません。検分は極秘裏に」
「……わかった、なら半数は引き上げていいよ。遅くに呼び出して悪かったね」
「承知しました。ボス……遺体、改めますか?」
その言葉に、ほんのすこし――沈黙が重くなる。しんとした夜中の路地裏を、わずかばかり静寂の帷が包む。その静けさに、声を顰めると……俺はちいさく顎を引いて頷いた。
「……うん、そうさせてもらえる?」
トーゴくんにはお世話になったから、と。そっと言葉を付け加える。その言葉に首肯を返して、彼は半身を引いて「どうぞ」と路地の先を示した。袋小路になっているそこは、普段ひと目はほとんどない。奏くんとの戦闘で多少荒れてはいるものの、騒動を悟られないよう人員も固まらずに哨戒しているようだった。
すでにふたつ並んだ担架に乗せられ、運び込む準備が整えられた彼らの遺体に対面する。申し訳程度に掛けられた白い布が、ぼんやりと夜闇に浮かび上がっていた。
羽織ったコートの裾を払い除けながら、膝を折ってしゃがみ込む。革の手袋を外そうと指をかけると、すっと手が伸びてきた。夜の闇でも白く浮く、肌の色。ふと視線をやると、こちらを真っ直ぐに見据えた翡翠の瞳がちいさくそれを制する。
「いいの、これも俺の始末だからさ」
そう言って曖昧に微笑むと、クオンちゃんはそっと手を引いた。それと反対に、俺は片手の手袋を外すと顔を隠していた布を胸元までそっと下ろす。
――その表情は、惜しむようでもあり……満ち足りたようでもあり。……いずれにせよ、俺が見たことのあるトーゴくんの表情のいずれとも違っていた。
背中に刻まれた無数のタトゥーを思い浮かべて、ほんの少し視線を落とす。腕のいい職人だった。傷を隠すために増やしていったタトゥーの多くは、彼の入れたものだ。職人としての腕も、秘密を誰にも漏らしたりしない性格も……信頼に値した。|マフィアのボス《こういう稼業》がゆえに、俺は例えどんな場所であっても気は抜けない。――唯一の例外である、俺の屋敷にいる時を除いて。それですら襲撃の恐れはあるし、招く相手も考えてはいる。無作為に人を呼ぶべき場所ではないから、構成員に会うときですら俺から出向くことが多いほど。身体を預けざるを得ない場所で、命を狙われる可能性を考慮しながら……それでも信頼して預けられる相手というのは、本当に貴重だったのだ。
この背のタトゥーを知っている人間は、奔放だ色情魔だといいように言われ続けた俺の習性のせいでそれなりにいるけれど……その本当の意味を知っている相手はほとんどいない。俺が明かしたのではなく、自力でそれ気付いた子は……ただひとりしかいないほど。それくらい、彼の腕は良かった。友人としても、掃除屋としても……だ。
目を閉じると――、そっと十字を切る。気安いやりとりができるファミリーの|外《﹅》のヒトというのは、俺にとっては気の休まる相手だった。友人として、本心からそう思う。彼が、俺のことをどう思っていたのかはわからないけれど。それでも、わかったことがあるから。
「……行こうか」
すっと立ち上がると、背後で祈念している彼女に声を掛けた。「はい」と応じて彼女も立ち上がる。
「……遺体は手筈通りに。くれぐれも丁重に、ふたり揃って運んであげて」
そう指示を出すと、案内役を買ってくれた構成員が重々しく頷いた。それを見届けてから、踵を返す。

◇ ◆ ◇

屋敷に戻った頃には、空の裾はほのかに白み始めていた。夜通しでの対応に、さすがに疲労がこみ上げてくる。
私室の扉を閉めた瞬間、帽子もコートも手近なところへ放り投げてベッドへと腰を下ろす。詰めていた息が思わず口からふと零れた。ぐしゃりと髪を掻き混ぜて、天井を仰ぐ。
扉の近くで佇んでいた彼女がそっと放り出したそれを回収すると、コートスタンドへ掛けたのか、ちいさな物音が伝わってきた。
感情と思考が綯い交ぜのまま、視線を戻せずにしばらくぼんやりと虚空を見上げていると、静かに扉が開閉する音がする。ふと手を離して部屋を見渡すと、部屋の中は無人だった。
……見かねて、ひとりにしてくれたのだろうか。そうなのだとしたら、今はその気遣いよりただ傍にいてくれた方が嬉しかったなぁと、弱った心でそんなことを考える。膝を抱えるように丸まって目を閉じる。がしがしと後頭部を掻きむしっていると、キィと扉が音を立てた。顔を上げず視線だけをそちらにやると、眉を下げて複雑そうな表情をした彼女がマグカップを手に部屋へ戻ってきたところだった。こちらを向いた瞬間、わずかに目が合う。曖昧に口端を上げた後、こちらへやってきた彼女がマグカップを差し出した。
「……ホットミルクです、どうぞ」
「……ありがとう」
差し出されたそれを受け取って、礼を言う。両手で抱えたマグカップを傾けて、ひと口だけ口に含む。温かくてやさしい味が口に広がって、冷えた身体にじわりと沁み込んだ。ソファに腰掛けた彼女が、同じようにマグカップに口をつける。しばらく無言でそうした後、空になったマグカップをサイドテーブルへ置いた。ソファから腰を浮かせたクオンちゃんがこちらへ歩を進める。ベッドに腰かけたのか、ぽすんと微かな振動が伝わってきた。そのまま凭れるように体重が預けられて……背中に温かな体温が触れる。
その温かさに、感情と……実感が、込み上げてくる。ひやりと冷たくて、硬直した肉体。何度死体を目にしても、触れても――心地の良いものではない。裏切られた相手だとしても、|家族《ファミリー》や知人、友人の死を見るのは辛いものだ。特に親しくしていた相手が亡くなったのは久々で、しかも俺が仕掛けた内容が元で死なせてしまった相手というのは――初めてだった。この十字架は、俺が一生背負っていくべき咎としてこの心に深く刻まなくちゃならない。
「……彼の生い立ちは、調べてたんだ」
……ぽそり、と。言葉を溢す。彼女にも話していなかった内容。
彼は養護施設の育ちで、その頃親しくしていた|女《﹅》|の《﹅》|子《﹅》がいたらしい。彼らは大層仲が良くて、ずっと一緒にいたのだ……と。それこそ、家族同然の存在だった。
「でも、里親が現れたんだ。……あの子は葵音さんって言うんだけど、彼女の里親になったのは例のファミリーのボスだった」
トーゴくんがずっと探しても見つからないワケだよ、と小さく溢した言葉は微かに震えていた。誤魔化すようにふぅと細く長く息を吐いて、呼吸を整える。
「……彼のお店に資金援助したのは、話したよね?」
「はい」
「知り合ってすぐに彼の生い立ちは確認済みだったし、俺としても安心して通えるお店で……しかも腕の良い職人ともなれば、手放したくはなかったっていう思惑があったのもほんとだよ。でもそれだけじゃない。トーゴくんにファミリーに入ったら、ってずっと誘ってたのは……そういう事情もあったんだ」
個人で探すより、|俺のファミリー《リベラーレ》の力を使った方がそういうのは探しやすいから。そう言葉を続けて、ひと息区切った。彼の方も、俺のそういった他人に見られたくないという個人的な|事《﹅》|情《﹅》はある程度理解した上であの申し出を受けてくれたのだろうし、そう言った意味ではお互い様だ。
「だから、彼が親しくしていた女の子を捜し出すのに随分時間がかかっちゃって……今回のこと、俺はね……本気で彼らが自分たちで選んで、それで逃げるのならそれでいいと思ってたんだ」
もちろん、俺がした『仕事の依頼』は掃除の依頼だ。それも、とあるファミリーの|ボ《﹅》|ス《﹅》|の《﹅》|娘《﹅》を殺してほしい、という依頼。俺は最初からそれが彼にとってどういう人なのかをわかった上で依頼した。ファミリーからの足抜けなんて、許されてはいない。――特にボスの愛娘が足抜けなんて、許されるわけがない。次のカポ、ボスになれる器量の男を娶って子を産むことを強要される――そういう|立ち位置《ポジション》。……そんな生活に、自由などあるはずもなかった。自由意志を持つことすら禁じられる、鳥籠の中に囲われるような生活。暮らしは昔より良かったかもしれないが、〝|自《﹅》|由《﹅》〟を謳う俺の信条からすれば、そんなのは監獄と同じだった。
相手のファミリーは特に血の掟に厳しい一家で、一度マフィアという稼業に身を置いた以上、抜けるときは相応の対価が必要になる。原則として、やめることが許されるのは死んだ時だけ。ファミリーごとに足抜けの条件に違いはあれど……俺たちが身を置く|裏《﹅》|稼《﹅》|業《﹅》なんてものは、得てしてそういう世界だ。俺はこの道を自分で選んだけれど、彼女は違う。子どもの頃に里親として現れた存在がファミリーの長だった以上、選択肢なんてなかっただろう。あの一家はそういうところでお金は惜しまないし、孤児院側もなにも言えなかっただろうことは容易に想像がつく。
――調べた限り、葵音さんという女性はボスの愛娘として積極的に|社交の場《パーティー》にも出席していたらしい。人当たりも良く、笑顔を絶やさない……ファミリーにとって不利益をもたらさない存在になること。それが彼女にとっての身を守る|術《すべ》だったのだろう。
「……キミにはもう話したけど、他の人の自由を奪うことをリベラーレでは良しとしてない。|悪《﹅》|い《﹅》|力《﹅》に抑圧されて自由になれずに苦しんでいるひとりぼっちの人たちの救いになればいい、誰をも家族として受け入れてあげられる場所であればいいと思ってファミリーを運営してる。……それは、この街の人たちに対して等しく抱いてる気持ちだから」
ぐしゃり、とまた髪の毛を掻き混ぜた。はらはらと髪が顔にかかるのを無視してその手をそっとシーツの上に戻すと、はぁと吐息を吐き出す。言葉を探すようにしばらく黙り込んでいるうち、彼女の指先がちょんと手に触れた。ちいさく細い指で、そっと指先が撫でられる。じわりと滲むように伝わる体温に、今日はまた一段と安堵した。
「トーゴさんたちも、その中に含まれてたんですよね」
俺の言おうとしていた言葉を肩代わりするように、彼女がそう続ける。「うん」とちいさく応じて、迷いながら途切れ途切れに言葉を吐き出していく。
「家族が……〝無条件に信頼して結束できる相手〟がいることの安心感は、それだけでとても心強いものだから。トーゴくんが俺のファミリーにくる気がないのはわかってたけど、それは裏を返せば……それだけ彼女に対する思い入れは特別だってことでもあるでしょう?」
「……そう、ですね」
「だからね、彼女と逢ったら……彼は逃げると思ったんだ。けれど、あれだけの規模のファミリーから逃げ続けるのは到底無理だ。それは裏の稼業に身を置いていたことのある者ならわかることだから。……それならいっそ、彼女が|死《﹅》|ん《﹅》|だ《﹅》|こ《﹅》|と《﹅》を向こうのファミリーに確認させれば、その後はもう安全になるだろうと踏んで……そうすれば自由に彼らが生きられるようになるって、信じてた」
「……でも、トーゴさんは信じなかった。彼にとって、信頼に値する〝|家《﹅》|族《﹅》〟は……葵音さんだけ、だったから」
「さすがだね、クオンちゃんは。……そう、その通り。彼にこの仕事を依頼する前に、それに気付けなかった俺が引き起こした|結《﹅》|末《﹅》が今回のことだよ」
奏くんに託した薬は、二種類あった。片方は仮死状態にする薬。もう一方は生命活動を再開させるのに必要な薬だ。元々危険な|薬《ドラッグ》や適正量を超えたそれを、うちの管轄区画でファミリーの目を盗んで売買していた独自のルートを持つ奏くんがいたからこそ、できた計画だった。
……そもそも無理に生体活動を止める薬なのだ。一度服用したらそこからなるべく早く解毒薬を服用しなければ、二度と活動は再開できなくなる。……そのリミットは一日以内、だ。トーゴくんとの戦闘で割れてしまった解毒薬のストックは存在しない。無理な要求をして用意してもらった薬だからこその、諸刃の剣。
「……まるで、もうひとつのロミオとジュリエットですね」
「シェイクスピアの……?仮死毒を飲んだジュリエットを見て、錯乱したロミオが自死を選ぶ……か」
復唱するようにそう呟いて、合わせていた背中を外すとそのまま後ろにぼすんと倒れ込む。しばし天井を仰いで、目蓋を閉じた。額に手を当てて、息を吐く。纏わりつく疲労感に、徐々に思考が愚鈍になっていくのを感じる。
「あの物語では、ジュリエットは仮死状態から一度醒めますけど……。チヒロさんは、あの物語を悲劇だと考えますか?」
「……どうだろうね、あの物語はそれ単体で見れば悲劇のようだけど……他の四大悲劇とは毛色が違うから……」
「……一般論ではなくて、チヒロさんがどう考えるか……ですよ。でもまあ……今はよしておきましょうか。起きたら教会でしょう?……今は、おやすみなさい。チヒロさん」
やさしく降ってきた声と同時に、ふわりと頭を撫でられた。彼女も相当眠いのだろう、その手の温度は先ほどよりもぐっと上がっていた。その温度が融けていくようで、急速に深淵の淵に落ちていく感覚がする。
「弱ったなぁ……ホント……」
――漏れた声は、思った以上に声音を取り繕えていなかった。

◇ ◆ ◇

リベラーレは街の中でも二大勢力に位置するファミリーになっていることもあり、中立地帯の教会にはそれなりに顔が利く。警察が腐敗しているこの街で、別の形で街をまとめて正義を行使するためには……力が必要だったから。弱き者を助けるための門扉になる教会には開けていてもらわないといけない。そのために、教会への寄付は惜しまなかった。……構成員が亡くなったときにもお世話になっているのだから、当然と言えば当然のことなのだけれど。
――静まり返った聖堂内に、普段はある街の人の姿はない。たったふたりきり、亡骸の収められた棺を前に白百合を捧げる。喪主もいない、簡素な式。
「……昨日も思いましたけど、ふたりとも穏やかな表情……ですね」
「……そうだね。こんな風に笑ってるトーゴくんの顔、見たことないもの」
献花を終えて、出棺を見送りながら……ぽつぽつとそんな風に言葉を交わす。最期に彼が浮かべていた表情は、とてもやさしく温かく――そして、穏やかな微笑だった。長年の付き合いがあったけれど、トーゴくんが笑顔を浮かべているところなど見たことがない。感情の起伏が薄いと言えばいいのだろうか、無表情か呆れたような表情を浮かべていることが多くて……見せた表情のほとんどがそれだった。
「ただ、昔話をするときの彼の表情だけは――慈しむように柔らかくて」
遺体が浮かべていた表情を見ればトーゴくんが彼女のことを心の底から大切で、大事で……信頼していたのだということをそのひと目で理解できるような。……そんな表情だった。
ばたんと閉じた戸を見つめて息を吐いてから、背後にあるステンドグラスを仰ぎ見る。日差しを浴びてきらきらと輝くそれが薄暗い聖堂内に射し込んで、淡く床に乱反射する。とりどりの色が溢れて、とても幻想的で壮大な風景だった。夜の闇とは正反対の、神々しいほどの眩さに思わず目を細める。
「……クオンちゃんに聞かれた、昨夜の問いの答えだけど。死は時に人にとって救済になる。……最愛の家族を失いたったひとりで生きていくのと、最愛の家族と最期を共にするの……そのどちらも愛で、間違った選択なんかじゃないから」
「……ええ」
「だから……見る人によって、あの物語は〝喜劇〟でもあり〝悲劇〟でもあって……それで正解なんだと、俺は思うんだ」
――だったら、答えは遺された外野が決めることなんかじゃない。決めていいものではない。それはその瞬間に選択をした彼だけの中にあるものだ。
「それでも生きて添い遂げてくれたら、と願ったのは……俺のエゴ。……ただ、俺には彼らが……トーゴくんと葵音さんが、幸せであったことを祈るばかり……かな」
「……ありがとうございます、チヒロさん」
そう言って、彼女は俺の顔を見上げて淡く笑った。
「手厚く、弔わないとなりませんね。……トーゴさんはチヒロさんの友人で、私にとっても信頼できる仲間……でしたから」
ファミリーではなかったけれど、それでも彼を想う心に忌憚などなかったのだから。その心まで偽る必要はないのだと、そう背を押して。
聖堂の戸を押し開いたその隙間から射し込んだ陽光が、どうか彼らを送り出す祝福となりますように……と。心中で祈念して、彼女の後を追うように俺も一歩を踏み出した。

葬斂

2022/10/22


「……そっか、報告ありがとう。オカモっちゃん、車回せる?あの地区に今いるファミリーで信頼できる人間を根回しに動かすよ」
部屋先で報告を聞いて、身体の芯が冷えていく感覚がした。……血の気が引いていくのが、自分でもよくわかる。
私室へ報告にやってきた|側近《オカモっちゃん》にそう言うと、彼は無言で頷いて踵を返した。後ろ姿を見送って、部屋へと戻る前にひとつ息を吐く。さすがに他のファミリーの前で、こんな顔は晒せない。今だけは堪えろと自分に言い聞かせて、扉を開いた。
「お……っと、クオンちゃん。……今の話、聞いてたの?」
扉を開くとすぐそこに険しい顔をした彼女がいて、思わず声を漏らしそうになる。すんでのところで耐えて、なんとかそう声を掛けると彼女は押し黙ったまま頷いた。
「……あの地区ですぐに動けそうな人員で、こういった頼みがしやすそうなのは彼かと。この時間なら連絡はこちらに。……それとチヒロさん、警察へは?」
「ああ、それはこっちに報告に来る前に奏くんがやってくれたみたいだから大丈夫。リストありがとう、ちょっと連絡してくるね」
監視や素行調査に向いていると思った彼女の適性は、ファミリー内の人員の精査にも役に立った。自主的に調べてまとめてくれた資料は、俺からしてもよく纏まっていると思う。こんなときまで頑張らなくていいのにと思うけれど、彼女のこれはきっと俺への配慮なのだろう。何も言わなくても、俺を支えてくれようとしているのはよくわかった。
ぽんと彼女の頭に手を置くと、何とも言えない表情で見上げられる。……それもそうか。彼女は数ヶ月前に俺が自ら元ファミリーの男を手にかけ、体調を崩しているのを目の前で目撃してよく知っているのだから。ほんの少しだけ苦笑を口端へ乗せると……どうしても彼女の前だと緩みそうになる心を、今は鞭打って前を向いた。
――今の俺が、できることをするために。

◇ ◆ ◇

「チヒロさん、車の準備出来ました」
階下へ降りると、ちょうど階段を上ってこようとしていたオカモっちゃんがそう言った。薄く頷くと、一緒に来ようとしていた彼女に制止をかける。
「現場へは俺とオカモっちゃんで行くから……クオンちゃんは、奏くんの手当てを手伝ってあげてくれないかな?」
……正直に言えば、俺の不始末で|こ《﹅》|う《﹅》|な《﹅》|っ《﹅》|て《﹅》|し《﹅》|ま《﹅》|っ《﹅》|た《﹅》|結《﹅》|末《﹅》を――……彼女には見せたくなかった。考えられる事態ではあったのだ。だからわざわざ、血の掟を重んじる向こうのファミリーを欺くために『|仮死状態にする薬《強い毒薬》』まで用意させたのだから。
……けれど。俺が信頼しているより、トーゴくんにとっての|俺《﹅》は――信頼できる相手ではなかったらしい。何年も付き合いのあった彼を、理解した気になっていた己が……今は一番憎かった。
「いいえ、私も行きます」
普段は俺の言うことに反論などしない彼女が、この時ばかりは強い口調でそうきっぱりと拒絶の言葉を口にする。断られると思っていなかったせいで、すぐにろくな返事も継げずに……俺はぱちくりと目を瞬いた。
「……クオンちゃん、死体に慣れてないでしょう」
一瞬の後、言葉を探してなんとか口を開く。思ったよりも幼子に言い含めるような口調になってしまって、彼女の眉が寄せられた。
「ボスと比べたらそうでしょうけど……だからと言って遠ざけるんですか?」
二の句が継げずに押し黙った俺に、芯の強い……揺るがない声音がそっと続く。「私は|リベラーレ《ここ》で生きていくと決めたんです。……私だけ現実から目を逸らすなんてこと、できません」と。静かに――けれど、明確な意思を持った言葉。捜査官としても新人だった彼女は、血腥い世界から遠いところで生きてきたはずなのに。〝俺と生きる〟と決めたから、その覚悟も出来ている……なんて言われたら。断れる言葉を、俺は持っていなかった。
「……わかった。けれど、無理はしないで」
逡巡の末――わずかに目を伏せてそう言うと、彼女はそっと呼吸を整えて「はい」と応じる。そして俺の手を取ると、静かに言葉を続けた。
「……行きましょう、チヒロさん」
その表情は強くしなやかで、そっと指先だけ繋がれた手から伝わる温度が……なんとか折れそうになった俺の心を、繋ぎ止めてくれている。ほんのすこし、躊躇った後……指先にだけ力を込めて握り返した俺の指先は――微かに震えていて、弱ったなぁと人知れず眉を下げた。

◇ ◆ ◇

微かな揺れを感じる車内で、三人とも押し黙る。普段は沈黙があっても気になりなどしないのに、今日だけはその静かさが重く――突き刺さる。息苦しい。ちいさく嘆息して、車外を流れていく景色をぼんやりと見つめた。夜の街は、そこかしこに闇が広がっている。……この街と同じ。
ぱらぱらとまばらな明かりが過ぎていくのを、無感動に見送った。いつもは気がかりな街の様子も、今は頭に入ってこない。ふぅ……と、聞こえない程度に息を吐いてそっと目を瞑った。ごうごうと流れる風を受ける音だけに耳を傾けて、頭を空っぽにする。
……頭を冷やすことを優先しろ、今は弱っている場合じゃない。これから行く現場では、それこそなにがあるかはわからない。屋敷を出る前はまだファミリーの|外《﹅》の人間には見つかってはいなかったけれど、トーゴくんに依頼した仕事は〝人攫い〟だ。掃除屋に依頼するそれの意味を、俺も彼も……彼女も、正確に把握している。もちろん向こうのファミリーだって、今も血眼で愛娘の行方を捜している。対応を間違えればファミリーを巻き込んでの抗争になりかねない。なるべく迅速に……そしてなるべく目立たないように、事を運ぶ必要があった。だからこそ、今は頭を切り替えなくてはいけない。いつまでも自分の過失に凹んでいる場合ではないのだ。ファミリーを背負って立つ身として、俺には俺の仕事がある。
しばらく振動を感じていると、腕にとんと軽い振動を感じた。無言で寄り添ってくれる体温に……息苦しさがわずかばかり緩和された気がした。じわりと溶けるように伝わるその温度が、平静を取り戻させてくれる。俺がすべきこと、俺が背負って立つもの。押し潰されそうになったけど――それでも、手放さないと改めて決めた大事な、大事な|家族たち《ファミリー》。彼らの顔をそれぞれ思い浮かべて、呼吸を整える。
「……ありがとう」
吐息でだけそう呟いてから。……ぽす、と。すこしだけ、ぴたりと寄り添う彼女の身体に体重を預けた。

◇ ◆ ◇

車を降りて扉を閉じると、外気はかなり冷え込んでいた。じゃり、と踏みしめた土が音を立てる。
「それじゃ、俺は車を置きに行ってきますね」
「ん、よろしくねオカモっちゃん」
静かに走り去る車の後ろ姿をすこしの間見送って、数本先の通りへと顔を向けると夜の帳がとっぷりと包んだ暗闇の狭間に、いくつかの灯りが浮かんでいた。
「……行こうか、クオンちゃん」
こくりとちいさく頷いた彼女と、並んで歩く。押し黙ったままの彼女の表情はやはり、どこか強張っていた。……よく見知った相手が死ぬのは、初めてなのだろう。少なくともファミリーに来てから、そう言った経験はないはずだ。以前俺がルオーゴ・スィクーロの名を騙った元構成員を処分したときも、わずかに眉を寄せていたことには気が付いている。それでも糾弾したりせず、掟に従った辺り――組織での身の振り方、というものについてはよく理解しているのだろう。
しばらく進んでいくと気付いた構成員がひとり、こちらへばたばたと走ってきた。彼が手にしたオイルランプがじじ、と鈍い音を立てる。近くに寄るとオイルの匂いが強く臭った。
「……首尾は?」
「……人払いは済んでいます。警察への手配は奏さんが済ませてくれていたので、向こうのファミリーにはまだ見つかっていません。検分は極秘裏に」
「……わかった、なら半数は引き上げていいよ。遅くに呼び出して悪かったね」
「承知しました。ボス……遺体、改めますか?」
その言葉に、ほんのすこし――沈黙が重くなる。しんとした夜中の路地裏を、わずかばかり静寂の帷が包む。その静けさに、声を顰めると……俺はちいさく顎を引いて頷いた。
「……うん、そうさせてもらえる?」
トーゴくんにはお世話になったから、と。そっと言葉を付け加える。その言葉に首肯を返して、彼は半身を引いて「どうぞ」と路地の先を示した。袋小路になっているそこは、普段ひと目はほとんどない。奏くんとの戦闘で多少荒れてはいるものの、騒動を悟られないよう人員も固まらずに哨戒しているようだった。
すでにふたつ並んだ担架に乗せられ、運び込む準備が整えられた彼らの遺体に対面する。申し訳程度に掛けられた白い布が、ぼんやりと夜闇に浮かび上がっていた。
羽織ったコートの裾を払い除けながら、膝を折ってしゃがみ込む。革の手袋を外そうと指をかけると、すっと手が伸びてきた。夜の闇でも白く浮く、肌の色。ふと視線をやると、こちらを真っ直ぐに見据えた翡翠の瞳がちいさくそれを制する。
「いいの、これも俺の始末だからさ」
そう言って曖昧に微笑むと、クオンちゃんはそっと手を引いた。それと反対に、俺は片手の手袋を外すと顔を隠していた布を胸元までそっと下ろす。
――その表情は、惜しむようでもあり……満ち足りたようでもあり。……いずれにせよ、俺が見たことのあるトーゴくんの表情のいずれとも違っていた。
背中に刻まれた無数のタトゥーを思い浮かべて、ほんの少し視線を落とす。腕のいい職人だった。傷を隠すために増やしていったタトゥーの多くは、彼の入れたものだ。職人としての腕も、秘密を誰にも漏らしたりしない性格も……信頼に値した。|マフィアのボス《こういう稼業》がゆえに、俺は例えどんな場所であっても気は抜けない。――唯一の例外である、俺の屋敷にいる時を除いて。それですら襲撃の恐れはあるし、招く相手も考えてはいる。無作為に人を呼ぶべき場所ではないから、構成員に会うときですら俺から出向くことが多いほど。身体を預けざるを得ない場所で、命を狙われる可能性を考慮しながら……それでも信頼して預けられる相手というのは、本当に貴重だったのだ。
この背のタトゥーを知っている人間は、奔放だ色情魔だといいように言われ続けた俺の習性のせいでそれなりにいるけれど……その本当の意味を知っている相手はほとんどいない。俺が明かしたのではなく、自力でそれ気付いた子は……ただひとりしかいないほど。それくらい、彼の腕は良かった。友人としても、掃除屋としても……だ。
目を閉じると――、そっと十字を切る。気安いやりとりができるファミリーの|外《﹅》のヒトというのは、俺にとっては気の休まる相手だった。友人として、本心からそう思う。彼が、俺のことをどう思っていたのかはわからないけれど。それでも、わかったことがあるから。
「……行こうか」
すっと立ち上がると、背後で祈念している彼女に声を掛けた。「はい」と応じて彼女も立ち上がる。
「……遺体は手筈通りに。くれぐれも丁重に、ふたり揃って運んであげて」
そう指示を出すと、案内役を買ってくれた構成員が重々しく頷いた。それを見届けてから、踵を返す。

◇ ◆ ◇

屋敷に戻った頃には、空の裾はほのかに白み始めていた。夜通しでの対応に、さすがに疲労がこみ上げてくる。
私室の扉を閉めた瞬間、帽子もコートも手近なところへ放り投げてベッドへと腰を下ろす。詰めていた息が思わず口からふと零れた。ぐしゃりと髪を掻き混ぜて、天井を仰ぐ。
扉の近くで佇んでいた彼女がそっと放り出したそれを回収すると、コートスタンドへ掛けたのか、ちいさな物音が伝わってきた。
感情と思考が綯い交ぜのまま、視線を戻せずにしばらくぼんやりと虚空を見上げていると、静かに扉が開閉する音がする。ふと手を離して部屋を見渡すと、部屋の中は無人だった。
……見かねて、ひとりにしてくれたのだろうか。そうなのだとしたら、今はその気遣いよりただ傍にいてくれた方が嬉しかったなぁと、弱った心でそんなことを考える。膝を抱えるように丸まって目を閉じる。がしがしと後頭部を掻きむしっていると、キィと扉が音を立てた。顔を上げず視線だけをそちらにやると、眉を下げて複雑そうな表情をした彼女がマグカップを手に部屋へ戻ってきたところだった。こちらを向いた瞬間、わずかに目が合う。曖昧に口端を上げた後、こちらへやってきた彼女がマグカップを差し出した。
「……ホットミルクです、どうぞ」
「……ありがとう」
差し出されたそれを受け取って、礼を言う。両手で抱えたマグカップを傾けて、ひと口だけ口に含む。温かくてやさしい味が口に広がって、冷えた身体にじわりと沁み込んだ。ソファに腰掛けた彼女が、同じようにマグカップに口をつける。しばらく無言でそうした後、空になったマグカップをサイドテーブルへ置いた。ソファから腰を浮かせたクオンちゃんがこちらへ歩を進める。ベッドに腰かけたのか、ぽすんと微かな振動が伝わってきた。そのまま凭れるように体重が預けられて……背中に温かな体温が触れる。
その温かさに、感情と……実感が、込み上げてくる。ひやりと冷たくて、硬直した肉体。何度死体を目にしても、触れても――心地の良いものではない。裏切られた相手だとしても、|家族《ファミリー》や知人、友人の死を見るのは辛いものだ。特に親しくしていた相手が亡くなったのは久々で、しかも俺が仕掛けた内容が元で死なせてしまった相手というのは――初めてだった。この十字架は、俺が一生背負っていくべき咎としてこの心に深く刻まなくちゃならない。
「……彼の生い立ちは、調べてたんだ」
……ぽそり、と。言葉を溢す。彼女にも話していなかった内容。
彼は養護施設の育ちで、その頃親しくしていた|女《﹅》|の《﹅》|子《﹅》がいたらしい。彼らは大層仲が良くて、ずっと一緒にいたのだ……と。それこそ、家族同然の存在だった。
「でも、里親が現れたんだ。……あの子は葵音さんって言うんだけど、彼女の里親になったのは例のファミリーのボスだった」
トーゴくんがずっと探しても見つからないワケだよ、と小さく溢した言葉は微かに震えていた。誤魔化すようにふぅと細く長く息を吐いて、呼吸を整える。
「……彼のお店に資金援助したのは、話したよね?」
「はい」
「知り合ってすぐに彼の生い立ちは確認済みだったし、俺としても安心して通えるお店で……しかも腕の良い職人ともなれば、手放したくはなかったっていう思惑があったのもほんとだよ。でもそれだけじゃない。トーゴくんにファミリーに入ったら、ってずっと誘ってたのは……そういう事情もあったんだ」
個人で探すより、|俺のファミリー《リベラーレ》の力を使った方がそういうのは探しやすいから。そう言葉を続けて、ひと息区切った。彼の方も、俺のそういった他人に見られたくないという個人的な|事《﹅》|情《﹅》はある程度理解した上であの申し出を受けてくれたのだろうし、そう言った意味ではお互い様だ。
「だから、彼が親しくしていた女の子を捜し出すのに随分時間がかかっちゃって……今回のこと、俺はね……本気で彼らが自分たちで選んで、それで逃げるのならそれでいいと思ってたんだ」
もちろん、俺がした『仕事の依頼』は掃除の依頼だ。それも、とあるファミリーの|ボ《﹅》|ス《﹅》|の《﹅》|娘《﹅》を殺してほしい、という依頼。俺は最初からそれが彼にとってどういう人なのかをわかった上で依頼した。ファミリーからの足抜けなんて、許されてはいない。――特にボスの愛娘が足抜けなんて、許されるわけがない。次のカポ、ボスになれる器量の男を娶って子を産むことを強要される――そういう|立ち位置《ポジション》。……そんな生活に、自由などあるはずもなかった。自由意志を持つことすら禁じられる、鳥籠の中に囲われるような生活。暮らしは昔より良かったかもしれないが、〝|自《﹅》|由《﹅》〟を謳う俺の信条からすれば、そんなのは監獄と同じだった。
相手のファミリーは特に血の掟に厳しい一家で、一度マフィアという稼業に身を置いた以上、抜けるときは相応の対価が必要になる。原則として、やめることが許されるのは死んだ時だけ。ファミリーごとに足抜けの条件に違いはあれど……俺たちが身を置く|裏《﹅》|稼《﹅》|業《﹅》なんてものは、得てしてそういう世界だ。俺はこの道を自分で選んだけれど、彼女は違う。子どもの頃に里親として現れた存在がファミリーの長だった以上、選択肢なんてなかっただろう。あの一家はそういうところでお金は惜しまないし、孤児院側もなにも言えなかっただろうことは容易に想像がつく。
――調べた限り、葵音さんという女性はボスの愛娘として積極的に|社交の場《パーティー》にも出席していたらしい。人当たりも良く、笑顔を絶やさない……ファミリーにとって不利益をもたらさない存在になること。それが彼女にとっての身を守る|術《すべ》だったのだろう。
「……キミにはもう話したけど、他の人の自由を奪うことをリベラーレでは良しとしてない。|悪《﹅》|い《﹅》|力《﹅》に抑圧されて自由になれずに苦しんでいるひとりぼっちの人たちの救いになればいい、誰をも家族として受け入れてあげられる場所であればいいと思ってファミリーを運営してる。……それは、この街の人たちに対して等しく抱いてる気持ちだから」
ぐしゃり、とまた髪の毛を掻き混ぜた。はらはらと髪が顔にかかるのを無視してその手をそっとシーツの上に戻すと、はぁと吐息を吐き出す。言葉を探すようにしばらく黙り込んでいるうち、彼女の指先がちょんと手に触れた。ちいさく細い指で、そっと指先が撫でられる。じわりと滲むように伝わる体温に、今日はまた一段と安堵した。
「トーゴさんたちも、その中に含まれてたんですよね」
俺の言おうとしていた言葉を肩代わりするように、彼女がそう続ける。「うん」とちいさく応じて、迷いながら途切れ途切れに言葉を吐き出していく。
「家族が……〝無条件に信頼して結束できる相手〟がいることの安心感は、それだけでとても心強いものだから。トーゴくんが俺のファミリーにくる気がないのはわかってたけど、それは裏を返せば……それだけ彼女に対する思い入れは特別だってことでもあるでしょう?」
「……そう、ですね」
「だからね、彼女と逢ったら……彼は逃げると思ったんだ。けれど、あれだけの規模のファミリーから逃げ続けるのは到底無理だ。それは裏の稼業に身を置いていたことのある者ならわかることだから。……それならいっそ、彼女が|死《﹅》|ん《﹅》|だ《﹅》|こ《﹅》|と《﹅》を向こうのファミリーに確認させれば、その後はもう安全になるだろうと踏んで……そうすれば自由に彼らが生きられるようになるって、信じてた」
「……でも、トーゴさんは信じなかった。彼にとって、信頼に値する〝|家《﹅》|族《﹅》〟は……葵音さんだけ、だったから」
「さすがだね、クオンちゃんは。……そう、その通り。彼にこの仕事を依頼する前に、それに気付けなかった俺が引き起こした|結《﹅》|末《﹅》が今回のことだよ」
奏くんに託した薬は、二種類あった。片方は仮死状態にする薬。もう一方は生命活動を再開させるのに必要な薬だ。元々危険な|薬《ドラッグ》や適正量を超えたそれを、うちの管轄区画でファミリーの目を盗んで売買していた独自のルートを持つ奏くんがいたからこそ、できた計画だった。
……そもそも無理に生体活動を止める薬なのだ。一度服用したらそこからなるべく早く解毒薬を服用しなければ、二度と活動は再開できなくなる。……そのリミットは一日以内、だ。トーゴくんとの戦闘で割れてしまった解毒薬のストックは存在しない。無理な要求をして用意してもらった薬だからこその、諸刃の剣。
「……まるで、もうひとつのロミオとジュリエットですね」
「シェイクスピアの……?仮死毒を飲んだジュリエットを見て、錯乱したロミオが自死を選ぶ……か」
復唱するようにそう呟いて、合わせていた背中を外すとそのまま後ろにぼすんと倒れ込む。しばし天井を仰いで、目蓋を閉じた。額に手を当てて、息を吐く。纏わりつく疲労感に、徐々に思考が愚鈍になっていくのを感じる。
「あの物語では、ジュリエットは仮死状態から一度醒めますけど……。チヒロさんは、あの物語を悲劇だと考えますか?」
「……どうだろうね、あの物語はそれ単体で見れば悲劇のようだけど……他の四大悲劇とは毛色が違うから……」
「……一般論ではなくて、チヒロさんがどう考えるか……ですよ。でもまあ……今はよしておきましょうか。起きたら教会でしょう?……今は、おやすみなさい。チヒロさん」
やさしく降ってきた声と同時に、ふわりと頭を撫でられた。彼女も相当眠いのだろう、その手の温度は先ほどよりもぐっと上がっていた。その温度が融けていくようで、急速に深淵の淵に落ちていく感覚がする。
「弱ったなぁ……ホント……」
――漏れた声は、思った以上に声音を取り繕えていなかった。

◇ ◆ ◇

リベラーレは街の中でも二大勢力に位置するファミリーになっていることもあり、中立地帯の教会にはそれなりに顔が利く。警察が腐敗しているこの街で、別の形で街をまとめて正義を行使するためには……力が必要だったから。弱き者を助けるための門扉になる教会には開けていてもらわないといけない。そのために、教会への寄付は惜しまなかった。……構成員が亡くなったときにもお世話になっているのだから、当然と言えば当然のことなのだけれど。
――静まり返った聖堂内に、普段はある街の人の姿はない。たったふたりきり、亡骸の収められた棺を前に白百合を捧げる。喪主もいない、簡素な式。
「……昨日も思いましたけど、ふたりとも穏やかな表情……ですね」
「……そうだね。こんな風に笑ってるトーゴくんの顔、見たことないもの」
献花を終えて、出棺を見送りながら……ぽつぽつとそんな風に言葉を交わす。最期に彼が浮かべていた表情は、とてもやさしく温かく――そして、穏やかな微笑だった。長年の付き合いがあったけれど、トーゴくんが笑顔を浮かべているところなど見たことがない。感情の起伏が薄いと言えばいいのだろうか、無表情か呆れたような表情を浮かべていることが多くて……見せた表情のほとんどがそれだった。
「ただ、昔話をするときの彼の表情だけは――慈しむように柔らかくて」
遺体が浮かべていた表情を見ればトーゴくんが彼女のことを心の底から大切で、大事で……信頼していたのだということをそのひと目で理解できるような。……そんな表情だった。
ばたんと閉じた戸を見つめて息を吐いてから、背後にあるステンドグラスを仰ぎ見る。日差しを浴びてきらきらと輝くそれが薄暗い聖堂内に射し込んで、淡く床に乱反射する。とりどりの色が溢れて、とても幻想的で壮大な風景だった。夜の闇とは正反対の、神々しいほどの眩さに思わず目を細める。
「……クオンちゃんに聞かれた、昨夜の問いの答えだけど。死は時に人にとって救済になる。……最愛の家族を失いたったひとりで生きていくのと、最愛の家族と最期を共にするの……そのどちらも愛で、間違った選択なんかじゃないから」
「……ええ」
「だから……見る人によって、あの物語は〝喜劇〟でもあり〝悲劇〟でもあって……それで正解なんだと、俺は思うんだ」
――だったら、答えは遺された外野が決めることなんかじゃない。決めていいものではない。それはその瞬間に選択をした彼だけの中にあるものだ。
「それでも生きて添い遂げてくれたら、と願ったのは……俺のエゴ。……ただ、俺には彼らが……トーゴくんと葵音さんが、幸せであったことを祈るばかり……かな」
「……ありがとうございます、チヒロさん」
そう言って、彼女は俺の顔を見上げて淡く笑った。
「手厚く、弔わないとなりませんね。……トーゴさんはチヒロさんの友人で、私にとっても信頼できる仲間……でしたから」
ファミリーではなかったけれど、それでも彼を想う心に忌憚などなかったのだから。その心まで偽る必要はないのだと、そう背を押して。
聖堂の戸を押し開いたその隙間から射し込んだ陽光が、どうか彼らを送り出す祝福となりますように……と。心中で祈念して、彼女の後を追うように俺も一歩を踏み出した。

寄る辺

2022/10/16


「……ん、あれ……久遠ちゃん、眠っちゃった?」
しばらく抱きしめたまま頭を撫で……他愛ないお話をぽつぽつと続けていたら、ふと彼女の身体から力が抜けた。
胸元に頭を預け、俺の心音に耳を傾けるようにしていた彼女の顔を覗き込むために、身体を片手で支えてほんの少し体勢を変える。
案の定、久遠ちゃんはすっかり安心しきった顔ですやすやと寝息を立てていた。相変わらずかわいい寝顔だなぁ……と思いながら、そっと頬にかかった髪を除けてやる。脱力しきった身体を支え直すと、もう一度凭れかからせるようにして体勢を戻した。
安定している呼吸と、先ほどより幾分か良くなった顔色を確認して、俺もほっと息を吐く。さらさらと流れる柔らかな毛質の髪を、梳くようにして撫でた。
「んん……」
ちいさく声を上げて久遠ちゃんがわずかに身動ぎする。起こしてしまっただろうかと、つと視線を下げてみたが……わずかに身じろぎをした後、彼女はまた穏やかな寝息を立て始めた。起こしてしまったわけではないらしい。よかったと安堵の息をひとつ吐いて、くたりと力の抜けた白く柔い肢体を抱きしめ直す。
ぽんぽんと数度頭を撫ぜながら、早く彼女の体調がよくなりますように……と心中で祈る。ちらりと視線をやった窓の向こうは、今日も鈍い色をした空が広がっていた。勢いのある雨ではないが、止む気配も見えないここ数日続きの雨模様にちいさく嘆息する。
服越しにとくとくと心地良い鼓動を感じながら、眠ってしまった彼女の耳に入らないよう……ちいさくちいさく、吐息を吐いた。
――無理を、しているわけではないのはわかっている。けれど、彼女が不調を感じながらも黙っていたことに……拭いきれない想いがぐるぐると胸中を駆け巡る。それに気が付いてあげることができてよかった、と不安と安堵が交互に訪れた。
体調が悪そうな彼女に俺がしてあげられることは〝ぎゅってして癒してあげることくらい〟なんて言ったけど、本当に彼女を癒してあげられているのかどうかなんて……自信がない。きっと彼女は間違いなく、笑顔で「もちろん癒されてます!」と言ってくれるのだろうけど。それがどの程度久遠ちゃんの力になれているだろうか。俺が彼女に救われているように、俺の存在がなにか一欠片だけでも彼女にとっての救いに――なっていればいいなぁ、と思う。
以前の俺は人並みの幸せだとか、そういったものはこの仕事をする以上……捨てなければいけないものだと思っていた。……というよりも、そう思い込もうとしていた。でなければ〝|高《﹅》|嶺《﹅》|千《﹅》|弘《﹅》〟本人を見てくれる人がいないことに、心が折れてしまいそうだったから。得られるはずがない、と思っていれば……多少傷ついても自分の心は誤魔化せる気がしたのだ。ただ、それは俺がそう|思《﹅》|っ《﹅》|て《﹅》|い《﹅》|た《﹅》|だ《﹅》|け《﹅》――だったのだけれど。実際は誤魔化せてなどいなかった。割り切ってしまえれば楽になれるのかな、と自問自答を繰り返して……結局ちいさなちいさな傷をたくさん抱えて、それから目を逸らしていただけに過ぎない。それなりにこの仕事を続けてきて、きっともう心が折れる寸前だったのだろう……と、今ならわかる。
いや、知らず知らずのうちに……ただ寄り添って俺のためにと臨時のマネージャー業に尽力してくれた彼女の存在に、甘えてしまっていたのかもしれない。いつもならやり過ごすはずの『想い合うふたりが逢うのが、こんな撮影現場なんておかしいでしょ、私と|逃《﹅》|げ《﹅》|て《﹅》』と言う幾度となく言われたことのある言葉が――その日ばかりは受け流せなかった。俺はこの仕事に誇りを持って、やりたくてやっているのに。……俺の気持ちは、どこにあるの?
軋んで軋んで、限界を迎えつつあったのだろう。事務所の幾許かの信用している人を除いて、俺が『仕事以外では女性に触れられない』女性恐怖症だと知る人はいなかった。それもそもそも、撮影を円滑かつより良く進めるために女優さんの気分を害さないよう……気配りをしていただけで、俺からそんな風に振る舞ったわけでもないのに。勘違いされて、望まれる姿がわかるが故に苦しんで――自分の心の摩耗から目を逸らして。学生時代、親に望まれるまま将来の人生を捧げようとしていた|俺《﹅》|自《﹅》|身《﹅》が渇望した、〝心からやりたいと思えること〟をしながらも、結局転校前の学校で言われていた『八方美人』『自分がない』『お人形』の言葉がどこまでも付き纏う。俺が俺でいられるようにするには、どうしたら良かったのだろう。……ただ、ありのままの俺を見てくれる存在がいてくれたら、と。ずっと、心の奥底では求めていた。
……だから、彼女がなんの忌憚もなく俺の仕事をただ真っ直ぐに受け入れてくれるその姿勢に……幾度となく救われた。相性がいいことは最初に誤ってキスをしてしまったときにわかっていたけれど、それでも。|俺《男優》に、一般人でありながら女優に間違われても嫌悪感を示さず、あまつさえ仕事で〝男優と臨時マネージャー〟として関わるなか、俺のスケジューリングもマネージメントも完璧にサポートしてくれた。
責任感もあったのだろうし、仕事を失くして困窮していたのだから、そういう面で渡りに船だった部分はあるにしても……だ。最初はどうして、と戸惑いがあった。裏があるのかとも考えた。そんなに経験もない子が、あんな風にカメラの前――人前で|粗相《キス》をされて、気にした素振りもおくびに出さず接することができるもの?
あんなことがあったのに、恥ずかしそうに顔を赤くしていた彼女は仕事で俺に接するとき、何を言ってもフラットに受け止めてくれたのだ。公私を混同せず、俺を特別扱いせずに……ひとりの人間として扱ってくれたことに、本当に救われた。……知らず知らずのうちに、仕事の最中は絶対に緩めることのない――女性恐怖症を飲み込むための、仕事スイッチが緩んでしまうほど。キミの傍は、安心できる場所だったから。
つかず離れず、踏み込みすぎることのない距離も。俺の仕事への意欲や誇りは素直に受け止めてくれるのも。……気付かないうちに彼女に惹かれるようになった俺と反対に、彼女は比較的最初から俺に好意を抱いてくれていたのに。決して向こうから詰めてくることのないその適度な距離感が、俺には心地良かった。そんなキミだから、一緒にいても苦ではなく。仕事終わりに食事に誘うなんてこと――これまでの俺はしたりしなかったのに、つい『俺が奢るから』なんて誘いを自分からするほど久遠ちゃんのことを気に入っていた。食事の時は、気が緩む。特に好物を食べているときはそれが顕著だから。……つい、素に戻ってしまう。気が緩んで、仕事のスイッチはオフになる。それでも、一緒にいて嫌じゃない……なんて。ほっとしている、そんな自分に驚くどころか――気付きもしなかったほど。彼女の存在は、自然と俺の中に入り込んでいた。
「んぅ……ち、ひろさ……ん」
――すり、と。彼女の頬が肌を掠めて、ついと視線を彼女に戻す|最中《さなか》。ちいさくちいさく、久遠ちゃんが俺の名を溢す。ふふ、と口角が緩やかに弧を描いた。幸せそうに緩んだその表情に、俺までつられて破顔する。
……ああ、いつもそうだ。俺が不安になったりするたび、キミはこうして幸せな気持ちにさせてくれるんだから。
いつもそっと寄り添って、見えるところでも見えないところでも俺のことを支えてくれる。生活も、仕事も。久遠ちゃんは嫌な顔ひとつせず、支えて……笑って、送り出して、迎えてくれる。こうして、全身で……全力で、俺のことを信頼していること。俺の傍にいて、キミがどう思っているのかを――僅かな挙動、些細な表情で教えてくれるおかげで。すべての気持ちを受け容れて、その上で同じだけの気持ちを返してくれるから俺はキミの隣で息ができている。
「……ふふ、ちゃーんとここにいるからね」
ぽん、と軽く頭を撫でながらそう呟いた。次いで俺も彼女の頭に顔を寄せる。さらさらと流れる髪が、柔らかに鼻先をくすぐった。じわりと滲む体温を、鼻先でも感じる。この温度がくれる安心感がないと、心から安らげないくらいに必要不可欠になってしまったほど。
「あったかいなぁ……」
くすりとちいさく笑んで、目を瞑った。――大きく息を吸い込むと、鼻腔を甘くてやさしい匂いが満たす。俺が世界でいちばん、大好きな香り。同じシャンプーとボディソープの匂いが、微かに彼女の体臭に混ざって香る。やさしくて温かくて、胸いっぱいに満たされていく。起こさないように、ぎゅうとその細い身体を抱きしめた。細くてしなやかで、華奢な身体。……こんなちいさな身体で、俺のぜんぶを受け止めてくれている。……元気なときに、ころころと変わる久遠ちゃんの表情が好きだ。弾けるように笑ったり、次の瞬間真っ赤に染まったり。はにかむように笑って、拗ねて頬を膨らませて。動物に可愛いと言っただけで、時折しょんぼりと眉を下げる――そんな、ころころと変わる表情が。
次に起きたときはまた元気に……俺を見上げて、ぱあと輝くそのいつもの瞳で見てくれたらいいなと願いを込めて、もう一度〝おまじない〟をかける。

「…………ふぁ……、千弘……さん……?」
もぞり……と、寄せた頭がわずかに動いてまだ眠たげな声がした。すこしだけ身体を離すと、彼女が顔を上げる。まだとろんとした瞼がやや重たげで、気付かれない程度の吐息で笑う。
「おはよう、久遠ちゃん。……体調大丈夫?」
「ん……、千弘さんの〝おまじない〟のおかげでかなり楽になりました」
「ふふっ、そっか……よかった♡」
ふわりと笑ってそう答えた彼女のその言葉に応じるように俺も笑って、前髪を手で上げて額に軽くキスをする。「ん」とちいさな声がして、彼女もまた笑う。その様子に、ひと眠りする前の体調の悪さは見えなかった。寝る前に飲んだ薬は無事に効いたらしい。……そっと、安堵の息を吐く。
「私、千弘さんにぎゅってしてもらったまま寝ちゃったんですね……」
すみません、今退きますから……と慌てて言った彼女が腰を浮かそうとするのを、「だーめ♡」と身体を抱き締めて止めた。バランスを崩してべちんと鼻をぶつけた久遠ちゃんが「わぷっ」と気の抜けた声を上げる。いてて、と鼻を押さえる恋人を見下ろしてさすがに俺も声を上げて笑った。
「もう、千弘さん〰〰ッ……!」
先ほどまでのしんどそうな表情とも、眠たげな表情ともちがう――しっかりと開いた瞳。じっと見上げてきた彼女が、そのまま視線を外さずに俺を見つめてくる。ほんのわずかに朱が差した頬。ああ、と得心して思わずまた笑みを深める。
……毎朝の、ルーティーンのようになってしまったそれ。
――まだ本調子ではない彼女を気遣って、軽く……触れるだけのキスをする。ちいさな音がして、眼前の彼女の顔が……じわりと滲ませるように頬が赤く染まっていく。
「……目が覚めたら、キス……しないとね♡」
ただ傍にいてくれるだけでいい。幸せそうに笑っている姿を見るのが一番好きだけど、やっぱりふたりで一緒に色んなことをして……いろんな表情を見せてほしい、なんて。欲張りにも、そう思う。いつも見せてくれる表情も、まだ……見たことのない表情も。俺を見上げて、蕩けるそれを。
「ッ……!千弘さん……っ私、なにも言ってないですけど……っ!」
「言わなくたって、その表情を見ればわかるよ♡ 久遠ちゃん、ホント素直なんだもん♡」
「うぅ……」
自身の頬を押さえながら、気まずそうに視線が逸らされる。「あはは」と笑って、俺はまた額を合わせて鼻先をすり寄せる。
「もー、あんまりそんな|表情《カオ》ばっかしてると、ほんとに俺ガマンできなくなっちゃうよ?」
――言ったでしょ、辛そうにしてる姿は見たくない。幸せそうに笑ってる姿と、えっちな顔してるとこがいっぱい見たい……って。
耳元でそう囁いて、「ね?」と。俺は悪戯っぽく、肩を竦めてみせた。

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夏の夜の夢

2022/08/11


意識が揺蕩う。夢か現か――境界線が、曖昧になる。
一瞬の微睡みのような感覚を経て、ぱちりと目を瞬く。見覚えのない場所。夜なのだろうか、辺りは真っ暗だった。人っ子ひとりいない……|射干玉《ぬばたま》の闇。目を凝らして見ようとすればするほどにどろりと己自身が溶けていくような感覚を覚えて、急に不安を覚えた。足元が崩れていくような、そんなすっと血の気の下がるような感覚がする。
ひゅうと冷えた心地に、中空に投げ出されたかのような錯覚を覚える。無意識のうちに、いつも傍にいてくれる存在に縋ろうとして――はたと気付く。
……いない、のだ。この闇の中にいるのは私ひとりで、いつも体温を感じられるほど近くにいる存在……恋人の姿すらなかった。ただそれだけで、この闇が|常《とこ》しえに続くのではないかと……不安が明確な形を帯びる。
いけない、とわかっていても一度浮かんだ思考を振り払うことは難しかった。普段は柔らかな愛情と熱に包まれて、綻びすらない『なにか』が急にこじ開けられるような感覚。
「……っ、いやだ……」
思わず声に出して、ぎゅうと胸元を掻き抱き――反射的に身体を丸める。
……盗らないで、持って行かないで。それはなによりも大切で、かけがえのないものなのだ。それがなくなったら私は、きっと――あの人の隣にはいられない。
だって、たまたま私が彼の想いを受け止めることができた〝はじめて〟の存在だったというだけで……あんなに魅力的な人なのだ。私じゃなくても、きっといつかはそんな存在が現れた。だからそのアドバンテージがなくては、私はもう……きっと見向きもしてもらえなくなる。
そんなことないとわかっていても、ときおり生まれる不安。ようやく控えめな彼が言ってくれるようになった、「いつか」の話や「ずっと」という言葉を笑顔で肯定して繋いだ手が解けないように、さらに強く握り返せるようになったのに。
――身勝手で、我が儘で、弱い私は……彼がくれるその言葉に、救われて生きている。その言葉たちに、呼吸することを許されている。
もう、疑ったりしない。もう、あんな風に彼を苦しめたりしないと――やさしくて自己犠牲を選びがちな恋人の、執着を知りたくて余計なことをしたあの日を思い出して、何度も自分に誓ったのに。私はただそこにいて、疑わずに〝受け止めることができる存在〟であればいいのだと。彼がくれる温かさに寄り添って、同じだけの温度を……返せるように。
やさしく包み込んでくれるあの体温が、ほんの少しでも寂しさを覚えた瞬間。傍にいて、心の裡まで温かくなるようなあのじんわりとした感情を、たったの一片でもいい。少しでも多く、ひとりじゃないのだと伝えるためにそこにいさせて。
――……それは、もう。|私《﹅》を私たらしめるのに必要な要素なのだ。誰にも、渡したくなどない。
愛してくれているという事実だけで十分。同じ願いを持ってくれている今の日々は、奇跡にも似た……きらきらと眩しい、私にとっての宝物なの。
持っていくのなら、どうか。どろどろとして、醜い――あんなに綺麗で汚れることのない無垢さを持った彼の魂に、見せられやしない不要な感情にしてくれたらいいのに。
ふ、と何かが抜け出る感覚がした。ぽかりと大きな穴が開いたような感覚が、次いで胸に訪れる。鉛のように鈍化した身体で、追い縋る。
強く在ろうと、まだ私のことを好きですらなかった彼が見せてくれた――弱さを、寂しさを、傷ついたことを隠さない表情を見て、そう決めた。大丈夫ですよ、と。ひとりじゃない、それだけが伝わればいいと……そう、願ったのに。
そう、最初の私は――彼に好意をぶつける気すら、なかったのだ。淡い恋心はあれど、それは与えられた『臨時マネージャー』の職には不要だった。だから私情はなるべく挟まず、『チヒロ』として働く『高嶺千弘』のために……できる精一杯をやろうと思った。体力には自信があると語った本人の談を疑ったわけではない。けれど、少しでもささやかな小傷が増えないように。手を尽くす、立ち回る。担当男優のため、と言えば動ける範囲は『臨時職』でも意外と多かった。
壁があるのは分かっていたけれど、どうか。ほんの一時でもいい、自分のためになにかをする時間を設けて――息継ぎができますように、と。|女《﹅》の私が傍にいるだけで気を張って、負担だっただろう彼に……そんな、ささやかな願いだけを向けていた。
――多くを望みすぎたのだろうか。あんなにたくさんのしあわせそうな人たちの中で、彼とふたり……神様に認めてもらえたという事実に、舞い上がっていた罰かもしれない。
「……待ってっ、お願い……!」
手を伸ばす。ひとりで真っ暗な闇の只中に放り出されることが――今はこんなにも怖い。声とともに零れた雫は、吹き抜ける風で吹き飛ばされて行ってしまった。

◇ ◆ ◇

「……ッ!」
がば、と思わず身体を起こした。周囲を見回せば、見慣れた部屋が広がっている。ぱちぱちと目を瞬く度、頬にはらはらと新しい筋が伝っていく。気付かれないようにしなくてはと、ぐいと乱暴にその跡を拭って……ちいさく、ちいさく息を吐いた。
大丈夫、アレは夢だと自分に言い聞かせるように。熱く、震える息を何度も吐き出す。悪いものが出ていってしまうように、縋るような気持ちを込めて。新たに頬を濡らす涙が流れないように、ぎゅっと目を閉じた。
「……久遠、ちゃん……?」
どぉしたの、と眠たげな声が背後でちいさく響く。震える呼吸を飲み込んで、まだ薄暗く至近距離でなければ表情も視認できない時間であることに……人知れず感謝した。
「ごめんなさい、千弘さん……起こしちゃいましたね……」
曖昧に笑って、なんでもないですと彼に告げる。どうか気付かれませんように、と心の中で念じながら。
布擦れの音がして、眠たげな目蓋を持ち上げた彼が身体を起こした。そのまま、無言で後ろから包み込むように抱き締められる。……あたたかい。
「どうしたの、泣かなくていいんだよ……?こわい夢でも見ちゃった?」
ぽんぽん、といつもの調子で頭を撫でて……低く柔らかな声が、心配そうにそう問いかける。どうしてバレてしまうんだろう、と顔を動かさない程度に視線だけを上に向けて涙が零れないように食い止めた。
「……ちょっと、だけ……こわい、ゆめを見ちゃって……」
震える声にはどうか、気付かないふりをしてくれますように。あなたを支えるために、あなたが安心して羽を伸ばせる場所であるように。……強く、しなやかな柳のような人で居ようと、決めたはずなのに。
「……そっか。怖かったね、もう大丈夫だよ。ほら、久遠ちゃん……おいで♡」
ぎゅう、と。抱き締められて、素肌から伝わる体温が――心音が、全身を包んでくれる。
「大丈夫だよ、もう俺が傍にいるからね。ふふっ……怖いのからは、俺が守ってあげるって約束したでしょ?」
あやすような手つきで、髪を撫でて何度も背をぽんぽんとやさしく叩かれる。じわじわと、体温に包まれてせり上がってきた涙を、必死で飲み込む。けれど、そんな意思に反してはらはらと静かに、涙が頬を伝っていく。声を殺して、ただ静かに。不安も一緒に流れて行ってしまいますように、と心を空っぽにする。彼の肌を濡らしていく雫を、指先で……掌で、拭おうとした刹那。
より強く、抱き締められた。大きくて暖かくて、すこし筋張った指がすいと目尻に浮かぶ雫を掬っていく。
「久遠ちゃん……俺の背中に腕回して、思いっきりぎゅうってしてみて……?」
言われた通りに身体を動かせば、「上手♡」と褒められた。さきほどよりもずいぶん密着した肌から、より鮮明に鼓動が伝わる。
「心臓の音だけ聞いて、それに合わせて呼吸してごらん。……ん、そうそう」
ただしばらく、そうして……慈しむように髪を梳いてくれる彼の呼吸に合わせて、なにも考えずただ呼吸を繰り返す。とくとくと、聞き慣れた心音が不安に飲まれた心に、平静をもたらしてくれる。ときおり甘えるようにすり、と首筋に頭を寄せ鼻をちいさく鳴らす。そうしているうちに、いつの間にか……涙は引っ込んでいた。
「……落ち着いた?それで、どんなこわい夢見ちゃったの?……俺に、聞かせてくれるかな♡」
鼻先をすり寄せて、やさしい声音でそう問われる。気まずさに、ちいさく口を開きかけて……また、噤む。
「ふふ、大丈夫。神様がいなくても、仕事を投げ出しちゃっても……それでもずっと一緒にいられる努力をするね、って言ったでしょ?」
あれは俺の本心だし、やっぱりキミだからそう思うんだよ、とちいさく笑って投げ掛けられた言葉は――私の不安を、見透かしているようだった。
「……〰〰ッ、ちひろさん゛……」
「ああほら、泣くならいつもみたいに俺でいっぱいいっぱいで泣いてくれた方がうれしいなぁ……♡」
そう言ってすこしおどけてみせた彼が、目尻にキスを落とす。泣いたせいで赤くなっているのか、恥ずかしくて赤くなっているのか……自分でもわからなくなるほどに、耳が熱い。
「……だから、ね?久遠ちゃんの体温がないとすぐに起きちゃう俺のためにも、このままぎゅうってしてるから……眠るまでの間、お話しよっか……♡」
「ん……はい」
ちいさく頷いた途端、抱き締められたままいつものようにシーツへ身体が沈む。すぐ目の前にある彼の表情は、いつもと変わらず。向けられる視線の温度は、今日も……日ごとに温かい。
――いつもよりやさしく。でも、決して腕の中から抜けられないように……掻き抱かれた腕の中は、不安など溶けて消えて行ってしまうほどに一等落ち着く温度がした。

ぜんぶを染め上げて

2022/08/10


――ぎっぎっ、ぎしぎし……と、安ホテルのベッドが律動に合わせて軋んだ音を立てる。部屋の中を満たすように、その音とくぐもった彼女の吐息が響く。
普段は『声を抑えないで』と思いきり感じられるように指示しているのに、今日に限って『今日は声、ちょっと我慢してみよっか』なんて言ったのは俺の方だ。きゅうきゅう、ぎゅうぎゅうと締め付けてくるナカが、イきたいとせがんで来るようで思わず口元が緩む。|初《﹅》|め《﹅》|て《﹅》から敏感すぎるほど敏感で、俺の言葉と与える快感を素直に受け取る彼女の身体は、もうすっかり学習してしまったらしい。膣イキの感覚も、どこをどうされたら気持ちいいのかも、何でされるのが一番気持ちよくなれるのかも。……一から十まで、ぜんぶ。俺が貰って、俺だけで染まっていく。
潤んで切なげに細められた瞳が、こちらをじっと見上げる。右手で必死にシーツを掴んで、左手は食い縛った口に押し当てて。最後の一手がもらえないまま、絶頂させてもらえずにゆるい甘イキを繰り返された身体は、もう我慢の限界だろう。ふっふっ、と荒い獣のような吐息の合間に、抑えきれなかった嬌声がときどき混ざるそれは……ひどく倒錯的な感覚がした。
焦らされて焦らされて、限界まで燻らされた快感のタネを自分で拾い上げるように、もう先ほどからずっと、俺の動きに合わせて彼女の腰はゆらゆらと揺れている。乱れた呼吸の中、必死に俺の呼吸に合わせて反らせた喉を鳴らして息を吸う様が、嗜虐心を煽るように身を灼いていく。ジリジリと削られた理性を必死に押し留めながら、俺も途切れ途切れに問いかけた。
「っは、ふふ……久遠ちゃん、もう限界〜ってカオしてる……♡ んっ♡ すっかり気持ちいいの、覚えちゃったもんね……っ♡」
ついこの間まで処女だったのに、と揶揄するように笑ってみせると、ひくひくと膣内が痙攣してより一層食いつかれる。弄ってすらいないのに触って欲しそうにぴんと主張した胸の先端と言い、初めて抱いたときもイくまで言われた通り自分で自分の足を抱えていたほど従順な性格の彼女は、与えられる快感を覚えるのも早かった。誰にも染まっていない、純粋で無垢な彼女を俺だけが変えられるという事実に、悦びの混じった電流が背中をゾクゾクと駆け上っていく。
ぽろ、と目尻を流れていく涙を拭ってやると、喘鳴混じりに名前を呼ばれた。
「ッ〰〰、ち、ひろさ……っ♡」
「ん、ぁは……思い出しちゃった?初めて、シたときのこと」
まあ俺も忘れたりしないけど、とちいさく溢すと汗で額に張り付いた髪を避けてやる。乱れた髪に隠れていた、緑の瞳が綺麗に覗く。
いつも綺麗で澄んだ瞳が、俺だけを見て俺だけを求めて……普段にはない熱と涙で潤んで蕩けて、本能的な欲を溶かして見上げてくるのを見るのが好きだ。職業柄色んな相手と関係を持ってきたけど、こんなに満たされるセックスができる相手は、彼女しかいない。俺が久遠ちゃんのことを好きで、彼女も同じように好いてくれているから……という理由も大きいけれど、俺たちの身体の相性は抜群に良かった。
「あー、ホント……かぁわいー♡ おまんこも、目も……んっ♡ ぜーんぶ、素直なんだもん……♡ はぁ、んぅ……そんなカオして、男煽って……さっ♡」
ぐりぐりと最奥に先端を圧しつければ、ガクガクと震える腰が限界を訴えてくる。堪えきれずに伸ばされた腕が、俺の手をぎゅうと掴む。その手ですら、快感に戦慄いてしまっていた。
「ァ♡ぁ、あ〰〰〰……♡♡」
明滅するような視界の中、思わず声を漏らした彼女の身体を、腕を引いて無理矢理起こす。脚の上に座らせると、縋るように首に手が回された。肌の上を汗で滑りながら、必死でしがみついて抱きしめて来るその仕草さえ、愛おしい。
「ホント、あの日……逃げずに、ちゃあんと言ってよかった……っ♡ こんなに敏感で、感じやすいんだもん♡ ン、っはぁ♡ 久遠がAVなんかに売られてっ、俺以外の誰かでこんなぐずぐずになってる様子なんか……見たくない、し……♡」
気持ちよくないセックスで傷付くのを見るのも嫌だったが、今ではそれよりもあり得たかもしれない……彼女があの日、引き止めてくれなかったら俺が選んでいたかもしれない選択の方が怖かった。
「ほーら、もう声出していいから……っ♡ 誰のなにでどうしてほしいのか、ちゃんと言って?かわいい声で聞かせて、よ……っ」
細い腰とお尻を無造作に掴んで限界まで引き抜くと、遠慮なしに思いきり一番奥を穿つ。ばちゅん、と一際大きな音がして、彼女の喉から言葉になりきれなかった、甲高い声が漏れた。
「〰〰、ッ〰〰……♡♡ ひぅ……♡」
「んー、聞こえない……よっ?んっ、ん♡ ちゃんと目を見て教えて、久遠ちゃん♡ じゃなきゃ……一番気持ちいいの、もらえないよっ……♡」
すり、とお尻を撫でながらとんとんと、下から彼女のいいところを突き上げる。きゅっと肌とナカを撫で上げるたび、素直に反応する身体を追い立てていく。自重も加わって先ほどから吐息の合間に「ぁ」「ぅあ♡」「ァ〰〰……♡♡♡」と次々と、涎とともに溢れる声に気を良くしながら、ほらほら、と弱い部分ばかりを次々に責め立てる。Gスポット、ポルチオ、子宮口を連続で叩けば素直な身体は跳ねっぱなしだ。きゅうきゅうと締め付けてくる食い縛り方にも遠慮がなくなってきて、久遠ちゃんの限界が近いのが伝わってくる。もう無意識に俺の脚に勃ちきったクリを擦り付けて、イきたがっていることに彼女は気づいているのだろうか。
「……ちひ、ろさ♡ っひァ、ぁ♡ ちひろ、さの……っ、ン、んっ……♡ おちんぽ、で……ぉく、いっぱいシて……くださ♡」
恥ずかしげに、けれどしっかりと彼女の言葉で……目元まで赤く染め、息絶え絶えに間近で俺の目を見つめて、気持ちいいのと俺だけでいっぱいになった彼女のおねだりに、思わずぺろりと口唇を舐めた。ふやふやにふやかした可愛い恋人は、恥ずかしくても俺の求めるままに答えを口にする。つい先日まで淫語どころか、キスすらも初めてだったのに。加速度的に染まってくれるいじらしさが、どんどん生まれる欲に歯止めを効かなくしていく。欲に忠実で、我が儘な俺を。甘やかして、受け入れて。どんな風にしても、受け留めてくれるから。
――際限なくなって、どんどん我が儘になってしまう。いつか彼女を壊してしまうんじゃないかと、思うほど。
「よく言えました♡ ほらっ、もう俺に身体預けちゃっていいから……いっぱい感じて、気持ち良くなってる久遠ちゃんを見せて……♡」
また限界まで引き抜いて、浅いところをカリで刺激してやりながらそう笑う。ひぅひぅと呼吸を溢し、縋るように俺の胸元に顔を埋めた彼女を、あやすような声音で誘導する。
「あっ、こーら。気持ち良くなってる表情、ちゃんと俺に見せて……♡ 隠すのはダメ、俺だけちゃんと見て?」
「ぅ♡ ァ、んっ♡ ……っは、はひ……♡」
「そうそ、いい子♡ ほらもっと身体預けて……♡ おっぱい擦れてきもちーね、久遠ちゃん♡」
耳元で囁けば、「うぅ、ぅ〰〰……♡」と呻くような声が返ってきた。どろっどろに蕩けた表情が、言葉なんかより如実に彼女の裡にある快感を肯定していく。
ひくひくと収縮とその間隔が短くなっていくのをナカで感じながら、弾んでいく声音で問い掛けた。
「ね、もうイきたい?教えて、久遠……♡」
「〰〰……ッ、イきた……ぃ♡ っは、ァ♡ 千弘さん、とっ♡ いっしょに……イきた、いっ♡ んぁ♡ ……ひぅ♡ ちひろ、さ……がっ、いい……ッ♡♡」
気持ちいいのを求めて——自分から腰を揺らしておきながら、必死に快楽の奔流に抗って。涙と涎でぐちゃぐちゃで、俺しか見えていない熱っぽい瞳で真っ直ぐに射抜いて——俺の恋人は、初めて身体を重ねた日から、必ずこうして強請ってくれる。
〝俺がいい〟――、〝俺と一緒にイきたい〟……と。
……あの日、早くキミのナカを滅茶苦茶に突きたいと疼いていると言いながら。俺ひとりで気持ちよくなるんじゃダメ、ふたりで一緒に気持ちよくならなきゃ勿体ない、と。そう言って彼女をじっくり融かして、骨の髄まで愛してあげる——なんて嘯いた俺は、あの日から久遠のくれるこの言葉で、多幸感すら感じられる行為を赦されている。
……彼女のくれるこの言葉は、受容だ。俺の愛を受け入れて、ぜんぶで受け留めて。理性をかなぐり捨てて、俺にこの上のないしあわせをくれる、|引き金《トリガー》のような受容の合図。
本能的に俺の望む言葉を察しているのか、あの日以来——|望《﹅》|み《﹅》を聞かずとも、俺の余裕を根こそぎ奪っていくように吐かれる言葉。反射的に、ぐっと彼女の腰を掴む手に力を込める。
「いい、よ……っ♡ 全力でナカ、犯してあげるから……っ♡ 今日も一緒にイこ、久遠ちゃん♡」
逃げられないように、腰を抑えて。これから訪れる快感に期待して震える膣内に、思いきり奥まで自身の熱を穿った。ずちゅん、という鈍い音と同時に……溢れた彼女の愛液がぱたぱたと滴る。
ナカが俺のものをぎゅうぎゅうに食い締めるのと同時に、首に回されていた手に力が籠って爪が肌に食い込んだ。
「〰〰〰〰ッ……♡゛♡゛♡゛」
目を白黒させ、俺の身体にぎゅうとしがみついて震える華奢な身体。本気で俺がこうしたら、手折れて破れてしまいそうなほど、余計な肉が薄い肢体と腹部。白い肌に浮いた無数の赤い痕は、俺のものだと主張するための独占欲と執着の表れで。
――どこまでもぜんぶ、彼女が俺だけを受け入れてくれている証左だ。真っ白な肢体が俺を受け入れて、高揚で真っ赤に染まっている。
「っく、はぁ……♡ ぁー、締め付け最っ高……♡ 久遠ちゃん、イっちゃったね♡ ほら、もうちょっとがんばって……俺も、一緒にイかせて……っ♡」
呼吸の暇も与えず、甘えるようにそう言ってぐりぐりと圧しつけては、漏れる吐息を食むように唇を重ねた。控えめに絡められた舌先を吸って、鼻先で爆ぜる吐息がどちらのものかわからなくなるほど、幸せで蕩けるキスを繰り返す。吐息と喘ぎ声の合間に、まともに呂律の回らなくなった甘ったるく上擦った声で、彼女が俺の名前を繰り返し呼ぶ。譫言のように、「ちひろさ、」と「すき」を繰り返されて、どんどん俺の余裕も削がれていく。
――頭が、快楽と彼女でいっぱいになる。視野が狭窄して、このまま快感を貪ること以外もうほかのことなど考えられなくなる。
「んっ、は……♡ 好きだよ、久遠ちゃん……愛してるっ♡ はぁ、ぁ……きた、もう俺もっ♡ っは、ん……イくっ……」
どくどくと精を吐き出すのと、彼女がまたひくひくと腹を震わせて果てたのはほぼ同時だった。連続でイってくたりと力の抜けてしまったその身体を抱き締めてやると、触れる腹部がまだ震えているのが腹越しに伝わってくる。
ふわふわと浮つくような感覚に身を委ねながら、労わるように額に口付ける。はぁ、ふぅ……と肩で呼吸を整えながら、彼女のとろりと蕩けきった瞳がこちらを見上げた。焦点が合っているのかどうかも曖昧なほど恍惚に蕩けた瞳が、ぼんやりと快感と現実の狭間——余韻を揺蕩っている。
「ふふ、今日もいっぱい頑張らせちゃってごめんね?身体拭いたげるから、そのまま俺に凭れてていいよ♡」
そう言って撫でてやると、すり……と無言で頭が寄せられた。嬉しげに細められた目が、言葉はなくとも彼女の感情を伝えてくれる。
「……ね、久遠ちゃんは気持ちよかった?」
――それでも、言葉でも聞きたい……なんて、欲張りな感情が湧いてきてしまうのだけど。
「ぅ……。はい……、千弘さん。きもちよかった、です……」
ちいさく応じてくれた言葉と同時に、その顔がぼっと音を立てるように真っ赤に染まる。耳朶まで赤く染まった顔を見て、思わず「ふふっ」と笑い声が漏れた。
「はぁー、もう……久遠ちゃんかぁわいー♡ 本当に幸せだなぁ……」
すりすりと鼻先を寄せて、汗を拭いながら張り付いた髪を一房二房と丁寧に剥がしてやる。初めてをもらった日も幸せだったけど、日ごとに彼女がくれる幸福と満たされる気持ちは、大きくなっていた。それだけ俺が、彼女なしではいられなくなっているということなんだろうけど。
「ちょっと落ち着いたかな。……ん、じゃあ抜くね?」
なでなでと頭を撫でながらそう言うと、ほんの僅かに物言いたげな瞳がこちらを見て……ややあってから頷かれた。もう本当にズルい子なんだから、とちいさく喉奥で笑ってから言葉を添える。
「……ふふっ、大丈夫。俺もまだ離れるのは寂しいから、綺麗にしたらぎゅうってしてあげるから♡ ……ね?」
「……ん、それなら……」
こくんと頷いてそう言った彼女をあやすように、「約束♡」と念押しをして膣内から引き抜いた。互いの鼻から、抜けるような「ン……」という声がちいさく部屋に残響する。手早くゴムを外すと、中身が溢れないように口を括って、その辺へ放った。
「あは、今日もいっぱい久遠ちゃんに絞られちゃった♡ ほんと、吸収するの早いねぇ♡」
素直に染まってくれて嬉しいよ、と言いながら彼女の身体を抱えてぼふんとベッドへ横になる。ぎし、とスプリングが軋んでちいさく弾んだ。
「千弘さんそれ、褒めてます……?」
「この上なく褒めてるよぉ、好きになった子が自分でだけ染まってダメになっていくの……喜ばない男なんているワケないでしょ♡」
愛おしくないわけがない。必死に食らいついて、快感を享受して乱れてくれるのだから。
「まっ、それに……俺だけがこの久遠ちゃんの表情を知ってるんだ〜って思ったら、すっごく嬉しくなっちゃうんだよね♡」
目を細めて、この溢れるほどの感情を教えてくれた彼女に真っ直ぐ視線を注ぐ。気まずそうに僅かに逸らされた視線を追いかけて、両頬を手で包み込んだ。諦めたように、ちらりと視線がこちらへ返される。
「……もう少しの間、定住は難しいけどさ。落ち着いたら、キミとやってみたいこと……俺、いっぱいあるんだよね」
借金取りと債務者の関係では、できなかったこと。晴れて恋人になれたとは言え、俺たちはあの地獄から這い出て――まだ逃避行の途中だ。追手が差し向けられる期間は過ぎたとはいえ、まだ気は抜けないまま……根無し草の旅を続けている。
「やってみたいこと……ですか?」
「うん♡ いっぱいあるよ、今までは取り立てのときに久遠ちゃんの家でしか逢ってなかったわけだし」
素直な身体だから、まだまだ気持ち良くなれるところも増やせるだろうし……とちいさく笑うと、彼女は「えっ……!?」と裏返った声を上げた。
「あはは、それも期待してて♡ お互いこれまで自由もなしに頑張ってきたんだもん……羽を伸ばすのもかねて、しばらくは旅行だと思って楽しもうね♡」
そう言ってもう一度、慈しむように髪を撫でてぎゅうとその体温ごと、手放すものかと抱き締めた。

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〝愛してるよ〟

2022/06/22


「……えっ、愛してるよゲーム……ですか!?」
突然の提案に驚いたのか、彼女はややひっくり返った声を上げた。
そんなに驚かなくても、と思わずちいさく笑いを溢す。「なんでまた急に……?」と眉を下げている様子を見て、拒絶するつもりがないのを確認して、別の意味でまたふふっと笑う。
「いいからいいから……♡ ほーら、始めるよ?」
照れちゃったり笑っちゃったりした方が負けだからね、と言ってから俺は、すっと彼女と視線を合わせた。
それなりにある身長差。普段、隣に立って歩くときには、いつも彼女がにこにこと俺の顔を見上げてくれるから――そうじゃないときは、俺が彼女の目線に合わせるのが俺たちの常で。
歩幅も違えば、生い立ちや経験も違うけど……そのどれもを、彼女はただ受け入れて、その上で隣にいてくれる。無理をさせているのかなと不安になることがなかったわけではないけど、ここ最近は彼女のおかげで、俺が思っている以上に彼女が、俺のことを愛してくれていると実感できるようになった。
――言葉で言うのは簡単だけど、行動で示すのは難しいどれだけ俺のことを好きで、虜になってくれているのか。久遠ちゃんはいつも、なんてことのないように行動で返してくれる。初心で恥ずかしがり屋さんなのに、抱きしめて伝わる体臭でぐずぐずに蕩けてしまうくらい。
彼女の顔を見るだけで、胸がいっぱいになる。俺の職業ごと、すべてを〝|た《﹅》|だ《﹅》|受《﹅》|け《﹅》|入《﹅》|れ《﹅》|て《﹅》|く《﹅》|れ《﹅》|る《﹅》|こ《﹅》|と《﹅》〟の難しさを……知っているから。
「……愛してるよ♡」
――まっすぐに目を見つめて、そう告げた。
ほんの僅か、大きな瞳が揺らいで――……そっと、その両手で覆われる。
「あ、顔隠しちゃうなんてズルいなぁ……。ま、いっか……♡」
その小さな両手では、真っ赤に染まった耳まで隠せてないよと喉奥でちいさく笑ってから、俺は続く言葉を紡いだ。
「次は久遠ちゃんの番だよ?」
じぃ……と顔を隠したままの彼女の方を見て、そう言う。しばらく見つめていると、うぅ……と言うちいさな声が聞こえてきた。
なんだかんだで、俺のお願いに弱い久遠ちゃんは、こうして待っているれば自分の中で覚悟を決める時間は必要でも、最終的に応じてくれるのだ。
もう少しかなとそわそわする気持ちを抑えつけて、焦れるような気持ちごと、楽しみながら待つ。
「……ほら、キミの声で聞かせて?愛してるよ、って……♡」
ダメ押しのようにそう囁くと、そっと顔を隠していた両手が除けられた。
見るからに真っ赤な顔をした彼女が、照れて潤んだ瞳でまっすぐに俺を見つめ返す。
「……千弘さん、愛してます……♡」
ひとつ呼吸を整えてから告げられた言葉に、自分で持ちかけたゲームだと言うのにじわりと胸が暖かくなる。
「ふふっ、やっぱり久遠ちゃんに言ってもらうと、とってもしあわせな気持ちになっちゃうなぁ……♡」
そんな風に噛み締めていると、彼女がちいさく「千弘さん、今笑ってましたよね……?」と、まだ赤い顔で異議を唱えた。
「……んー、ふふ……♡ 確かに、俺も笑ったけど……キミも、ずぅっとお顔真っ赤でりんごちゃんみたいだよ?」
すり、と手を伸ばして頬を撫でると「〰〰ッ」と声にならない声を、吐息に乗せて彼女が溢す。
「久遠ちゃん、いつからこんな真っ赤なお顔になっちゃってたの?」
すりすりと、そのまま指先で何度も往復するように頬を撫でれば、彼女がわずかに身動ぎをした。困ったような顔でこちらを見上げて、言おうかどうか迷っているといった表情。
「〰〰ッ……千弘さんが、愛してるよって言ったとき、から……です……」
ややあって、観念したように彼女はそう答えてくれた。
そんな顔をしたところで、結局素直に教えてくれるところも。何度好きと言っても、嬉しそうに目を細める様子も。そのどれもがいじらしくて、大好きで。
「ふふっ、じゃあ……負けたのはキミが先だね♡ じゃーあ、負けた久遠ちゃんにはもう一回……愛してる、って言ってもらおうかなぁ……♡」
「……え!?」
ぱくぱくと無言の抗議で口を開閉した恋人の身体をそっと抱き寄せると、腕の中にぎゅうと閉じ込める。
ただそれだけでぽかぽかと温かい体温が伝わって来て、ここがやっぱり安心するなぁとしみじみと噛みしめた。――大好きで、大切な居場所。
「ねーぇ、ほら……♡」
ふにふにとそのやわらかな唇を突いて「言ってくれないの?」と耳元で甘えてみせる。
「……もう一回、だけ……ですよ……!」
また真っ赤に染まった顔で俺の目を見て、それからちいさく息を吸うと、彼女はそっと俺の耳朶に口を寄せた。
「……愛してます、千弘さん……♡」
囁かれた声と言葉に――今日はまたこの後自由にしてあげられなさそうだなぁと、桃よりも甘く蕩ける彼女の表情を想起しながら……俺は鼻先を寄せて、また笑った。

倒錯する関係

2022/06/14


「さて、と……もうちょっとこうして久遠ちゃんとひっついてたいけど、お風呂入れちゃわないとね?」
言いながら身体を起こすと、小さく笑ってきょとんとした表情を浮かべる妹の額に口付けた。「なんで?」という表情でこちらを見上げるその顔が、瞬く間に赤く染まる。
「ふふっ、かーわい……♡ お顔真っ赤だよ」
形の良い頭を撫でると、また気持ち良さげに目が細められた。きっと妹は無意識なのだろうけど、彼女と兄妹になってから、もう十年の間ずっとこうだ。俺が頭を撫でてあげるたび、このふにゃふにゃに緩んだ表情で見上げられて、今までの俺はよく我慢してきたなぁ……と我ながら感心する。もっとも、妹への……家族に抱く情を超えたそれを抱えていた今までの俺は、彼女のその表情を見るたびに「いつかこんなにも気持ち良さげにとろけた表情を、俺以外にも見せるようになるのかな」と締めつけられるような想いを同時に抱いていたわけなんだけど。その心配がなくなった途端に、とめどなく溢れる想いを、自分でも、どうコントロールしていいのかわからなくなっている。
「……う、お兄ちゃんじゃなきゃ、こんなに赤くならないもん……っ」
すりすりと赤く染まった目元に指を這わせると、ただそれだけで妹の華奢な肩がちいさく震えた。……本当に、可愛らしい。十年の間、ずっと堰き止めてきた〝大好き〟という気持ちを受け入れられて、どうやら俺は相当舞い上がってしまっているようだ。
──でも、舞い上がらない方が無理というものではないかとも、思う。ろくに自分で慰めたこともなくて、俺の知る限りは彼氏を作ったこともない。誰かに裸を見せるのも、触れられるのも——もちろん、誰かを受け入れるのも初めてのはずの子が、真っ赤な顔で俺を見上げて、震える声で「お兄ちゃんともっと繋がりたい」と、「千弘お兄ちゃんといけないこと、シたい……」と。|い《﹅》|け《﹅》|な《﹅》|い《﹅》|こ《﹅》|と《﹅》だとわかっていながらも、自ら懇願してきたのだから。キスですら辿々しく、舌を絡めれば戸惑いながら必死に受け入れるのがやっとなのに、俺の愛撫を、指を、熱を受け入れて……初めての快感に身を捩って嬌声をあげ、潤んだ瞳で熱に浮かされたように何度も何度も、「お兄ちゃん」と甘えられたら、理性なんかあっという間にぐずぐずに溶けて、どこかへ行ってしまった。〝いいお兄ちゃん〟でいようとして頑張った期間の踏ん張りを、いとも容易く押し流してしまうほどに……大好きが止まらない。
本当はどこまでも貪欲に、我慢していた期間の分も——両親がいない、ひとつ屋根の下に俺と久遠ちゃんふたりっきりの、この都合のいいお誂え向きの据え膳を、貪るように享受してしまえれば、どんなにいいだろう。
けれど、世界で一番大切で、誰よりも可愛い妹のことは……大事にしてあげたい。無茶はさせたくなかった。だからこそ、これでも必死に押し留めている。
「もう……あんまり可愛いこと言ってると、また久遠ちゃんのこと食べちゃうよ?気付いてないかもしれないけど、お兄ちゃんこれでも結構頑張って我慢してるんだから♡」
冗談めかしてそう告げると、触れたままの手から伝わる頬の温度が、ぐっと上がった。気恥ずかしそうに視線が逸らされ、次いでするりと指の上を肌が滑っていく。ぎゅう、と胸元に抱きつかれてこちらを見ないまま、くぐもった声が鼓膜に届く。
「お兄ちゃんの、ものだもん……我慢なんか、しなくたって……いい、のに。今までずぅっと、いいお兄ちゃんだった分、兄妹ふたりきりのときくらい……ちょっとくらい悪い子になったって、誰も怒らないよ?……私も、一緒に悪い子になるから」
――お父さんとお母さんには|内《﹅》|緒《﹅》の、兄妹ふたりだけの|秘《﹅》|密《﹅》にしよう?と。
これ以上ないほどに甘美で、蠱惑的なささやきがぽつりと溢される。抱き締めて、触れた肌から伝わる体温が……鼓動が、急に境界線を曖昧にしてカタチを見失いそうになる。ひとつになってしまったような、そんな感覚。ささやきひとつで、脳髄が甘く痺れるほどのそれに、本能的に理解する。
「……まったく、もう。久遠ちゃんってば、いったいどこでそんな殺し文句、覚えてきたの?」
――ああ、溺れているのは俺の方なんだ……と。
「本当に……お兄ちゃん、知らなかったなぁ。可愛い可愛い妹が、ついさっきまで男も知らなかったのに、そんな風に男を誑かす、えっちで悪い子だったなんて……♡」
頑なに顔を見せてくれない恋人の耳元で、低くささやく。同時に指先で耳のカタチを確かめるように撫でると、びくりと身体が跳ねた。ややあって、ゆっくりと彼女が顔を上げた。
「……お、にいちゃ……」
ごめんなさい、ととろとろにとろけきった顔でちいさく謝る妹の頭を、安心させるように撫でてやる。
「久遠ちゃんが……他の男のものになんてならなくて、本当によかった。こんな風になるんだ、って知っちゃったら俺もさすがに耐えれないもん♡」
「ッ……♡ 安心して、ぜんぶ……千弘お兄ちゃんのもの、だよ。お兄ちゃんしか、知らない……もん」
恥じらいながらも返された返答に、ふふっと笑って「そうだよね」と応じ、それでも、と言い添えた。
「……とりあえず、今はだーめ♡ お互い汗かいてるし、身体冷えちゃうでしょ?お風呂入って、お夕飯食べて……それで、そのときまだ久遠ちゃんの身体が平気そうだったら、ふたりで考えようね♡」
急がなくても、両親の錫婚式旅行の残り日程は、一週間以上ある。大事な妹の身体に負担をかけてまで、自分の欲をぶつけたいわけではないのだ。
「……ん、うん……」
「ふふっ、あれ……久遠ちゃん不満そう……♡ そんなにお兄ちゃんとシた初えっち、よかったの?」
歯切れの悪い返答をからかうように指摘すると、先ほどこれより何倍も恥ずかしいことを口にしたはずの妹は、りんごと同じくらい顔を真っ赤にしてあうあうと口を開閉し始める。
「〰〰ッ、お兄ちゃん……ッ!」
「ふふ、さっきちゃあんと教えてくれたもんね♡ ま、でも義父さんたちが帰ってくるまでまだまだあるし……こういう事スるのは、今日だけじゃないから。……さっき、我慢しなくていいって言ったのは久遠ちゃんだもんね?だから、その分この先、俺のお相手よろしくね……可愛い恋人さん♡」
そう言って、また額に口付けると……言葉を失って真っ赤になった妹を部屋に残して、風呂場へ向かった。
――そういえば、それなりに大きくなってからの再婚だったから、兄妹だけど一緒にお風呂、も今日がはじめてかもなぁ……なんて、想いを馳せながら。

職業的習慣

2022/06/13


パチンパチン、と小気味のいい音が部屋に響いている。男優の仕事をしている以上、定期的な爪の手入れは怠れない。高校を出てからもう何年も、週に七日、毎日爪の手入れをするのが習慣になっている……のだが。
洗濯物を自室に片付けに行った恋人が、リビングに戻ってくるなり、しげしげと爪を切る様子を背後から眺め始めた。別にやましいことはないし、お仕事への理解も深い彼女だから……本当に特に意味はないのだろうけれど。最近よく爪を切ったあとにふらりと近寄ってきては、爪の状態をチェックしていくようになったので、その度に俺はなんとも言えない気持ちになる。
……どういう意図でのそれかわからず、かと言って気分を害している様子もなく。ただ淡々と爪の長さをチェックされるのは……本当に、一体どういう意図なのだろうか。これがいわゆる〝普通の仕事の恋人同士〟だったなら、わかりやすいのはそういうお誘いだったりするんだろうけど。俺と彼女は、そういういわゆる〝普通〟からは外れたところで生活している。
仕事の間隔調整のために、俺が抱いてあげられない日でも彼女のことは気持ちよくできるし。逆もしかり、月のものの期間中でも彼女も俺を気持ちよくしてくれたりもするし。まったく、|一《﹅》|ミ《﹅》|リ《﹅》|た《﹅》|り《﹅》|と《﹅》|も《﹅》そういうことをしない日というのは、これまでほとんど存在しなかった。
そもそも、俺が彼女に同棲を持ち掛けたのは、告白の了承の返事を得た翌日のことで。それからずっと、一日の終わりにばいばいを言うのが、離れて顔が見られない時間があるのが嫌で、一緒に暮らしている。彼女の私室に未だにベッドはないし、俺たちの生活で、今のところベッドが一台しかなくて困ったこともなかった。事故に遭って俺がしばらく記憶を失っていたときですら、不安な心を埋めるために同じ布団で寝ていたほど。まあさすがに記憶喪失のときは同じ布団というだけで、いつものように彼女の小さな身体を抱き締めて寝ていたわけじゃないんだけど。
──自分で自制心が強い方だと思っていた俺は、彼女と一緒になってから、案外自分に堪え性がないことを知った。ふたりで最高に気持ちよくなるためなら我慢できても、告白したその日のうちから二度も彼女を抱いて──今では、一度きりで終わることの方が少なくなってしまった情事のことを思い浮かべて、少々自罰的に嗤う。回数を重ねるごと、知れば知るほどに好きだなぁと思う気持ちが溢れて止められなくて、ついつい溢れる思いのままに突っ走ってしまう。彼女は俺に甘くて、すぐに「千弘さんだったらそれでもいいですよ」などと甘い言葉をくれるから。
何度も俺はちょっと悪い子だから、そんな風に言われたら本気にしちゃうよ、と苦笑しながら告げても、彼女は「ダメなんですか?」と本当に真っ直ぐに、真摯な瞳でそう問いかけてくるのだ。もしかして、俺の理性がどこまで保つのか試そうとしてるんだろうか……と考えたことすらある。でもかわいいかわいい俺の彼女は、ただただ真剣に俺になら壊されてもいい、と本気で思っているらしい。そんな彼女を見ていると、こんなに真っ直ぐに受け入れてくれるのなら……本当に壊してしまってもいいかもしれない、とすら思えてしまう。
──俺でだけダメになって、乱れてくれる様を見ていると、本当に。彼女はいろんな方面で、きっとこう可愛がってあげたら素直に開花させてくれるのだろうと思うほどに、素直に反応してくれるから。耳元で囁くだけで蕩ける瞳も、掌の皮膚の薄いところをなぞるだけでちいさく肩を跳ねさせるのも、俺の体臭を好きだと言って嬉しそうに鼻先を寄せてくれるのも——全部。
全部が、愛おしくなるほどに……性癖に繋がる要素でもあるのだ。
もう十分、久遠ちゃんは染まってくれてはいるのだ。付き合って間もない頃は、|感《﹅》|じ《﹅》|る《﹅》|こ《﹅》|と《﹅》にも戸惑いながら……声を上げるだけで、自分から漏れる上擦った甘い声に困惑していることも多かった。それがいつしか、俺が教えた通りに声を抑えず……素直に快楽を享受してくれるようになって。今では恥ずかしそうに頬を染めながらも、その純真そうな見た目からは想像できないほど大胆に乱れて、俺の与える快感をその全身で受け止めてくれるのだから。
最初に身体を重ねた日に、彼女に向けて「ここは性感帯になるね」と話したそのほとんどが、今では本当に彼女の|感じるところ《性感帯》になっている。淫語のひとつも言えず、男慣れしていないのがアリアリとわかるほどに身体をガチガチにしていた俺の初々しい恋人は、今も初々しさを残しながらも素直におねだりもするし、俺のいいところを覚えて、上手に攻められるようにもなった。受け身だったキスですら、俺のことがほしいとスイッチが入ったら貪欲に舌を絡めて求めてくれる。こんなにも変わってくれたなら、十分すぎるほど彼氏冥利に尽きるはずなのだ。なのに、彼女に出逢ってから際限なく欲が生まれて止まらなくなったせいで……これで満足できればいいのに、欲張りな俺はまだまだ足りないらしい。
自分で、俺の与えるもので……彼女の〝気付いていなかっただけ〟のフェチや性癖ではない、〝新しい〟それが生まれればいいのに、と。そんな、どこまでも身勝手な思いすら、抱き始めている。彼女と送る日常が好きで、大切にしたいのに……俺で本当に壊れてしまう彼女も見たい、なんて。
……俺が、好きだと思っているのと同じだけ。彼女にも俺を好きでいてほしい。そのために彼女の素直な身体が今以上に素直に俺を好きだと認めてくれるなら、俺は今まで以上にキミにすべてを割いてあげられる。相反する思考かもしれないけど、本当にそう思っているのだから仕方ない。キミとこの先もなんてことのない日常を送りたい。でも壊してしまいたい。ずぅっと、俺はこのふたつの狭間で揺れている。
ぐるぐると巡り出した思考に、ちいさく目を閉じて気付かれないようにそっと細く息を吐いた。ふるふると頭を振って、思考を追い払う。
「……あの、久遠ちゃん?なんでそんなにまじまじと、爪の手入れしてるところ見てるの……?」
意を決して問いかけると、彼女はぱちりと瞬きをしてから、ちいさく笑みを浮かべた。彼女の返事を待つ間ほんの少し、気持ちがそわそわと浮つく。
「ん、千弘さんの仕事にかける情熱が見える気がして……見てるの好きなんです」
ごめんなさい、気が散りますよねと眉を下げて謝る彼女の顔を見つめて、俺は言葉を失った。というよりも、瞠目しかけた……と言った方が近いだろうか。
「……あ、あれ?千弘さん……?」
どうしたんですかと目に見えてオロオロし始めた久遠ちゃんの頭を、安心させるようにふわりと撫でる。頭の上に置いた俺の手に手を添えて、顔を見上げた彼女にちいさく笑いかけた。
「ふふ、本当に不思議な子だよね……キミって子は」
「えっ……、そうですか……?」
「ふふっ、でもそんなキミだから俺も好きになったんだもん♡ そう言ってもらえるの、俺も嬉しいよ」
普通は俺の職業を知っていて、受け入れてくれているだけでもすごいだろうに。こんな風に染み付いた習慣さえも、〝仕事にかける情熱〟だなんて捉え方をしてくれる子は……彼女以外には、俺の残りの人生を一生使ったとしても、見つけられる気がしない。しかもそれを、俺に合わせて言ってくれているんじゃなくて。彼女は、心の底から自分の言葉として言ってくれるから。出逢った頃からそう……キミは、無自覚にいつも俺が欲しい言葉をくれる。この仕事だったからこそ出逢えた、って。出逢った頃からこのお仕事だったんですから、職業ごと全部丸ごとひっくるめて千弘さんのことが好きですよ、と。そんな風に言われたら、どんどん好きが強くなっていくのも、仕方ないよね。
「ん、よしおしまい。さーて久遠ちゃん、ご飯にしよっか♡」
さっきまで悩んでいたのが嘘みたいに、軽くなった気持ちを自覚して……俺も現金だなぁと思いながら、そう言って笑う。
言葉ひとつで、こんなにも幸せにさせてくれるのは……大好きなキミがくれる言葉だからなんだよ。

体調

2022/06/07


とくとく……と、聞き慣れたリズムを刻む心音に耳を傾けて、ほっと息を吐く。この音を聞いていると落ち着くし、不思議と楽になるのだ。なぜなんだろう、と霞みがかった頭の片隅で思考する。
「……久遠ちゃん、どうしたの?」
頭上からやさしく降ってきた声に、僅かに顔を上げて声の主――恋人の顔を覗き見た。ほんの少しだけ不思議そうな表情でこちらを見下ろして、目が合えばやさしく微笑まれる。あー、もう。どこからどう見ても完璧で、やさしくて。こんなにいい人が私を選んでくれたという事実を思い返すだけで、胸が張り裂けそうになる。
……絶対に、不幸にしたくない。常に幸せでいて欲しい。――誰かをこんなにも好きになったのは君が初めて、と語ってくれた千弘さんの、初めて生まれた〝やりたいこと〟、〝やってみたいこと〟、それらの〝欲望〟や〝我が儘〟を。私が応えられる範囲でなら全部、叶えてあげたいと思う。そうすることでしかあなたのことがこんなにも好きなんです、って伝える術を持たない私が、唯一できる好意を伝える方法で……人のことを甘やかしてばかりいる彼を、甘やかしてあげられる機会だから。
「……なんでもない、です」
そう言ってから、背中に回した腕に込める力を強くした。両腕を精いっぱい伸ばしてもまだ、包みきれないほど逞しい背中。すこしでも多くを、と思いながらぎゅうと思いきりくっついて、甘い香りのする彼の腹部に、すりすりと顔を寄せる。引き締まった身体の隆起が、Tシャツを挟んで肌に触れて、心地良い。全部同じ洗剤やシャンプーを使っているのに、どうして千弘さんの匂いはこうも落ち着くんだろう。この匂いと体温を感じるだけで、すぐに胸がいっぱいになる。許されるならずっとこうしていたい気さえするほど。
……けれど、彼は底抜けにやさしくて。求められれば応えたい気質の、自分のことを後回しにしてしまう人だから。私は、彼の足手まといになりたいわけじゃない。むしろ逆で、いつもお仕事に全力で取り組む千弘さんを、笑顔で送り出して、それから……ほっとひと心地のつける、彼にとっての安寧の場でありたい。まだこの生活をはじめて間もない頃に、それこそ……このお家の合鍵を、千弘さんがくれて。名実ともに、この家が〝私の帰る場所〟になった日。あの日に彼が言ってくれた『俺が唯一、羽を伸ばして止まっていられる……安心できる人』という言葉と、〝止まり木〟という表現が、私自身にとってもとてもとても嬉しい言葉で、その言葉をもらったからこそ私の中で指標が決まったから。
だからこそ、それを体現できる人でありたいと、あの日から自然とそう思っている。――ねぇ、千弘さん。私はあなたが言ってくれた、止まり木で在れているでしょうか。あなたが唯一、〝AV男優のチヒロ〟ではなく《《ただの高嶺千弘》》として、なんの気兼ねもなく素を晒け出していられる人で在れているでしょうか。……そんな風に自問自答をしながら、ただ甘えるように鼻先を擦り寄せる。
「久遠ちゃん、ちょっとお顔見せて」
「……だめです。まだくっついてたいので……」
「……困ったなぁ、じゃあちょっと、首、触るからね?」
じっとしてて、と片手で頭を撫でられて、うんともいいえともつかない返事を喉で返した。くすっとちいさく笑ってから、大きな手が伸ばされて、やさしく髪を払ったあと、するりと服の隙間から首筋に触れる。その手がすこし冷たくて、思わず身体が反応した。ああ、でも……その温度さえも心地良い。
「んー、やっぱり。久遠ちゃん、いつもより体温高いね。熱は出てない、と思うけど……ちょーっとぼんやりしちゃってるもんね。ここしばらく気温も安定しなかったしなぁ……。今朝もちょっと身体冷えてたし……」
すっかり知られ尽くしているせいで、今では私よりよほど、千弘さんの方が私の身体の不調に目敏いのではないかと真剣に思う。
基礎体温から周期まで、話した記憶もないのだけど、千弘さんはそのおおよそをいつの間にか把握している。……なんなら、私が自分でこのタイミングでの不調はそれだと気付くよりも前に、万全のケアをされている始末だ。寝起きの自分の体温が、今日はちょっと低い、だとか……自分でも感覚だけではわからないのに肌感覚だけで完璧に言い当ててくるので、千弘さんはすごいなぁとただただ感心しきりになってしまう。一度素直に感心して本人にそう伝えたら、「他ならぬ世界で一番大好きで大切な彼女のことだもん、俺にできる全力を尽くすに決まってるでしょ♡」と盛大な殺し文句を浴びたので、それ以来は胸の裡で思うだけにしているけれど。おかげさまで、一緒に暮らすようになってはや半年以上が経過した今も、体調を崩して寝込んだことは一度もない。
「今日はあったかくして、もう寝よっか」
言い聞かせるように、ひときわやさしく頭を撫でられて、思わず顔を上げる。待ち受けていたかのように額に柔らかにキスを落とされ、耳が熱い。
「ほーら、あんまりそのかわいいりんご顔を見てると、俺はまたいつもみたいに欲しくなっちゃうから、ね?」
言うことを聞いて、と諭すような口調にいつもなら大人しく引き下がるのだけど……。今日は、このまま引き下がるのは嫌だった。自分でも珍しいなと思いながら、もやつく気持ちを形容しようと言葉を探す。
「……私の事情で千弘さんに我慢させてしまうの、嫌なんです……」
体調が悪いと言っても、熱が出ているわけでもない。周期的にも予定はまだ先で、本来なら千弘さんはそのつもりだっただろうし。天気が良くないことに起因してのものだろう、と今日の天候を思い出しながら考える。恐らく、だけど……そう間違ってもいないはず。それに、なによりも……ただでさえ千弘さんに《《合わせてもらっている側》》の私の都合で、なるべくなら振り回したくないのだ。思っていても抑えていた本音が、ぽろりと溢れてしまった。
……わかっている。千弘さんはいつでも〝ふたりで気持ち良くなれること〟を優先してくれていて、だからここで無理することも望んでいないなんて言うことは――、とっくに。だからこれは、ただの私のエゴだ。困らせるつもりはなかったのに、困らせるようなことを言ってしまった……と言った瞬間から後ろ暗い気持ちになって、ぱっと顔を逸らす。罪悪感の滲んだ顔を見られないように、誤魔化すようにして再び千弘さんの身体に顔を埋めて隠した。
「……と、とりあえず!まだもうちょっとこうしてたいです……!」
だいぶ無理な誤魔化し方だったけど、千弘さんはちいさく笑って頭を撫でてくれる。余計に気まずくて、先ほどより強く顔を押し付けた。うぅ……と唸ってから、小さな声で「ナシです、ナシ……。忘れてください……」と白旗を上げる。というより、いたたまれなくてもうさっさとギブアップしたかった。体調が悪いということで、なんかもう色々と今日のことは忘れてほしい。弱ってると甘えたくなってしまうとか、そういうところも含めて。なんかちょっと気恥ずかしい。
「えー、忘れちゃうのはもったいないかなぁ♡」
「千弘さん〰〰〰っ」
もごもごと抗議の声を上げても、意に介されずにくすくすと笑う千弘さんに諦めて顔を上げようとした――ときだった。背中をそっと大きな手のひらに支えられて、千弘さんがそのまま後方――ベッドに身体を倒した。完全に千弘さんに寄りかかる形になっていた私も、つられて一緒に倒れ込む。
「わぷ……っ」
べち、と硬い腹筋に鼻をぶつけて思わず声を上げて鼻を押さえた。顔を上げると、千弘さんも破顔している。あまりに楽しそうなので、抗議しようと思っていた気持ちもどこかへいってしまった。
「ごめんごめん、息が腹筋にかかってくすぐったくて……ふふっ」
「わわっ、それは……ごめんなさい……っ!」
「ようやく顔を上げてくれたね……♡ ふふっ、ほーら逃がさない、よ……っ♡」
言葉とともに、片腕を身体に回されて身動きが取れなくなる。「え!?」と困惑している間に、千弘さんの表情がスッと変わった。ついさっきまでは、じゃれ合いをしている時のそれ。……今の表情は、スイッチが入ったときの顔だ。私は、それをよく知っている。こうなったら、千弘さんに対して私が断固拒絶を言い渡せるわけがない。だって、《《私は知っている》》。彼が与えてくれる快感が、どれほど気持ちいいかを。互いが互いしか見ずに、蕩けていくときの心地良さを。
「……我慢、しなくていいんでしょ?それならお言葉に甘えちゃおうかなぁ、と思ってさ……♡」
「……へ?」
間の抜けた声で返事をして、えぇっと……と視線を彷徨わせる。たしかに、そうは言った。言いました。でもそんなに急に思考を切り替えられると、追いつけないと言いますか……!
「大丈夫、無理はさせないし……いつもと様子が違ったら、ちゃぁんとやめるから。……それに」
そう言ってするりと服の裾から手が差し入れられる。くすぐったさに身を捩ろうとするも、がっちりと固定されていてまったく動けず抵抗は無意味に終わった。「っふ……」と鼻にかかった声が、抜けていく。耳が熱い。
「さっきまでと、熱さの種類が変わってるの……気付いてたよ♡ ふふっ、もう大丈夫そうだね?」
そうまで言われてしまうと、さっき「私の事情で我慢させたくない」などと言った手前、もう私は何も言えなくなってしまう。燃えるように熱い顔と耳の、茹るような……湯気でも出ているのではと思えるほどの熱さをうっすらと認識しながら、顔を寄せてこくりと頷いた。

悪友

2022/06/05


「おっすチヒロー!おまえと事務所で会うの、なんか久々だなー!」
資料室の扉が開いて、元気いっぱいの声が響く。棚いっぱいに並べられたDVDの背を眺めていた俺は、その声に苦笑をすると声の主を振り返った。
「トーちゃん、元気だねぇ……」
ひらひらと手を振ってからこちらへ歩いてきた彼は、俺の同業者――富士野飛沫丸こと|渋木藤次郎《トーちゃん》だった。メイトプロの中でも人気の男優で、趣味嗜好は違うものの気の合う友人でもある。いつも元気な彼の声は少々大きい。部屋のつくりのせいで声が響くので、思わずそう返事をした。
「俺から元気を取ったら何が残るんだよ」
「えー、俺にそれ聞かないでよ」
軽口を叩いて隣に立った藤次郎は、適当な相槌を打って資料室の棚に視線を注ぐ。
「おまえ、前まではめちゃくちゃ事務所にも顔出してたのに、彼女と暮らすようになってからぜんっぜん寄り付かなくなったからなー」
俺たちの仕事はスケジュールの都合もあり、よく会う同業者は自ずと多忙な相手になりがちだ。特に男優側の打ち合わせなんて、同じ制作会社分は複数まとめて行うことも多い。となると面倒なので同コンセプトの作品に出演する男優も同時に打ち合わせ……なんてこともままある。特に、うちの事務所では。それをさせているのも、そういう作品作りを嫌がらない男優ばかり雇っているのも、社長の手腕が大きいのだけれど……さすがだよなぁ、と育ての親でもあり、頭の上がらない相手でもある社長の顔を思い浮かべた。
「前はこっちにいすぎだっただけでしょ。顔はまあまあ出してますー」
「彼女同伴でだろーが」
「あはは、それはまーね♡」
笑ってから社長にすっごく懐いてるからなぁ……と言うと、藤次郎も「あー」と声を上げる。元々俺が粗相をしちゃったときに〝臨時マネージャー〟としての職を提示して短期間とはいえ雇用をしてくれたり、俺と付き合いだしてからもむしろ応援してくれたりと「俺よりもむしろ彼女へのサポートの方が手厚くない?」と言いたくなるくらいには、社長がいろいろとしてくれているせいか、すっかり彼女は社長に懐いているのだ。実家を勘当されていて、社長が育ての親みたいになっている俺としては嬉しくはあるんだけど。
「社長も人たらしだからなぁ……」
「ま、事務所に来たりうちのスタッフに会うのを嫌がったりしないでいてくれるー……って考えたら、ありがたいんだけどねぇ」
「はは、まっそれもそうか。つーか久遠さんが特殊なだけで、普通の娘さんだったら職業の時点で嫌がられてんだろ」
飽きたのか申し訳程度に置かれている作業机の方へ歩きながら、藤次郎はそう言って手を振ってみせる。
「ふふ、最初の出会いが現場とうっかり……っていうのもあるけど、ほんとにありがたいと思ってるよ」
「おーおー、遠慮なく惚気んなよチヒロ……」
呆れ顔をしながら椅子にドカリと座り込んだ友人の表情は、それでも柔らかい。なんだかんだ心配してくれてたもんなぁと、すこし笑う。
「いーでしょ、事務所のみんなには公認だし~♡」
にこりと笑顔を返して、ようやく資料棚に向き合いなおした。

◇ ◆ ◇

しばらく棚を物色して次の撮影の資料になりそうなものを数本引き抜くと、パッケージ裏面に目を通す。ややあって、しばらく無言でこちらを眺めていた友人が口を開いた。
「つーか、なんでまた最近資料ばっか借りてんだよ?」
さっき居場所を聞いたら岡持さんが呆れ顔で「チヒロさんなら《《また》》資料室ですよ」って言ってたぞと思い出したように尋ねられる。
「ふふ、なんでだろうね?」
「……あ?あー……もしかしておまえ、彼女に同じことさせてんのか?はぁ~マジか、俺あの子に〝チヒロのことこれからも宜しく頼んだ〟って言ったんだぞオイ。悪い娘に引っ掛かったんじゃねぇかってあの子のこと疑っちまったけど、どっちかっつーと悪い男に引っ掛かったのは久遠さんの方じゃねーか……」
盛大にため息をついたトーちゃんの冷ややかな視線とお小言が飛んできて、俺は肩を竦めて「俺、肯定も否定もしてないんだけどなぁ」と笑ってみせた。
「今さらしらばっくれるなよ……つーか岡持さんのあの態度と言い、絶対《《そう》》だろ。……んで、なんでわざわざ事務所のDVD借りてってんだ?自分の家に山ほどあるだろうが」
「あー、もうトーちゃんはそういうところデリカシーないんだから。……あのねぇ、俺の家にあるのは《《俺の出演作》》なーの。シチュエーション系とかならまだしも、いくらお仕事に理解があったって、彼女にがっつり女優さん映ってるやつ見せるのはどうかと思うでしょ」
頬を膨らませて藤次郎にそう指摘すると、またも盛大なため息をつかれる。疲れたように天を仰いで目頭を揉んでいる様子を見ていると、くたびれた休日のお父さん感が強い。
「……あのなー」
言葉を探しながら話し出した藤次郎が、おふたりさんの間のことだしあんまりお節介焼きたくねーけどよ……と苦虫を噛み潰したようなカオをする。
「理屈は分かるし理解もしてやるけど、おまえもおまえで気を遣う方向性がおかしいだろ……。いや百歩譲って〝好きな子と一緒にAV観る〟はいいんだよ、わかる。俺らの仕事はそういう連中のためでもあるわけだし!」
「別に久遠ちゃんも嫌がってるわけじゃないんだけどなー。さすがに彼女が本気で嫌がってることはしないし、塩梅は見極めてるつもりだよ?特殊系とか過激なのは見せないし……」
「おう、チヒロにひと欠片の良心が残ってて良かったわ。……じゃねぇんだよ!おまえなー、あの子がおまえにめちゃくちゃ甘いことくらい自覚あるだろうが」
「……?あるけど」
「キョトンとすんなよそこでよ。はー、俺はおまえの兄貴じゃねぇんだぞ……」
あー岡持さんみたいに俺もスルーしときゃ良かった。俺のミスだなーと呟いて、まどろっこしい言い方をしていても埒が明かないと思ったのか、彼はひと呼吸置いてから改めて言葉を紡ぐ。
「……見る見ないは彼女の意思だろ。チヒロの気遣いも尤もだけどな、最初から選択肢奪うんじゃねぇ。あの子は物分かりがいいから、おまえの遠慮も気遣いも汲んでくれるだろうけどよ……おまえら前にそれで揉めたんだろ。もう〝AV見せる〟なんつーとこまでお互い信頼しきってるにしても、たまには言葉にしろよ」
気遣いって言うと耳障りよく聞こえても、最初から選択肢を与えないっつーのは信頼してないようにも受け取れるからな、と注意されて俺は素直に「なるほど」と頷いた。
「おまえの女性恐怖症とか、久遠さんはよーくわかってるんだから余計だ。知らねえってんなら別だけどよ、あとはチヒロの心理的抵抗の問題だろ」
「んー、そういうものかな……。まあ今度機会を見つけて聞いてみよっかな」
うーんと若干難色を示しながら返事をすると、あの子の芯が意外と強いことに、チヒロだけが普段は鈍感なんだよなぁと頭を掻いた藤次郎のつぶやきが追ってくる。
「……友人の事情とか聞きたくねぇから聞いてこなかったけど、おまえ……その感じだと相当あの子に求めてないか……?」
「あはは、ご明察ー。なんだかんだほとんど毎日かな」
「はー……ほんと、悪い男に引っ掛かったのはあの子の方じゃねぇか。……今度またなんか差し入れしてやるか……」
仕事を終えたときよりもよほどげっそりとしたカオの藤次郎を見下ろして、俺はそっと笑みを返す。
――ま、その《《毎日》》も一回きりなわけもないし、差し入れは差し入れで《《そういうキッカケ》》に使ってるのは、秘密だけど。

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他人の視線

2022/05/28


「……は?」
一瞬、自分の目がおかしくなったのかと思った。見知った顔が、休日の真昼間から|こんなところ《アダルトショップ》に入ってきたからだ。
こんな仕事をしていれば、イヤでも見る顔が複数ある。売れてる女優の顔、売り出し中の女優の顔――それから、トップ男優の顔。
うちみたいにそれなりの店舗面積ともなれば、そういう品揃えもそれなりなので余計である。しかも立地はどデカいショッピングモールの中、新装開店したところ。別の店に来るついで……ごまかしが効くせいか、オープンしたばかりのショッピングモール中にある店舗だと言うのに、もうそれなりに常連も出来たほどだ。
店柄、若干辺鄙な通路の先にあるとはいえ……それでも繁盛している方だろう。
そうは言っても、人間心理と言うもので《《休日の昼間》》……つまり、ショッピングモール内に普通の買い物客が一番多い時間帯、店は閑散としている。理由は単純、ほかの誰かの目につくかもしれない……知り合いに見られているかもしれない、という心理が働くから。平日の昼間や夜だとこれが逆転して、結構忙しくなる。
――そんなわけで、大抵の店のピークタイムに暇を持て余しているわけだ。こうなってくると品出しも終え――というより、販路の都合上こういった商品は週末に使いたい人が多いからだろうか、週半ばの販売開始であることも多い――やることが〝防犯カメラ映像をぼんやり眺める〟くらいになるのだ。
一応レジに待機している店員がもう一人いるとはいえ、圧倒的に暇である。発注書の記載も手持ち無沙汰すぎて午前に終えた。
そんなとき、店にこの時間帯にしては珍しく来店があったのだ。バックヤードに設置されている店舗入り口用のセンサーが反応したので、間違いない。「お」と思いながら、入り口付近を映したカメラのモニタへと視線を移した。
――そして、先ほどの気の抜けた声を上げる羽目になったのだが。

◇ ◆ ◇

「いやいや……見間違うはずがない、よな」
まさにパッケージの中で見慣れた顔。ピンクの髪に甘やかなルックスをした長身の男性――業界でここ数年、不動のNo.1を誇るトップ男優。どうみてもその人である。
なぜうちの店にという疑問と、どう見ても親密な間柄なのであろう連れの女性に、頭の中は疑問符でいっぱいになった。
これでも職業柄、普通の人よりも無名女優にも詳しいつもりだ。今はグッズ販売がメインの店とは言え、系列店には映像作品をメインに扱う店も多い。だが、そんな脳をフルに稼働させても、とんと該当する顔に思い当たらない。そもそも防犯カメラ映像では、店舗入り口部分は遠景での撮影になっていて、はっきり顔立ちまで視認できる映像ではなかった。
「店長~ちょっといいですか?」
そんな矢先、レジに出ていたはずのスタッフがバックヤードへひょこりと顔を出す。渡りに船だと謎の興奮を覚えながら、ぶんぶんと手招きをした。
「……え、なんですかそのリアクション」
若干困惑……というよりは引かれた気がするが、この際気にしないことにしよう。いいから、と再度強く手招きをする。「えぇ……」と言いながらもやってきた彼に、モニタを指し示して質問を投げかけた。
「……このお客、見覚えない?」
「なんですかほんと。急に……ってえ?これ本物ですか?チヒロ……ですよね、どう見ても」
「って思うよなぁ〜!?」
同意を得て、思わず額に手を当てる。
「まぁ見間違いようがないというか。特徴的ですし……。え、プラベ来店なんですかこれ?」
「……多分」
「あー、じゃあ隣の……彼女さん」
「……うん、多分」
「そういやいつ頃からだったか、チヒロのプラスタに載る食事の写真がふたり分になったんですよねー」
「……チヒロのプラスタ見てるんだ……」
「いやまー、興味本位というか。モテようと思ったらめっちゃ参考になりそうじゃないですか?女性人気すごいでしょ、チヒロ」
「……いやうん。わかるようなわからないような、わかりたくないような……」
「まぁそんなこんなで、最近は更新ペース落ちてたのも上がりましたし。えーとほらこれですこれ」
「朝ごはんの写真……?」
「そうなんですけどほら、後ろにも同じメニュー映ってるじゃないですか。しかも茶碗が色違いサイズ違い。やっぱこの頃に彼女できたんですかね~」
すいすいとアプリの画面を立ち上げて見せてくれた写真には、和食メニューで構成された朝食の画像が上がっていた。写真のメインはなぜか主菜じゃなくてお味噌汁という、ちょっと不思議な構図ではあったが。写真奥でピントを外されボケてはいるが、確かに彼の言う通り、茶碗が色違いであることがわかる。
「ま、あれだけ人気の男優ですし彼女くらいいるでしょーけど。……にしても、女性の方……店長見覚えあります?」
彼の聞きたいことには察しがついた。男性向け作品でもトップの男優を務めながら女性向けのAVにも出ているほど、チヒロの出演作は多い。彼の所属するメイトプロは業界トップの男優が揃う事務所ではあるが、彼らはみな女優と違いメーカー専属の形ではないので、とにかく出演作品が多いのだ。すべてを網羅するのは無理だろう。
「……ないよ、それにプラスタにも一度も顔出ししてないんだろ?じゃあ一般人なんじゃないかなぁ」
「一般人で彼氏がトップ男優で受け入れられるってスゲ~……。心の広さ太平洋並みですか?」
「男優に惚れて勝手に自滅していく女優も多いのにねぇ」
こういう仕事なのだ、突然発売中止になったりするものもそれなりにある。必然的にそう言った噂を聞くことも多かった。
「やっぱそうですよねー。稀有な人種だな~。つーかまたなんでほんとウチなんかに来たんだろ、めっちゃ話し込んじゃいましたけど……今何してるんすかあの人たち」
「……えーっと」
スマホの画面を見たりしていたせいで、いつの間にか彼らは店内を進んでいた。モニタに移すカメラ画面を切り替えて、その姿を探す。
「あ、いましたね下着コーナーだ……」
「っていうか入店してからずっとがっしり手繋いでるんだよなぁ、アレはどういう意図なんだろう……」
「マジですか?レジからじゃ死角で顔も見えなかったんで……。ていうか見るからに顔真っ赤じゃないですか彼女さん。はー、彼氏男優でそれは平気なのにこういうの照れるんだ……?うわー希少〜」
「珍獣みたいな言い方するのやめようね……」
「いやでも店長考えても見てくださいよ。男からしたら夢みたいな人じゃないです?めちゃくちゃ下世話な話ですけど、男優相手で平気で多分同棲してるとなったら絶対やることはやってるじゃないですか。その上普段は初心なわけでしょ?マジで男の夢の具現以外のなんですか?」
「……わかった、わかったから落ち着こ?」
「うらやまし〜ッ!来世でいいからチヒロになりたいっすわ……」
「男優は男優で苦労しそうだけどね……」
一般人の彼女を選んだということは、業界の中ではソリの合う人はいなかったということなんだろう。モニター越しに見ているだけでも、幸せで楽しそうな様子が伝わってくる表情を浮かべる彼を見て、俺は初めて彼に人間らしさを見た気がした。なんでもこなせる男優、NGもない。
でも、男優としての彼は完璧すぎて——今までは別の世界の人のように思っていたところがあったのだ。だからなぜか、よくわからないけれど……繋いだ手を離さず、常に肩が触れそうな距離でいる彼らの様子に心底安堵した。
「あ、彼女さん試着室行きましたね。んじゃ店長、オレはしばらくレジ出てますねー」
そういえば彼が引っ込みんで来たときの用事はよかったのだろうか、と思いながらその背を見送る。

◇ ◆ ◇

「ありがとうございましたー」
退店していくふたりを見送って、ほっと息を吐いた。台風が過ぎ去ったかのような、謎の緊張感がある時間が終わり、どちらからともなく「ふぅ」と草臥れたため息が吐かれる。
結局、女性が何度か試着を繰り返している間に彼が会計を済ませて、その後彼らはまたも店内で少々イチャついた後……店を後にして行った。イチャつく、と言っても流れるように試着室から出てきた彼女の手を引いて、バイブを手にしたチヒロが耳元で何かを囁き、彼女は顔を真っ赤にして何事かを返事をしている様子で。その後、頭を撫でられキスをされて半ば誘導されるような退店である。アレでは自分の着替え中に何かを購入したことなど気付きようもないだろうなぁ、と一部始終を目撃して舌を巻いた。退店時も手を繋いで、身体を寄せるようにして歩く様は、なんというか。
「……絶対他の男は近寄らせない、って意志が凄かったですねー」
ああ、それだ――と。得心して、意外な一面を見たなぁと僅かに笑った。